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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

人魚人

作者: 墨太郎

 福栖は泣きそうな顔で学生服のズボンとパンツを同時にをずり下げた。思ったよりも足は生っぽい白さをしている。

 「ほら、見てくれよ。」

 彼の足の付け根はつるりとしていた。あるはずのものが無かった。


 福栖が夏休みに友人と海に行って、波にさらわれ行方不明になったのは夏休みに入ってすぐのことだった。クラスは同じでもグループが違うとほぼ喋らない。福栖は教室の中心でがやがやと五月蠅いが不良というわけでもない、適度に遊び適度に勉強もできるという一番得なグループに属していた。一方俺はというと隅の方で趣味のゲームや漫画なんかの話に花を咲かせるいたって地味な一派だった。

 情報通の友人から連絡があり、福栖が海で行方不明になったと聞いた時これはもうだめだろうと正直に思った。俺は一昨年行った祖父の葬式を思い出す。話はすぐに広まり、ニュースでも取り上げられた。今地元の有志や警察が総出を上げて捜索しているらしいが海に飲まれた者が見つかる確率はどれほどなのだろうか。夏も始まったばかりだというのにどこか気分が湿っぽく、俺はずっと何日か寝て過ごした。

 福栖は水泳部で日に焼けた良い体つきをしていた。体格に恵まれなかった俺としては羨ましいとしか言いようがない。好きなものは音楽と運動、あとは知らない。福栖のことなど何も知らないのに気分がこうも暗くなるのは若さが一瞬で奪われたことや水泳部でも太刀打ちできなかった海という底知れない恐怖、そして単純な死への思いだった。

 誰もが彼の死を口に出さずとも感じ取った一週間後、福栖が見つかった。見つかったと言うより海の近くで放心状態のところを警官に保護されたのだ。なぜかびしょ濡れで、何を聞かれても答えられなかったそうだ。彼の両親は手放しで喜び、息子に何が起こったのか深く追及はしなかった。警察も福栖が何も答えないために諦め、メディアも見つかった当初は大きく湧いたがそれ以降は静かになった。

 何が起こったのか誰もわからないまま夏休みは終わり、学校が始まってしまった。福栖はクラスメイトから割れんばかりの拍手で迎えられ、照れ笑いを浮かべている。福栖を抱きしめに行くものもいた。

 俺はその様子を遠くから眺めながら福栖が痩せこけ、目をきょろきょろしているのに気が付いていた。壮絶な経験をすると人は人相が変わると言うが、福栖はまさにそれに当てはまる。前はもっと底抜けに明るい健康的な少年という印象だったのに今は表情に影ができ、人に合わせて無理矢理表情をつくるために感情が追い付いていない。

 次第に彼は孤立し始め、部活も辞めてしまったそうだ。速い選手だったと聞いたのに。人相や性格までも少し変わってしまった福栖はいつも窓の外をぼんやりと眺めている。友人だったやつらは遠慮がちに怖い、と口にした。福栖の彼女だった女までもが目が気持ち悪い、と陰口を叩き始めたころ俺はなぜか福栖に呼び出された。

 呼び出された場所は放課後の誰も使っていない空教室で、中には使われていない教材が所狭しと置かれている。俺はただただ戸惑い、誰にも相談せずに放課後を待った。教室に入ると福栖は既に待機していて、鍵を閉めてくれないかと俺に頼んだ。言うとおりにして福栖に向き合うと彼はズボンとパンツを一気に下げた。

 「ほら、見てくれよ。」

 肌が白いのは水泳を止めたからだろう、黒く見えるのは部屋に明かりがついていないからだろう。いや、でもこれは決定的に無くなっているこれはなんと言い逃れればいいのか。

 「こんな風になっちゃったんだ。」

 福栖は目に涙を浮かべていたが、ついにそれが頬を伝って顎の先まで来た。瞬きが少ないな、と俺は思った。カチャカチャとズボンを上げる彼に何も言えなかった。

 「びっくりしただろ。ごめんな、こんなこと言っても信じてもらえないから。」

 「な、なんで俺。」

 いろいろと聞きたいことはあったが言えたのはこれだけだった。

 「市来ってさ、魚好きじゃん。」

 福来は俺の目をじっと見つめた。黒目の部分が細かく振動して、目線が合わない。

 「俺、魚に成っちゃったんだよね。」

 俺の肉喰う?、と福来は泣きながら唇の端を釣り上げた。魚が無理に人間の表情を真似たらこうなるかもしれないというような顔だった。


 福来は仲間が砂浜で遊び出したのでつまらなくなり、遠泳しようと泳ぎ出したらしい。気が付くとけっこうな距離を泳いで来てしまったようで、戻ろうとするが急に波が高くなり、うっかり水を飲んで意識を失ってしまった。もがいて、もがいてとても苦しかったことだけ覚えているそうだ。

 「目が覚めたらまだ海の中だったんだ。なんか息ができていて、上の方に光が見えて。」

 光に向かって泳いでいる内に頭の中に声が響いた。

 「お前を魚人にしてやろうってさ。男か女かわからない声だったけど。」

 泳ぎが上手で偉い、とも言われた。なんだかわけがわからない内に海の上に顔を出して、足元を見たら魚の半身が出来上がっていたそうだ。もう家には戻れないと絶望した福来は力の尽きるまで岸に向かって泳いだ。どうせこのままなら人間を最後に見てやろうと思ったのだとか。

 「沖が近付くにつれて気絶するまで浜辺に上がってやろうっていう気になってね。」

 上半身が人間なのだからぎりぎりまで上がれる、と浜に海から這いずり出ると海から出た部分だけ人間の足に戻っていく。

 「人魚姫みたいに喋れないのかと思ったけど声は出るし、足は痛みもないし。」

 明け方で人気も無かったが福栖は波打ち際にある汚れた布で体を隠して海から去った。この状況をどうすればいいのかぼんやりしていると警察に見つかり、あれよあれよという間に家まで帰りつくことができた。警察にはいろいろと聞かれたが耳に入って来なくて答えられなかった。

 「家に帰って落ち着いてから気が付いたんだ。無くなってるってね。」

 彼の受難はそれだけではなかった。

 「帰りたいんだ、自分の家じゃなくて海にだよ。両親も兄妹も俺が帰ってきて本当に喜んでくれているけど自分の本当の肉親じゃないように思える。夢の中を生きてるみたいなんだ、ずっと。」

 足がむずむずすると言う。授業中も海を探してしまう、海の中を無尽に泳いだ、あの自由が人間の生活では手に入らないのだ。海にいた時は人間の方が強くて、沖に出よう出ようとしたけれど今は違う。海に帰りたい、本当の自分に戻りたいのだ。

 「あるはずのない記憶がよみがえって来るんだ。小魚のころからの、産まれて流されて、泳いで泳いでっていう色のついた記憶があるんだよ。」

 きっと魚である下半身の方の記憶なんだろう、と福栖は言う。俺と福栖は帰り道の途中にある公園のベンチで話し合っている。あたりは薄暗い。ふとした瞬間に福栖の肌が照らされると、奇妙な話の影響なのかぬらぬらと光るようだ。

 海に流された福栖が悪人に助けられてクスリでも打たれたのではないか、とあの股座を見ていなかったらそう考えたかもしれない。

 「今週末一緒に海に行ってくれないか。」

 海に接した県であり、一番近い海は電車で一時間ほどだ。週末に行って帰れる距離だ。俺はさっき見た福栖の足が忘れられなくて生返事をする。いきなり脱がれたことで驚いたがもしかしたら鱗の一つでもついていたのか。

 公園で別れた。家に帰っても福栖の声が頭に残っていた。肉を食べるか?福栖の肉を食べるか、だと?魚は確かに好きだが仲良くもない同級生の肉を食えるかというとそこまでではない。いや、俺は福栖が魚だという話を丸ごと信じたのか。海に飲まれた後遺症で、何の後遺症かは知らないが男根が腐り落ちたという可能性は無いのか。そこまで考えて俺は身震いした。千切れた跡も、腐った跡も無かったのだ。最初からそこに存在していなかったかのようにつるりとした生の皮がそこにあっただけだ。

 福栖は瞬きが少なかった。魚は瞼が無い。そう考えると以前より目が外側にずれているような気もした。いや、何を考えているんだ。俺はベットに転がり眠気に任せて考え続けた。

 そのせいで福栖の足を切ってやる夢を見た。福栖のために足を取ってきてやったのに奴は魚の上半分を持ってきて欲しかったと切ってから泣くのだった。こいつはもう魚の方が本体なんだと俺は悲しくなった。抜け殻みたいになった福栖を抱えて海まで行った。


 日曜朝の電車は空いていて、海に付くころには俺と福栖しか乗客はいなくなっていた。俺と福栖は初めてまともに会話を交わした。それで俺は福栖の好きだった食べ物や休日何をしていたか、特異な教科は何か、といった雑多な情報を得た。

 「市来さ、弁当が魚メインだったやつと自分のハンバーグを交換してやってただろ。」

 一緒にいる友人の一人の母親が魚信者で肉好きな友人はいつも閉口している。どうしても肉が食べたいと言う日に限っては交換してやるのだ。俺はというと漁師だった祖父の話を聞いていたせいか抵抗が無い。というより根っからの魚派だ。

 「俺だったら絶対ハンバーグなのになって、そう思ったから印象に残ってたんだ。」

 だから打ち明けた、というのは薄い繋がりだと思うが逆に言えばその薄さが良かったのかもしれない。

 「なんか市来だったら言えるなって。」

 魚の勘かな、と福栖は笑えない冗談を言った。俺は固まる。

 「魚の恨みじゃないのか。」

 隣を見ると福栖はふっと顔を歪ませた。それが人間に擬態する彼の笑顔なのだとようやくわかりかけてきていた。

 「9月の海なんか誰もいないよな。」

 電車は海の近くに停車し2人で歩いて浜辺まで向かった。人がいない時間帯を狙ったが、それでもちらほらと散歩している人がいて、福栖はどうするつもりなのだろうと顔を窺った。

 「端の方の岩場まで行こう。」

 彼は平気な素振りで俺を誘った。俺は内心福栖がどう魚に変わるのか、本当に変わるのかと思っていたのだが。

 人の目につかない岩場の陰で福栖はするりと服を脱いで俺に預けた。股座には相変わらず何もなかった。魚っぽいといえばそうかもしれない肌色で、ただ寒いだけなのか青白い。目が生き生きしているのだけが教室にいる福栖と違う処だった。

 見てて、と彼は海に踏み出し、下半身が隠れるところまで漬かった。俺からだと変わっているのかいないのか定かではない。福栖は本当に嬉しそうで、生気に満ち溢れていた。沖の方へぐんぐん進んで行ってしまう。確かにそのスピードは人間とは思えない。

 「おい、帰って来るよな。」

 急に心配になって大声を出すと、福栖は手を上げてそれに答えた。ぱしゃりと音を立てて彼が海底に沈むときに鰭が見えた。暗い、海の底と同じ色だったが鱗だけは光に反射して煌めいていた。

 福栖は魚になっていた。

 それから俺は近くの岩場に座り込んで時折見える福栖に手を振ったり、波打ち際に貝や子蟹がいないか探したり、漂流物を観察したりして時間を潰した。

 福栖が人間に戻ってくる気が有るのか心配になってきたころ、彼は岸に上がってきた。最初は這って、下半身は魚のままだったが波が引くうちに魚の部分は消えて足が現れた。どうなっているのか知りたくてもう一度海に入ってもらい、尾鰭の部分を掴んでいたが海水が無くなると尾鰭は見る間に福栖の指先に変化した。俺は福栖のつま先を握りしめていたのだ。

 「海水が重要なんじゃないか。」

 手に海水を掬って福栖の足にかけるとそこにだけ鱗が浮かび上がった。やっぱりそうだ。

 「家の風呂で戻ったりしないのか。」

 しない、とのことだったのでやはり海水が重要なのだ。一応腕にもかけてみたが腕に鱗は浮かばない。

 「市来が楽しそうで良かったよ。」

 すっかり人間にもどった福栖はそう言った。

 「悪い。」

 「違うんだ。他の人だったら気味悪がったりするだろうけど、市来はまともに俺と向かい合ってくれるから。」

 もう日が沈みかけていた。帰らないといけないのは福栖の家には家族が待っているからだ。彼の一軒から彼の家族は門限を設けている。どんなに海に帰りたいと願っても、人間の繋がりを断つことは難しい。家族を泣かしてまで海に帰りたいのか、と聞かれると流石に良心が痛むと彼は苦しげに言った。

 「俺が二人いたらいいんだけどね。」

 魚と福栖を切って貼った今朝の夢を思い出して俺は複雑な気分だ。

 「お前さ、高校を卒業したら家を出て海の近くに住めよ。そしたら気のすむまで泳げるだろ。それで実家には人間になって年に何回か帰る。」

 福栖は乾いた笑みを浮かべた。きっと俺も同じ顔をしている。

 「そうだな、そしたら夏に浮かれて溺れるやつを助けてやるんだ。気を失ってるところを引っ張って運んでやる。」

 「お前は人魚として有名になるかもな。」

 そろそろ帰らないといけない時間なのに俺と福栖は海から離れ難かった。

 「市来も海に来いよ。魚でもてなしてやるから。」

 「仲間を俺に差し出すのか?」

 「いいよ。市来ならいいよ。」

 「自分の物でもないくせに。」

 魚の体温は低いのだ。福栖もまたひんやりとしていて秋に成りかけの空気には冷たすぎた。それから俺達は海の中でどうやって魚を獲ったらいいのか真剣に話し、ついに夕焼け空が広がった。

 「なあ、これからだんだん家族が他人としか思えなくなったらどうしよう。人のころを忘れてしまったらどうしよう。」

 神様は彼を助けたが、なんと無責任な助け方だったろうか。

 「そうなったら俺が福栖を海まで送るよ。」

 神様のような無責任な真似はできなかった。なんとかするともどうにかなるよとも言えない。これからどうなるのかはわからない。ただ、彼が帰る時が来たら俺が見送ろう。

 俺はもう子供を作ることはできないんだ、と福栖は最後に少し泣いた。俺は福栖の冷たい手をいつの間にか握りしめていた。


 帰り道に、そういえば糞尿はどうしているんだと俺は福栖に尋ね、馬鹿野郎と叱られた。

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