伯爵令嬢の戦い④
報告会を終え、リネットはこれから王太子のもとに行くというシャイルを部屋まで送ることになった。
「……それにしても、怪我人がほとんど出なくてよかったですね」
リネットが言うと、シャイルは頷いた。
「そうだな。それに、負傷者といっても避難の際に転倒した者くらいだ。嫌な噂も広まるのを阻止できたし……本当に、リネットのおかげだ」
「そ、そんなことないです。ほら、私に指示を出したのはシャイル様ですし」
「それはそうだが……」
かつん、とブーツの音を立ててシャイルが足を止めたので、リネットも立ち止まる。
シャイルの腕がゆっくり上がり、ハーフアップでまとめているだけのリネットの髪を一房、手に取った。
「……」
「……シャイル様?」
「ああ、いや。……おまえの髪は、とてもきれいだと思って。おまえが髪をなびかせて宙を跳ぶ姿は――とても、美しかった」
無言で髪をいじるので何かと思ったら、褒められた。
リネットも自分の柔らかい赤茶色の髪は結構気に入っているので、「ありがとうございます」と言おうと顔を上げて――す、と小さく息を呑んだ。
シャイルが、意外なほど真面目な顔でリネットの髪の房を見ていた。指先ですりあわせ、軽くくしけずり――。
丁寧な手つきだが、その目は真剣で……しかも。
(シャイル様……悲しそう……?)
髪を褒めているというのに、褒めた本人はどうにも悲しそうな顔でリネットの髪を撫でていた。
「……あの、どうかなさいましたか?」
「……リネットは、髪をこのまま伸ばすのか?」
「え? ……そうですね、特に何もなければほどほどに伸ばそうと思います」
今のリネットの後ろ髪は、肩甲骨の下あたりの長さになる。貴族令嬢としてはやや短めなのは、王宮に出仕すると決めたときに少し切ったからだ。
(そういえば一度目の私は、戦いの邪魔になるからって切ってしまったのよね……)
周りのメイドたちは泣いて止めてきたが、リネットの意志は変わらなかった。それでもなお皆は鋏を持ちたがらないので、結局不慣れなのは承知でミラに頼んだ。
当時腰ほどまであった髪は、首筋が見えるほどまで切り落とした。もっさりと床に積まれた髪の房を見て、何人かのメイドは気絶した。
その後シャイルに会いに行くと、かなり驚いた顔はされたが「短い髪も似合っている」と言ってくれたものだ。
(……あっ、もしかしてシャイル様、ショートカットも好きだったりして……)
「でもシャイル様がお好きなら、短く切りますよ? こう、肩の上までばっさり――」
「やめろ!」
右手の指で鋏を模してざっくり切り落とすジェスチャーをした途端、底冷えするような低い声でシャイルに言われた。
ぎゅ、と彼の拳がリネットの髪を掴んだまま固められている。だが髪が傷むとも言えず、リネットはおずおずとシャイルを見上げた。
シャイルにこんな厳しい命令口調で……しかもたかが髪型の話題で言われるとは思っていなくて、胸の奥がしくしく痛むように冷える。
シャイルは――怒っていた。
間違いなく、怒っている。
「シャイル……様……?」
「殿下。いくら何でも語調が強すぎです」
さすがに見逃せなかったのか、それまでは黙って付いてきていたミラが割り込んできた。
それでシャイルも我に返ったのか、凍てつくような眼差しだったハシバミの目がはっと瞬かれた。そして自分がリネットの髪を握りつぶしているとやっと気づいたようで、慌てて手を開く。
「……す、すまない。その……リネットは長い髪の方が似合うから、切らないでくれ」
「わ、分かりました。そうします」
「殿下……リネット様がショートカットになったっていいじゃないですか。そんなにカリカリすることですか?」
ミラ同様割り込んできたエルマーも呆れた様子だが、少々困った顔をしている。彼も、自分の主君がまさかリネットの髪型ごときで声を荒らげるとは思っていなかったのだろう。
エルマーにも軽く叱られ、シャイルはばつが悪そうに目線を逸らした。
「いや……髪の短かったリネットより今の方がいいと思って」
「えっ? 私、ずっと髪は長いのですが……」
「……。……いや、そうだな。短かったのは……子どもの頃の話だ」
シャイルは言い直すが、なんだか引っかかりがある言い方だ。
彼は改めてリネットに理不尽に命令したことを謝ると、エルマーを連れて去っていった。
残されたリネットがぽかんとしていると、そっとミラが声を掛けてきた。
「……大丈夫ですか、リネット様」
「え、ええ。でも……ちょっと驚いて」
「私も驚きました。……確かリネット様は私と知り合ってすぐの頃は、今より御髪が短かったですね。その頃よりも今の方が素敵だ、とおっしゃりたいのかもしれません」
ミラはリネットを慰めつつ、シャイルの態度についてもフォローしてくれた。
(確かに、子どもの頃は今より短かったわ。……でも、ショートカットだった頃なんて本当に三つか四つくらいの頃までだったはず)
まだまともに喋れない頃はともかく、それなりの年になったらリネットも貴族令嬢として髪を伸ばすようになった。
それにしても、先ほどシャイルの口走った「髪の短かったリネット」が気になる。
それはまるで、髪が短い状態のリネットを見たことがあるかのようで――
(――シャイル様も、一度目の記憶がある……?)
そんなはずはない、と自分に言い聞かせようとして――しかし、「そんなはずはない」と断言できる理由がないのだと分かって愕然とした。
(……この前、四人で下見に行ったとき)
シャイルの希望で薬屋に寄ったのだが、彼が熱心に見ていた薬は――解毒剤だった。
それに、以前クリスフレアも言っていた。少し前から、シャイルは憑き物が落ちたかのように明るくなったと。
もし、もしも。
シャイルもリネットとほぼ同時期に、一度目の人生を思い出したのだったら?
彼もまた、戦乱の未来から過去に戻ってきたのだったら……?
(……いえ、でもそれにしては妙だわ)
ミラを伴って歩きながら、リネットは焦りそうになる自分を叱咤して、必死に頭を働かせる。
仮に、シャイルもまたあの血みどろ継承戦争の未来からやって来たとする。彼にも一度目の人生の記憶があり……リネットのように、王太子暗殺事件を防ごうとしていると。
だがそれにしては、彼の言動がちぐはぐな気がした。
(一言では言えないけれど……あの四年後の記憶を持ったままシャイル様もやり直しているとしたら、少し性格や言っていることがかみ合わない気がするのよね……)
一度目のリネットは、侯爵を討った後に侯爵軍に襲われて死亡した――はずだ。おそらくシャイルのもとにもリネットの戦死が通知されるはずであるし、最終的には遺骸も届いたはずだ。
だがそんな未来を知っているのだとしたら彼の性格を考えるとむしろ、リネットを戦から遠ざけようとするのではないか。
それなのに、今のシャイルはリネットを遠ざけるどころか一度目以上に接近してきて近くに置き、「一緒に戦おう」と告げた。
(それに、確かに一度目の私は髪を短く切ったけれど、あんなに血相を変えて止めることかしら……?)
もしかすると、全てリネットの気のせいなのかもしれない。
自分が人生をやり直しているからこそシャイルの一挙一動に過敏に反応して、「彼もやり直している」と思い込んでしまっただけなのかもしれない。
(……その方が、いいわ)
シャイルは、何も知らなくていい。
……知らない方が、リネットはきっと迷わずに済むから。




