王子の誓い④
公爵邸の庭で馬車に乗ったときは険悪な空気が漂っていた車内は、王宮に着く頃にはそこそこ和やかな雰囲気になっていた。
「おかえりなさいませ、エルドシャイル殿下、リネット様」
「ただいま戻った、ミラ」
「お留守番ありがとう。何もなかった?」
「ええ、こちらはなんともなく」
シャイルの執務室に戻ると、ミラが出迎えてくれた。部屋の窓から馬車の姿が見えていたようで、使用人がシャイル用の茶の準備をしてくれている。
「リネット様のお茶は、お部屋に戻ってからお淹れしますね」
「ええ、もちろんよ」
(それに、今日のことをすぐにミラに教えておかないといけないわ)
ミラがこっそりとささやいたので頷き、リネットはシャイルに向き直ってお辞儀をした。
「では、エルドシャイル殿下。私たちはここで……」
「ちょっと待ってくれ、リネット」
厳しめの声で、止められた。
おそるおそる顔を上げると、脱いだ上着をエルマーに渡していたシャイルがじっとリネットを見てきた。
「返事の件については、了解した。だが、俺の方からおまえに頼みたいことがある」
「は、はい」
(うっ……「返事」と聞いてミラが、こっちを見ている……)
彼女からすると、どう考えても恋愛がらみの匂いのする「返事」なる単語に驚くのも仕方ないことだろう。
「まず。……おまえは俺のことを相変わらずエルドシャイル殿下と呼ぶが、昔のようにシャイルと呼んでくれ」
「それは……」
「もちろん、公の場では正式名称で構わない。だが、周りにエルマーやミラくらいしかいないときくらいは、俺のことを……名で呼んでくれないか」
最後は懇願するように言われてしまい、リネットはぎこちなく頷いた。
「……かしこまりました、殿下」
「言い直し」
「し、シャイル様……」
「ありがとう。……それから、もう一つ。こちらは頼みたいことというより俺の決意表明だな」
そこでシャイルの体が動いてリネットの前に立ち――とん、とリネットの顔の両横から伸びたシャイルの腕が、背後のドアに手を突いた。
彼の真剣な顔が、かなり近い距離にある。その向こうには呆れ顔のエルマーと、目をかっ開くミラの顔が。
(シャイル、様……!?)
「あ、あの!? 距離、近――」
「公爵邸でも言ったように、俺はおまえとの関係について誤解を生じさせないよう、これから配慮する」
「あ、ありがとうございます……」
「そういうことで、俺は遊びでもその場しのぎの言い訳でも何でもなく、心からおまえのことを好いているということをきちんと公にしようと思う」
(……ん?)
ぱちり、と瞬きする。
瞬きすれば今の幻聴が頭から消えるかと思ったのに、消えるどころか発言者はますます真剣な顔で迫ってくるのみだった。
「俺はアルベール伯爵領で暮らしていた頃から、リネットのことが好きだった。他の女性に目移りするつもりは一切なく、リネットに振り向いてもらえる男になるよう、これからおまえへの想いを口と態度に表す」
「口と、態度……」
それは、つまり。
呼吸をするために薄く唇を開いて固まるリネットを、シャイルはふわっとした笑顔で見下ろした。
そしてドアに突いていた片方の手でリネットの右手を取り、その指先に軽く唇を押しつけた。
「リネット、可愛い。……好きだ」
「……んんんっ!?」
「……こういことを、日々心がける」
ぱっと離された手をリネットが庇うように胸元に寄せると、シャイルは小さく笑ってもう片方の腕も外してくれた。
「リネット。おまえの返事……いつまでも、待っている。おまえが笑顔で諾の返事をくれるよう、俺も努力するからな」
シャイルに詰め寄られたリネットはふらふらの足取りで部屋に戻り、ソファに座るなりぐったりと倒れ込んでしまった。
「今日一日で、体力も精神力も使い果たしてしまったわ……」
「……いろいろ尋ねたいことはございますが、まずは湯浴みの後にお召し替えをして、夕食を召し上がってください」
ここまでリネットを支えて連れて帰ってくれたミラに言われて、リネットは力なく頷いた。
ミラもいろいろ気になることがあるだろうが、疲労困憊状態のリネットに矢継ぎ早に尋ねることはしなかったのがありがたい。
リネットは質素なドレスを脱いで湯に浸かり、マッサージもしてもらう。体を締め付けないゆったりとしたガウンを着たら、給仕係が持ってきてくれた夕食を胃に収める。
食後の茶を提供する段階になっても、ミラは今日のことには一切触れなかった。
(私が一人で頭の中を整理する時間を持たせてくれている……)
ミラの気遣いには本当に、感謝しかない。おかげで、ミラにどのような手順で話をしようかということをゆっくり考えられた。
食後のフルーツティーを味わった後、リネットから切り出した。
「その……今日のことについて、報告するわね」
「はい。リネット様の話しやすいようにおっしゃってください」
そう言うミラを向かいの席に座らせて、リネットは公爵邸や馬車の中で起きたことをかいつまんで説明した。
ミラの表情は最初からあまり優れていなかったが、怒っているというよりは悩んでいるようだった。彼女もリネットが仕度をする間に、いろいろ考えたり話の内容を予想したりしていたのだろう。
「……なるほど。デュポール侯爵の挑発を受けたことをきっかけに、エルドシャイル殿下がリネット様に告白した。リネット様は殿下のことを好いているけれど、様々なことを考慮した結果、返事は保留にしてもらっているのですね」
「……そんなところ」
「まあ、ひとまずは……おめでとうございます、と申しておきます」
「うん……ありがとう」
ミラの声は優しくて、話をしながらも肩にこもっていた力を少しだけ抜くことができた。
ミラには、シャイルに想いを寄せていることを教えている――というより、そういう設定だと思ってもらっている。ミラとしても、主人の恋が成就する一歩手前というのは喜ばしいことのようだ。
「しかしリネット様は、デュポール侯爵などエルドシャイル殿下やクリスフレア殿下にあまり好意的でない貴族たちが悪巧みをすることを思い、すぐには返事をしない方がよいと判断されたということですね」
「ええ。……シャイル様を待たせることにはなってしまうけれど」
「それについては……多分、問題ないです。……殿下は、リネット様がご自分に寄せる恋心にはっきり気づいてらっしゃるようですし」
「……うん。ちょっと憎らしいくらい、はっきり言われたわ」
(……冷静になって考えてみると、それってすごく恥ずかしいことよね……)
元々シャイルは人の感情の変化には敏感な方だったが、それと他人の恋心に鋭いかはまた別の感性ではないか。
だがシャイルは間違いなく、リネットの恋に鋭く気づいている。
だからこそ、「待つ」と楽しそうに言っていたのだろう。
うんうん考え込むリネットに、ミラが告げた。
「……御年二十一歳でありながら決まった相手も持たなかった殿下がリネット様への愛情を公にしたというのは、私としてはよいことだと思います」
「それは、政治的な面で?」
「ええ。……リネット様も、聞かれたことがあるかもしれません。叔父と姪の関係であるエルドシャイル殿下とクリスフレア殿下は、実はお互いを想っているのだ……という根も葉もない噂について」
聞いたことがあるかもしれないどころか、一度目の人生で嫌というほど聞かされた。
リネットが顔をしかめたのをいいように解釈してくれたようで、ミラは肩を落とした。
「もちろんクリスフレア殿下も否定なさっていますが、人は下世話な噂により群がってくるもの。あることないことが噂されていたのです」
「……そんな中、シャイル様が多くの貴族の前で、私に告白した……」
「はい。そしてエルドシャイル殿下の性格を考えると、それでもなお下世話な噂をまき散らす者には容赦なさらないでしょう。殿下と良好な関係を築かれている王太子殿下やクリスフレア殿下にも祝福されたなら、お二人の恋を阻むような命知らずはそうそう現れないはずです」
公爵邸でシャイルが言っていたように、ぼんやりとした噂を流したままにするのではなくてはっきりしてしまう方が、かえってリネットにとってもシャイルにとってもよいことになるのだろう。
もちろん、今後一度目のような「エルドシャイル殿下は本当はクリスフレア殿下が好きだが、仕方なく伯爵令嬢に告白した」という噂が流れるか流れないかは、リネットたち次第だ。
だが、貴族たちをうまく制御できれば……むしろ、一度目よりもよい未来になるかもしれない。
そこでミラは表情を和らげ、そっとリネットの手を取った。
「……まあ、そういう政治的な思惑は別としてでも。私は、リネット様の恋が成就しそうなことを心より嬉しく思います」
「ミラ……」
「ご不安なことがおありでしたら、何でもお申し付けください。……リネット様がお望みのように暮らせるようにすることが、私の役目です。エルドシャイル殿下付きの……エルマーも職務には真摯なようですし、きっと彼も力になってくれるでしょう」
そう言って握ってくれるミラの手は、温かい。
(私は……一人じゃない)
恋も使命も、一人で背負い込む必要はない。
全ての真実を告げることはできなくても、リネットを支えてくれる人はいる。
「……うん。ありがとう、ミラ」
握り返した手は、柔らかくて優しかった。
リネットとミラが去った後、シャイルはエルマーから説教の続きを受けていた。だが途中からは、シャイルの意思確認のようになっている。
「……ということで。これからデュポール侯爵をはじめとして、エルドシャイル殿下や王太子殿下、クリスフレア殿下に生意気な態度を取っている貴族どもはきっと、リネット様をも標的にするでしょう」
「間違いないな」
「……殿下は、何があってもリネット様をお守りするのですよね?」
「守る。……リネットを愛しているという気持ちを己の原動力にしても、弱点にはしない。絶対にだ」
シャイルがはっきりと言うと、エルマーはやれやれと肩を落とした。
「……分かりました。じゃ、僕もそのように動かせてもらいますね」
「すまないな。いつも助かっている」
「どういたしまして。……じゃ、僕はそろそろこのへんで」
「少し待ってくれ、エルマー」
シャイルに呼び止められたため、エルマーは意外そうな顔で振り返った。
シャイルは座っていたソファから立ち上がると、エルマーに詰め寄った。
静かな部屋の中にいるのは、シャイルとエルマーの二人のみ。
「……俺のことをいつも考えてくれて、助かる。だが……おまえのプライベートも大切にしてほしい」
「……珍しいですね。でも僕、ちゃんと息抜きとかもしていますし、実家にもまめに顔を出していますよ」
「分かっている。……おまえ、ミラのことが好きなんだろう?」
はっきりと言われ、エルマーは「げっ」とうめいた。
「ええ、まあ、そうですけど……何なんですか、殿下? 最近恋だの愛だのに妙に敏感になっていませんか? 昔はもうちょっと朴念仁だったでしょう?」
「いいから。……おまえはリネットの侍女のミラを好いている。最近贈り物をしたりおちょくったりしているが、実はかなり本気で交際をしたいと思っている。……そうだろう?」
「……。……ええ、そうです。アタックしても本人には、毛虫でも見るような目で睨まれるだけですけどね」
エルマーはあははっと笑い、視線を逸らした。
「多分、僕が遊びで迫っていると思われているんでしょうね。そりゃあ僕、顔がいいですし、いかにも遊んでいそうな雰囲気ですものねー。ミラさんみたいな真面目な人からすると、恋愛対象にもなりませんよねー」
「いや、おまえが誠実に迫ればきっと頷いてくれる。だから……諦めるなよ」
シャイルが真面目に言うと、さしものエルマーも笑みを消した。
「……変な感じですね。殿下、もしかして僕の頭の中でも見えているんですか? それともまさか、未来が見えるとか?」
「俺はそんな高度な魔法は使えない。……とにかく、俺に付き従ってくれるのは嬉しいが、恋などにも真摯に向き合ってくれ。……俺から言いたいのは、それだけだ」
「ええ、まあ、はい、了解しました」
まだ解せないようではあるが、エルマーはお辞儀をして執務室を出て行った。
静かに閉められたドアを見つめ、シャイルはふうっと息をついた。
「……もう、おまえまで不幸にしたくないんだ」
その呟きが誰かの耳に届くことは、なかった。




