王子妃の末期①
――ここが、人生の分岐点だった。
「リネット。おまえは王宮を離れてくれ」
そう言うのは、深紅の髪をなびかせた貴公子。
喪に服しているためジャケットやスラックスなどは黒一色で、物故者の三親等内であるため黒百合の花を模した飾りを胸に付けている。
シャルリエ王国王太子・エリクハインが死んだ。死因はおそらく、毒。
王太子の座が空席になったことで、継承問題が起きた。候補は王太子の嫡子である姫と、王太子から見ると従甥にあたる少年貴族。
王宮は、二派に割れた。二十代の姫を推す者と、年齢一桁の少年を推す者。病床にある国王は、全く当てにならない。
もうすぐ、王座を懸けての争いが始まる。
リネットはごくりと唾を呑み、しばし迷った。
深紅の髪の貴公子――亡くなった王太子の異母弟である王子・エルドシャイルは、静かな眼差しでリネットを見つめてきている。
彼はリネットに、王宮を去れと言う。
それは――これから継承問題に挑む彼なりにリネットのことを考え、戦渦に巻き込ませたくないと思ってくれたから。
リネットの返事は、二種類。
エルドシャイルの言うとおりこの王宮から去るか、それとも彼のそばにいるか。
(私は……)
どく、どく、と血潮の流れを全身で感じる。
リネットは、迷った。
そして――ゆっくりと、首を横に振った。
「いいえ。私は、ここに残ります。シャイル様、あなたと共に戦います」
「……だめだ。おまえは戦闘訓練を受けたわけではない、王宮使用人だ。クリスフレア殿下に付くとなった以上、デュポール侯爵たちはおまえをも標的にするだろう」
「はい、覚悟はできています。……私は、魔法が使えます。あなたやクリスフレア殿下の盾になれます。ほんの少しでしょうが、戦力になれます」
言葉は、よどみなく出てくる。
もう、決めた。
自分はもう、人生の分岐点で選んだ。
エルドシャイル――シャイルと共に、王太子の嫡子・クリスフレアの支援者として戦う道を。
リネットは使用人用ドレスの裾を摘まみ、エルドシャイルの足下に跪いた。そして、彼が纏うコートの裾を摘まんで、口づけを落とす。
「シャイル様、どうか私をおそばに置いてください。あなたとクリスフレア殿下のために、私は戦います」
「リネット……」
「……もう、あなたと離ればなれになりたくないんです……!」
最後の言葉は、震えていた。
絞り出すようなその声を聞いて頭上でエルドシャイルがはっと息を呑み、リネットの肩を掴んで立たせた。
彼の眼光鋭いハシバミの目には、唇を引き結んで決意したリネットの顔が映り込んでいる。
「……ここに残れば、人の死を見ることになるだろう。満足な衣食住の保証もできない」
「覚悟の上です」
「いざとなれば……魔法使いであり伯爵令嬢であるおまえにも、出陣命令が下るかもしれない」
リネットの実家であるアルベール伯爵家は歴史があるだけで権力は弱いが、それでも「伯爵令嬢の出陣」となると兵たちを奮い立たせられる。
(それでいいわ)
この体が、命が、エルドシャイルのためになるのなら。
「はい。……共に参らせてください、シャイル様」
「……。……すまない、リネット」
凜としたエルドシャイルの顔がゆがみ、そしてきつく抱きしめられた。
リネットは、シャルリエ王国の東の端っこを領土に保つアルベール伯爵家の長女として生まれた。伯爵領は大半が緩やかな丘陵地帯で、一家の居城でさえ緑に囲まれていた。
シャイルは、リネットが覚えている一番古い記憶の中にも存在していた。
気がついたらそばにいて、伯爵のもとで一緒に育った。
父が言うに、「シャイル様は実は尊い生まれで、事情があって伯爵家で預かっている」とのことだった。
リネットより三つ年上の彼とは幼なじみや兄妹のような間柄ではあったが、目上の者として接するよう言い聞かされていた。
それなりに大きくなってから分かったのだが、シャイル――本名エルドシャイル・ティトルーズはここシャルリエ王国国王の実子、つまり王子様だった。
国王には王妃がいるが、彼は五十近くになって若く美しい子爵令嬢を手込めにした。
国王の愛妾となった彼女は最初こそ国王の寵愛を一身に受けていたが、息子エルドシャイルを産んだあたりから一気に愛情が冷め、親子で離宮に閉じ込められるようになった。
頼るあてもない愛妾は次第に体を弱らせ、痩せ細っていった。
それを聞いた国王は、エルドシャイル共々離宮を離れて静養するよう命じた。もちろん、エルドシャイルからは王位継承権を取り上げた上で。
――だが国王は命じるだけ命じて自分は何もせず、息子を抱えた愛妾は兄の友人であるアルベール伯爵を頼った。
伯爵はすぐに療養場所を準備したが、息子を安全な場所に託せると安心したのか、愛妾はまもなく息を引き取ってしまった。
こうして、王子でありながら継承権を持たないエルドシャイルは、伯爵のもとで養育されることになった。
万が一のことを考えて彼が伯爵領にいることは伏せられて、しかしもし彼が王宮に戻ることになっても支障のないよう、伯爵は自分の子であるリネットや弟以上に教育に力を入れていた。
エルドシャイルは、若い頃は令嬢たちを虜にしたという国王と美しさが目に留まった愛妾の子だけあり、並外れた美貌を持っていた。
柔らかな深紅の髪と鋭いハシバミ色の目は母親譲りで、騎士たちと共に鍛えた体は少年期からたくましかった。
子どもの頃から出不精なリネットは屋敷で魔法の勉強をすることが多かった一方、魔法の才能がいまいちだったエルドシャイルは剣術や武術を鍛えることにしたようで、よく庭で鍛錬していた。
大人の騎士たちに交じって剣の素振りをするエルドシャイルを、リネットは自室の窓からのぞき見ていた。
(今日もシャイル様は、とっても格好いい……!)
幼い頃から一緒にいる、美しき不遇の王子。
そんな彼はリネットの初恋の人で、しかもそれは成長してからも続いていた。
窓の外にいるシャイルが、ふとこちらを見た。慌てて魔法の本で顔を隠し、しばらくしてそうっと顔を上げると、もうそこにシャイルの姿はなかった。
リネットが見ていることに気づいて、鍛錬をやめてしまったのだろうか。
申し訳なさと残念さでため息をつくと、まもなく部屋のドアがノックされた。
「リネット。俺だ」
「シャイル様!?」
慌ててドアを開けるとそこには、木刀を手にしたままのシャイルが。
十五歳になった彼は十二歳のリネットが見上げなければならないほど身長が伸び、体も大きくなっていた。
子どもの頃にはなかった喉の出っ張りや太い二の腕を見ると胸が高鳴ってくるし、首筋を流れる汗を見るとその色っぽさにクラクラしそうになる。
シャイルはリネットを見ると、「……その、なんだ」と言葉を濁す。
「……俺に、何か用があったのか?」
「えっ!? い、いえ、そうではなくて……その、シャイル様の鍛錬される姿を、見ていただけで……」
「なんだ、そうか」
少し残念そうに言った後、シャイルは咳払いをした。
「……もうすぐ、休憩だ。おまえも魔法の勉強、疲れているんじゃないか。一緒に菓子でも食べないか」
「いいんですか!? ありがとうございます、行きます!」
リネットがぱっと顔を輝かせると、シャイルはそっぽを向きながらも頷いてくれた。
差し出された手は大きくて、緊張しながらその手を取ると優しく握られる。体を近づけると、土と草の混じったようないい匂いがした。
(シャイル様、好きです)
言葉にはできない……してはならない想いを、心の中だけで告げる。
今は握っているこの手も、いつか離れていくかもしれない。
彼は妾腹といえどこの国の王子で、リネットは田舎貴族の娘に過ぎない。王宮のパーティーへの招待状なんかも届かないから、もしシャイルが王宮に戻れば彼に会うことは非常に困難になる。
だから、今彼と一緒にいられる一分一秒を、大切にしたい。
そんな願いを込めて、リネットはシャイルの手を握った。