伯爵令嬢に迫る影③
「浮かない顔をしているな」
涼やかな声で言われ、リネットは顔を上げた。
場所は、王孫クリスフレアの私室。部屋の内装や調度品は淡い色合いで揃えられており、クッションやカバーなどの縁にはひらひらのレースが。窓辺には、大きなくまのぬいぐるみさえ鎮座している。
凜とした美しい姫は、無類の可愛いもの好きらしい。
(……いけない。せっかくお茶に呼んでくださったのに……)
「いえ、少し寝不足なだけです」
「……本当にそうか? まさか、叔父上にあんなことやこんなことを強制されて寝不足なのではないか?」
「え、ええと……そのようなことは、ないかと」
「ふむ? では……王宮に潜む膿関連か」
クリスフレアはほっそりとした眉を寄せて、ティーカップを下ろした。
「先日は、国王が無礼なことをした。……すまなかったな、リネット。さぞ気持ち悪かったことだろう」
「い、いえ、そのような……」
「本当に、私の祖父であることが恥ずかしくてならない。……もう棺桶に片足を突っ込んでいる年だというのに、いつまで経っても女の尻を追いかけてばかり。まだ自分は若かりし頃の色男のままだと思い込んでいるのならば、鏡をじっくり見ろと言いたい」
クリスフレアが苦々しげに祖父を罵るのを、リネットはなんとも言えずに見守っていた。
一度、廊下で国王一行と鉢合わせをしたことがあるが、それ以降は接点を持たずにやっている。
どうやら国王は何度か王太子やクリスフレアに「エルドシャイルの幼なじみを連れてこい」と命じたそうだが、親子共々一蹴したそうだ。
「リネット、私に言いにくければ他の誰にでもいい。嫌なことがあれば、我慢せずに言ってくれ。私も父上も、叔父上が大切に慈しむそなたの味方だ」
「殿下……ありがとうございます。しかし普段から、王太子殿下やクリスフレア殿下には頼らせてもらっております」
「ああ、もっともっと頼ってくれ。……まあ、色ぼけした老いぼれはどうにでもなるとして、厄介な貴族も沸いているようだな」
クリスフレアが切り出したので、リネットは「そんなことはありません」と言おうとして――一旦口を閉ざし、そして小さく頷いた。
「……私とエルドシャイル殿下の距離が近いことをよしとしない方が、たまに見られます」
「ああ、叔父上からも聞いている。デュポール侯爵あたりだな」
その名を告げるときのクリスフレアの表情は、ゆがんでいた。
「……あの男は、面倒くさい。なんといっても、権力を持ちすぎているし……あれの甥が王家の血筋であるのも事実だからな」
「……オーレリアン様ですね」
デュポール侯爵の甥であるオーレリアン・デュポールは、先代国王を祖父に、デュポール侯爵の妹を母に持っている。
先代国王が暗君として王宮を追放された後、その息子も王子の身分から追い落とされた。そんな孤独な元王子を引き取ったのが、先代デュポール侯爵だった。
彼は自身が所有する屋敷の一つを元王子に与え、自分の娘を世話係としてそばに置いた。――後に娘が懐妊して男児を産んでまもなく、元王子は「病により」急逝したとされている。
父の跡を継いだ現デュポール侯爵は、父親のいない甥を引き取って自分の手元で養育している。オーレリアンは、妹が産んだ王家の血を継ぐ男児。
これは――色ぼけ老人の血筋と言われても仕方のない王太子やクリスフレアよりも国王にふさわしい、という者が出てもおかしくない状況だった。
「私も父上も、侯爵やオーレリアンには警戒している。……だが、あれは立ち回りがうまい。万が一あやつが王位簒奪をもくろんでいたとしても、確固とした証拠がない限り問い詰めることはできない」
クリスフレアの言葉に、リネットはドキッとした。
クリスフレアは、リネットが経験した一度目の人生で自分の父親が侯爵によって殺されたことを知らない。それなのに彼女は今の時点で既に、侯爵を「自分たちの存在を脅かしかねない者」として確かに認識していた。
「そんなあやつらからすると、叔父上やそなたの醜聞は非常に美味な馳走だ。嬉々としてそれに食いつき、ゆくゆくは私たちを蹴落とすための材料にするだろう」
「……本当に、ご迷惑をおかけします……」
「いや、そなたらは非常にうまく切り抜けている。……人が人を想い合うのに、政治的思惑なんて挟むべきではない。本来なら、そなたらは私たちとは関係なく幸せになってしかるべきなのだからな……」
クリスフレアが遠い眼差しをして、紅茶を一口すすった。
リネットもかなり冷めてきた紅茶を口に含み、思案する。
(……王太子殿下やクリスフレア様は、守られている。でもシャイル様や私はそうでもないから、侯爵としても私たちの方が狙いやすい……)
何かの機会があれば、リネットたちを引っかけるチャンスを狙うのではないか。
「……そういえば四日後には、国王が主催する舞踏会があるな」
クリスフレアに話を振られ、リネットは今後の予定を頭の中に思い浮かべて頷いた。
「そうですね。……確か、国王陛下と亡き王妃殿下の結婚記念日でしたか」
「ああ。普段ならば贅沢せずに大人しく引っ込んでいろと言えるのだが、さすがに祖父母の結婚記念となれば我慢するしかない」
クリスフレアはため息をつき、自分とリネットのカップに新しい茶を注ぐようメイドに命じた。
「王妃殿下が存命中ならばともかく、亡くなって早六年――しかもかなり前から仲は冷え切っていたとのことだ。ただ国王が馬鹿騒ぎしたいだけだろうが、王妃殿下と懇意だった貴族や近隣諸国の使者も来るのだから、私たちも王族として参加しなければならない」
「エルドシャイル殿下も、途中までは参加なさるのですよね」
「ああ。とはいえ主催は一応国王だから、私も叔父上も最初の挨拶だけをしたら引っ込む予定だ。……国王は叔父上のことは可愛がっているが、私のことはどうでもいいようだからな」
そう言うクリスフレアだが、言葉には寂しげな色は一切なかった。
国王は強気なクリスフレアのことを「可愛くない」とはっきり言っており、しかも自分の取り巻きの息子や孫などをよくも考えずに婿として推薦してくるため、クリスフレアも相当嫌っているそうだ。
(本当に、何か理由を付けてさっさと追い出した方がこの国は平和になるわよね……)
だがひとまず、国王のことはいいとして。
(シャイル様にも見せてもらったけれど、この舞踏会には多くの貴族が参加する)
その参加者一覧に、デュポール侯爵と――ついでにブール伯爵一家の名前もあった。
なお、リネットの実家であるアルベール伯爵家は収穫の時期であることを理由に断ったそうだ。それで正解だ、とシャイルは言っていた。
(まさか、国王の主催するパーティーで何かをしてくることはない、と信じたい。でも……)
「……あの、殿下。一つ、ご相談がございます」
「何だ、言ってみよ」
そう言ってテーブルに身を乗り出すクリスフレアの目は、少しだけ楽しむような光を孕んでいた。




