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人類紀  作者: 足達光輝
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世界が激変した時空

 書き始めて、「そうか、平成が終わるのだ」と改めて思った。私は団塊の世代の最初、昭和二十二年生まれである。一時期「明治は遠くなりにけり」という言葉が流行った。これからは「昭和は遠くなりにけり」となりそうである。団塊の世代といわれる昭和二十二年から二十四年までの八百万人以上はそのほとんどが、新元号が十数年くらいになるまでが平均寿命だ。その前後の世代も含めて、大きな塊がそのまま三つの元号の時代を通り抜けることになる。世の中をもの凄い勢いで流れる塊である。同時代の方には「ああ、そうだった、そんなこともあった」と読んでもらえるかも知れない。若い人などには「父」や「祖父」の走り抜けてきた、世界史でも希な時代。経済成長と公害、科学の発展と、寿命の恐るべき延びの時代を知ってもらいたいと思う。

人類紀


 田中稔の場合


 田中稔は、歩けなくなった。

 十一時頃、北野坂のマンションを出た。二、三日に一度のいつもの散歩コースの途中である。

 東に進んで、少し坂を下り生田川沿いにでる。南に向かって三ノ宮に着く。駅の南のセンター街に入って西に進む。本屋とかレコード屋を覗きつつ、元町駅近くの山田屋というめし屋に入る。惣菜をとって飯と汁をたのみ、ビールを一本飲む。一時前には店を出る。センター街を東に戻り、ジャズストリートを北にのぼって帰宅する。神戸の中心駅、JR三ノ宮を中心にした四キロ近い散歩道である。

 六十歳を過ぎてから、もう十年ほどのルーチンワークだ。

 途中で気分が悪くなったり、トイレに行きたくなったりしたことはある。だが、全身が倦怠感に包まれ、そのまま崩れ落ちそうになったのは初めてのことだ。

 生田川沿いの駐車場の数十センチの低いブロック塀の上に尻を降ろした。小さなリュックを背負ったまま、焦げ茶色の杖に上半身を預けた。呼吸が荒い。目を閉じるとそのまま奈落に落下しそうだ。

 痛みはない。ただ全身がだるい。全身の組織が呻いている。白髪頭の中というより、彼の身体を包み込む心が、不安と寂しさを訴えている。七十年あまりの人生。その絶望感、諦め、悲しみ、怒り、苦悶、いらだち 不安、敗北感、無念、劣等感、恐怖、怨み、孤独、憎悪、悲痛、悔しさと執念。喜びや楽しみの影はどこにもない。

 身体の奥底に潜み、総てのものを練り込んだ闇の思念がムクムクと頭をもたげている。それが粘りのある塊となり、意識の海に広がりだしている。目の中の黒い霧のようなものが、頭の中に現れて広がり、滝のように意識の海に吸い込まれていく。

「死ぬのかな」

 杖の上部に手のひらを重ねて、その上に額を乗せた。

 既に黄泉の国にいる父も母も脳梗塞で倒れた。自分もその恐れはある。頭の中はそのまま眠りにつくような感じだが、全身の怠さが、たまらなく辛い。

 初めは、しばらく休んでおれば、おさまると思った。

 だが、その深い疲労感は、次第に悪化し、全身の細胞を少しずつ喰い始めている。

「しんどい、しんどい、しんどい。生きていたくない、早く殺して欲しい、しんどい、死にたい。殺してくれ、殺してくれ」

 本気でそう思った。欲も得もない。このしんどさは、数十兆の細胞が壊れていく瀬戸際で悲鳴を上げている証拠に違いないのだ。

 頭も身体もそのままボロボロと崩れていく。砕け散った肉体はどこへ行くのか。この辛さは、いつまで続くのか、恐怖の塊が身体の中心で頭をもたげ、心臓を食いはじめた。

 母がにこやかに笑っていた。

 和服の上に白い割烹着をつけていた。田中が子どもの頃、昭和二、三十年代。西暦一九五〇年代は、和服が町に溢れていた。ゆっくりとした穏やかな口調だった。

「稔、しんどかったね」

 田中稔の全身の感覚がフッと消えて、脱力感と温かさが戻ってきた。

「そうか、母が迎えに来てくれたのか」

 稔は子どもになっていた。意識の核にあるのは、五十代末で亡くなった母の歳を超える男性でありつつ、子どもの自分であった。

 母の横に男がいた。もともと細かったのだが、全身がおぼろげで、ぼよぼよと膨れ、頭の部分も灰色の雲のようにぼんやりしていた。だが父に違いなかった。

 突然、父が酒を飲んで入浴し、浴槽で動かなくなっていた場面に田中稔は立っていた。

 戸建ての自宅の裏に小屋を建てた。まだ神戸市では珍しかった内風呂だった。大きな丸い桶の横に鋳物の釜があり、直径十五センチほどの煙突がのびていた。

 釜にチャッカーという油の染みこんだ石炭粉の団子を入れた。それに火をつける。それから薪を少し入れて、後は小型のスコップで石炭をほりこんだ。

 天井の蛍光灯の灯りで、少年マガジンなんかを読みながら、風呂を焚くのは稔の仕事だった。

 その日、長い風呂が気になった母が悲鳴を上げ、大学生だった姉が笑っていた。なぜ姉が笑っているのかわからなかった。白い歯だけがはっきりと見えた。

 頭の片隅で、「夢は感情と記憶がミキサーにかけられて、ドロドロになり噴出するものだよ」と友人の鈴木がいっている。彼の太鼓腹の姿が見え、太く低い大きな声が聞こえる気がした。

 いきなり高校生の稔は救急車の中にいた。

 停車したところで、場面が飛んだ。

 座敷に横たえられた父が見えた。夢の世界は時空を超越して展開している。

 二、三十畳もある座敷には誰もいなかった。まだ自宅で葬祭をする時代であった。そんなに広い座敷があるはずはなかったが、その片隅で布団に横たえられ、顔に白い布のかかった父親がいた。稔は部屋の反対側に座っていた。薄暗い窓から白い粉のような光が降りそそいでいた。

「おい、稔」と父親が突然起き上がるような気がした途端、母と姉の笑い声がした。

「夢なのだ」

 改めて自分に言い聞かせた。

 ヒトは死にかかった時、押さえつけられた深層意識を見るという。それは夢の世界である。心の底で煮えたぎっているものが薄い理性を突き破ってでてくる。

 現実にあったことと、願望と、後悔と、怒りと、笑いと妬みと、欲情と、傲慢と、卑下と、疑念と、哀れみと、悲しみと、愛おしさと、快楽、痛みと、苦しみ、貪りと、愚かさが、地下深くからドロドロと溶け出すマグマのように現れてくる。

 恐怖心もまたその中に溶け込んで、心の暴走と爆発に巻き込まれ、稔はただ迸る疑念の中を翻弄されているだけである。

「死ぬんだな」

 初冬の風の冷たさも、杖の先に載せた手の甲と額の痛みも、最早なにものも稔の心に入ることは出来なかった。

「大丈夫ですか」

 現実が稔の鼓膜を打った。それは、耳から意識の外壁を突き抜け、脳髄に突き刺さり、沈みかけていた心をわしづかみにした。

「う」

 心が飛び上がり、大脳皮質がブルブルと興奮し、肺臓が縮み上がって気管を叩き、喉の奥から音が漏れた。

 身体がゆらりと、右肩から斜めに崩れだした。

 その肩にぐっと何かが触れた。

「大丈夫ですか」「手伝いましょうか」「誰か、救急車を」

 何人かの声が明瞭に耳の奥に響いた。バタンと何かが閉じた。意識が鋭い刃で断ちきられたようになくなった。

 細い川筋に沿った道である。

 国鉄垂水駅前から北へ延びる。車二台がすれ違うのがやっとだ。前の方を、山陽バスが、それとわからぬ程度の坂道をのぼっていく。

 山陽電車の板宿駅から、板張り床の電車に乗る。板は時折、油引きされる。その臭いが鼻をつく。電車の窓枠は木製だから、カタカタと音を立てる。国鉄と山陽電鉄が並行する垂水駅に着くと、丘陵地の上にある県立星陵高校まで、歩いて三十五分かかる。一九六四年、昭和三十九年、校則で高校生はバスに乗ってはいけない。

 稔は古びた学生帽を時折持ち上げては、坊主頭に風を通す。

 その度に頭のてっぺんが極楽になる。半世紀前、高校生は丸刈りである。

 夏休みに入って一週間。周りには誰もいない。肩からの布鞄にはグラマーの教科書とノート、筆箱が入っているだけだ。

 日射しは青空から斜めに熱気を絡め取って降りそそいでくる。

「九時半には着くか」

 五月の修学旅行の時に、初めて買ってもらったセイコーの腕時計を覗き込む。

 道の左右は比較的新しい住宅街である。道を進むにつれて雑草に覆われた土手と丘陵地になる。そこここで、ブルドーザーが薄茶色の土砂を押している。

 額から汗が頬を伝い始める頃、高校の下に着く。そこからは四十五度もありそうな急な坂道になる。実際はそれほどでもないのだろうけれども、十七歳になった高校二年生でも息切れすることは確かである。急坂の両側は藪だ。まばらに木が生えているが、それが何の木だかは、考えたこともない。

 ゆるやかなカーブを登りきる。右手は灌木の崖。左手にコンクリート塀と校門がある。校舎までは十数メートルという所だろうか。

 灰色の校舎は、コンクリートの要塞だ。

 高さ三メートルほどの汚れたダークブラウンの扉が左右に開いている。両脇の飾りを兼ねたコンクリートの基礎壁は厚さが一メートルもありそうだ。

 稔はフーッと改めて息を吐いて、中に踏み込んだ。一瞬、視界が奪われるほど暗い。電球が、数メートル間隔に点っている。溢れるばかりの外光は、木枠の窓ガラスで、鈍い光の波に変換されて漂っている。

 分厚いコンクリートのおかげで、暗いが涼しい。

 稔は薄汚れた白いズック靴を引きずるようにして油引きされた廊下を進み、巨大な手すりのついた階段をのぼる。軋みはしない。何もかも分厚くて頑丈に拵えられている。

 階段の途中から、微かなざわめきが聞こえてくる。2B教室の補習の参加者は二十数名である。もう半分は来ているようだ。

 二階に上がって角を曲がり、暗い中央廊下を挟んで南側の開け放たれた教室に踏み込んだ。

「よう」

 鈴木洋一郎が端正な引き締まった顔を向けて、片手をあげた。

「おっ」

 稔も片手をあげつつ、鞄を肩から外して、窓際の鈴木の後に、ドシンと座った。補習は自由席だからどこでも構わない。古い県立高校の教室は広い。五十五人学級でも座席はゆとりを持って配置されている。

 既に男子が十二、三名と、女子が四名ほどいる。

 二年生、五百名ほどの中でグラマーの補習者は二十数名である。

 稔は英文法なんて、まるで頭に入れる気がない。

 自分の怠惰を棚に上げて、中学生の時の英語の教師を思い出す。もと海軍少尉とかで、妙に、ねちゃりとした助平。それで英語が嫌いになった。

 嫌いになったキッカケはともかく、自分の怠け心に負けたことは自覚している。稔は特に、自分は総てを他人のせいにすると、心の奥で解っている。

 中学時代の通知表の英語の成績は「3」だったが、たぶん「2」に近いものだろう。成績は平均してオール「4」であった。

 学年で三百番前後をウロウロしていた。

 一九六〇年代、昭和三十年から四十年にかけての公立中学校では、実力試験の結果などは壁に張り出される。

 学年は千百人以上もいるから三百番は出来るグループである。

 進路相談の時、旧制二中であった長田高校へ行きたい、と担任に言うと、下駄とあだ名のある四角い顔がニヤリとした。

「成績の変動が激しすぎるから、無理だな」

「はあ」

 と答えた。成績がいい時は学年で五十番になったこともある。それ以上は幾ら頑張っても上がれなかった。世の中に頭のいい奴は星の数ほどいる。幾ら頑張ってもという言葉には、「自分なりに」と但し書きがついた。愚鈍な頭脳と、怠け癖を棚に上げての話である。

 悪い時は三百数十番に落ちた。

 煮え切らない性格だった。

 当時の日本は、ようやく占領から解放されたが、まだ廃墟の中から完全には復活していなかった。そこに戦後のベビーブームである。堺屋太一の命名で団塊の世代といわれる。一年に二百数十万人が生まれた。現在の年間の誕生数は百万を切っている。その団塊が押し寄せた中学校は、学校制度の義務教育化もあって、都市部は過密状態になった。稔のいた神戸市の飛松中学は、全国一に近いマンモス校だった。

 一学年二十二学級。入学式などはグランドだった。運動会は近くの高校の大きな運動場を借りていた。

 東京への修学旅行は、前後のグループに分かれた。ひとかたまりになるとバスが二十二台もいる。先頭車両が目的地に着いたら、最後尾が発車するところといったことも起こりかねなかった。

 皇居と国会議事堂と羽田空港の見学、出来あがったばかりの東京タワーを見るために、「希望号」という専用列車で、神戸から東京まで七、八時間もかけて出かけた。第二次大戦中の食糧統制が生きていて自分の食べる米を持っていった。

 日常も、多すぎる人の塊は、常にはみ出しを生みつつ蠢いていた。小学校の時も、中学校に上がっても講堂をベニヤで仕切った教室とか、空き地のプレハブが学び舎になっていた。

 先生も百人近くいたし、クラス替えをすると、見知った顔が一人もいないこともあった。稔はその中で揺れ動いていた。友だちもいたし、まあまあ楽しい思春期だった。この時代、いじめはなかった気がする。「知らなかっただけやで」と後に友人に言われた。そう言われると、自信がなくなる。たぶん、いじめがなかったと言うより、自殺に繋がるような、いまどきの状態がなかったのだ。

 マンションや鉄筋の住宅はほとんど見かけず、戸建てや木造の二戸一、長屋などが中心だった。二戸一というのは、壁を隔てて屋根が同じ二軒の家のことだ。下町には文化住宅が現れだしていたかも知れない。

 平和台町というのんきな名前の山手の自宅に帰れば、異年齢の集団があり、中学生から幼児までが喚いていた。缶蹴りや、コマ回し、メンコにジャン蹴り、鬼ごっこ。

 テレビは小学生の高学年くらいに普及しだした。幼少期は専ら真空管式のラジオだった。

 トランジスタはまだなくて小型のラジオはなかった。「少年ターザンはいく」「笛吹き童子」といった番組を聴いていた。

「ほら、箸を動かしなさい」

 母親によく注意された。板張りの台所の隣が三畳の部屋で、その真ん中に円形のちゃぶ台が鎮座していた。頭の上には白い傘の白熱灯があり、壁の柱の上に木の台があって、ラジオから音が降ってきた。

 ちゃぶ台は電気ごたつのテーブルに姿を変えたが、高校卒業まで彼はここで育った。

 土壁の向こうは隣の家で、少し大きな声は筒抜けで聞こえてきた。

 隣家は瓜生という苗字だった。同じ年齢の女の子がいて、大きくなると意識しだしたが、結局ろくに話もしないまま、それぞれの人生に進んだようだった。

 白黒のテレビが普及すると、「ローハイド」なんていうアメリカの西部劇を見ていた。のちに、「ローハイド」の番組に、頼りない若者カーボーイ役で出ていた人が、クリント・イーストウッドだと知った。 「奥様は魔女」「スーパーマン」「ボザンナ」「ルート66」なんていうアメリカ映画が多かった。

 性描写も悪辣な殺人も、黒人の活躍もない白人のアメリカ文化。この日本の新しい大量の若者達は、それにどっぷりとつかって育った時代である。

 紙芝居屋さんが現れなくなり、マンガ週刊誌のマガジンやサンデーが出だしたのは、稔が中学生の頃である。それまでは貸本屋でマンガを借りていた。「ゲゲケの鬼太郎」なんていうおどろおどろしい怪奇マンガもあった。

 ケータイもゲーム機も、CDも、もちろんDVDもなく、子どもは群れて遊ぶしかなかった。みんな何かしら友だちがいて、孤立して、いじめが陰湿化しない環境だった。

 街には、学習塾も音楽教室も、水泳教室もなかった。

 野球や相撲や柔剣道がスポーツで、テニスは少し高級な感じがした。バスケやバレーは余り縁がなく、サッカーなどはどこにも見当たらなかった。

 入学した板宿小学校にはプールがないし、体育館もなかった。その代わり講堂があったが、いつしか全国の小中学校から講堂がなくなっていった。

 進学した飛松中には、全国的にも珍しくプールがあった。山の傍で、流れ出した小川の水を利用していた。夏でも、水が冷たかったのを覚えている。もっとも、三学年で六十学級以上もあったから、入った記憶はあまりない。

 稔はにきび面の平凡な生徒だった。中学では、文化委員とか、広報委員によくなった。学級委員長になりたい気も少しあった。しかしいつも、投票された票数は少なく、その他の委員だった。

 勉強も、生活も、なべて上中下の「上」の真ん中辺りをうろついていた。高校に行っても同じようなものだった。

「あと三日だな」

「うん。だるいな」

 稔はテキストとノート、筆箱を引き出しつつ、鈴木の男前の顔を見た。よくもてる友人だ。声もいい。太くて低い、よく通る。胴間声のようだ。羨ましいが、次から次に、つきあう相手をかえる。自分にもガールフレンドが欲しいなと思った。

 心の中で苦笑いして、窓の外に視線を振った。

 陽光が、校舎の影の向こうに別世界を創っている。

 芝生の向こうに、錆びだした丸いかまぼこ形のトタン屋根が見える。柔道部の部室兼練習場だ。

 進駐軍のいた兵舎に畳を敷いて使っている。

 戦争に負けて、連合国軍という名のアメリカ軍が昭和二十年、一九四五年から日本を占領していた。その名残が、神戸市の垂水区という丘陵地の上にもあった。

 稔は戦後しばらくして生まれた。ものごころつくようになったころ、神戸市中心にある百貨店に連れて行ってもらうのは楽しみだった。当時走っていた市電に乗った気がする。自家用車などはほとんど見かけなかった。

 そごうや大丸、三越があった。大食堂で日の丸が立ったお子様ランチを食べ、屋上の遊園地で遊んだ。

 戦争の影はなくなっていた。それでも、傷痍軍人といって、戦争で身体障害になった人が街角で寄付を募っていた。

「偽者もいるからな」

 中国に派遣され、運よく、すぐに帰国できた父が言っていた。

 小学生になるともう日本は独立していた。いちど神戸の街で、白人を初めて見た。テレビが普及する前はそれくらい外国人は珍しかったし、普及しても外国人に直接会う機会はほとんどなかった。。

 「ウエー、鼻が高い」と思ったのを稔は強烈に覚えている。なるほど江戸時代の人が白人を見たら天狗と思ったはずだ。もっとも我が日本も妙な国である。

 鈴木によると、江戸時代に日本に来た外国人は、「日本人は頭にピストルを載せている」と思ったという。眉唾物の話だが、武士も町人もチョンマゲ、というのは冷静に考えると、世界中でも相当面白い風俗に違いない。

 かまぼこ兵舎を見ながら考えていた思念が途切れて、風景がくっきりと浮かび上がってきた。

 さびの浮いた兵舎のその向こうは下り階段である。一段が三十センチくらいの高さがある。降りると広いグランドである。グランドの端からは谷に向かって落ち込む。

 グランドを端まで進むと、眼下間近に県立商業高校の校舎があり、遠くに街並みが見える。

 県立商業は女生徒が多い。

 ときおり体育の時など、たぶんニヤニヤしながら、女生徒の姿を追っていた気がする。

 古い時代だ。ストリップでヘヤーが見えたから、つかまったという時代である。ドキドキしながらヌード写真を見ていた。大人達は八ミリフィルムのエロ映画を、こっそりと見ていたらしい。いまはエロでなくアダルト映画という。

 時間が飛んだ。

 二十歳になって、始めて、エロ映画館に行った時の勇気は、いまでも鮮明である。実際は勇気と言うより、笑い話の蛮勇、それより「ヘボ勇」だった。

 一人で行く勇気はない。友だちと、まず、知っている人がいない遠くの街の映画館に行く。入場料はおつりの要らないようにお金を用意して握りしめている。何か別の用できたように、映画館の方は見ない。 建物から少し離れたところにいる。人通りの途切れた時を見計らって、窓口に駆け寄り、慌てて切符を買う。声は掠れている。手には少し汗が滲んでいる。

 もう周りの景色などはまったく眼中にない。友だちがどうしているかも頭の中から飛んでいる。

 饐えた匂いのする、パラパラとしか客のいない館内に入る。

 男性ばかりの、しかもオッサン中心の客である。そのオッサンの姿も避けて、誰もいない列の座席に素早く身を沈める。

 上映される映画に喰いつく。内容ときたら現代の普通の映画のセックス場面より、温和しいかも知れない。

 稔が大人になりかかるこの時代はテレビも映画も、もうカラーになっている。しかし制作費の関係からか、この手のエロ映画は白黒である。そしてその場面だけカラーになった。パートカラーである。そんな表示も出ていたようだ。

 だから今でも映画の彩色技術として有名な「テクニカラー(Technicolor)」なんて言う表示を見ると、この「パートカラー(Partcolor)」を思い出して吹き出すことがある。

 そう思っていたら、突然、黄色い声が降ってきた。

 高校時代に戻っていた。

「おはよう。いつも早いわねえ」

 振り向くと岡田清美のこぢんまりした顔が見えた。

 美人系に入るかどうかだろうが、可愛らしさは満開である。稔は一度アタックしてみようかと考えている。その岡田清美が、いつも一緒にいる背の高い八木恭子と一緒に教室に入ってきた。別の女子生徒に声をかけている。

「あいつ、成績もの凄くいいのになあ」

 鈴木洋一郎が、岡田清美を顎で指していった。グラマーの補習を受けているのが不思議という顔つきだった。

 稔は「成績がいい」という部分に反応した。好きな女の子の成績のよさは、一瞬、自分のことのように思えた。

 それから、そうではない自分に苦笑して、頭を窓の外に向けた。

 星陵高校は丘陵地のてっぺんに位置する。南に面した教室からはグランドしか見えない。後は青空。真夏の十時近くの空間はからっぽだ。

 手ぬぐいを出して汗を拭く。中二の頃からでだしたニキビが、少しましになりつつある。

 稔は、鈴木に断って部屋を出た。廊下端の水道に口をつけた。日本は世界の中でも水道水を直接飲める珍しい国だ。

 カルキという消毒のための塩素の臭いがすると言うが、それに気づいたことはない。嗅覚の鈍さと言うより、鈍感、不注意、集中力が欠如しているのだろう。それはよくわかっているつもりだ。

 トイレも済ませて、部屋に戻ると、補習生が揃っているようだった。

 英語はリーダーにグラマー。読むのはそこそこだが、文法はいけない。助詞や助動詞や、形容詞や形容動詞、現在進行形に、過去進行形、未来形や、となると、無味乾燥である。

 言葉は言霊だから、会話の練習の方が良いと思うのだが、この時代にはそういう発想には、みんな縁がなかった。

 日本の国語教育も似たようなものだった。この形容詞はどこにかかって、これの連用形は云々で、といわれても退屈なだけである。

 内容や筋を直感的に捉え、感じ、意味を掴まないと、英語も国語も面白くない。それの掴めない文章は、文自体が稚拙なのだ。

 言語の授業は、面白い文学作品をドンドン読ませることだ。その上で、随筆や小説でも作らせるのがいいのではないかと思う。感性のない人間が、文法に逃げるのだ。

 稔の頭の中に蓄積された夢のような「へ理屈」はともかく、十時から始まったグラマーの授業は退屈なだけだ。退屈な授業をして、お金が頂ける教師という仕事はすばらしいものだ。

 星陵高校はそこそこ出来る生徒が来ているから、なんとか集中度が保たれる。これが公立中学ともなると理解力は様々である。生徒は苦痛、ざわざわして、面白い授業でないと先生も通用しない。

 本来、相手が東大生であれ、高校生であれ、中学生であれ、街のおばちゃんであれ、授業は相手の程度にあわせて「面白く」ないといけない。それが先生の仕事であり、力量なはずだ。

 だがそんな理想論を言っても仕方がないことは解っている。

 稔の頭を素通りして、知識は空中に雲散霧消していく。たぶん補習を受けている者は、稔に近い存在だろう。

 五十分の授業が二つ。十二時前になって、補習は終わった。

「飯食うか」

 鈴木が、加山雄三のような顔をして言う。男前だ。稔はどう見ても渥美清ほどユニークではないが、並みの顔である。二人とも身長は百七十センチほどあって、同年齢中では高い方に属する。

「学食休みやろ」

「駅前のお好み焼き屋」

「ああ」

 稔は、返事しながら駅前商店街から少し離れた位置にある小さなお好み焼き屋を思い出した。喫茶店への出入りは高校生は禁止だが、お好み焼き屋は黙認されているようだった。

「暑いな」

 校舎を出た位置で、鈴木が制帽をかぶりなおした。

 真夏でも白の半袖開襟シャツに制帽というのは、誰が決めたのか知らないが酷い話しだ。

「制帽な」

 鈴木が稔の気持ちに応じたようにもう一度、制帽を一旦脱いでから、改めてかぶりなおした。

「帽子は、かなわんが、頭の日焼けは避けられる」

「そりゃそうや」

 稔は白い歯を見せた。

 確かに、二、三時間も太陽に晒されると帽子なしはきつい。日頃グランドで運動している連中はともかく、稔や鈴木のような文教族は、五分刈りの坊主頭がヒリヒリしてくる。

 高校ではさすがにプレハブ教室はない。しかし、団塊の波は遠慮なく押し寄せて、学年のクラスは十一学級もある。運動部に充分活動出来るほどの空間はない。旧制四中時代の体育館は、床の板張りが長年の劣化で波打っている。

 建て替え計画を聞いたことがあるが、小中で流行の体育館主体で講堂兼用というスタイルにはならないらしい。立派な講堂は温存されていて、それだけでもここに来た恩恵はある。体育館にシートを敷いてパイプ椅子で著名人の講演を聞くのはごめんだ。入学式も卒業式も重厚な講堂でこそより意味が深まる。校長や教育委員会の偉いさんだって、体育館で式辞を読んだり挨拶するのは好きではないだろう。

 稔は鞄を改めてかけ直し、帽子をかぶりなおした。

 夏休みでなければ、校門の東に木造の建物がある。食堂だ。きつねうどんが五十円だった。小学生の頃、板宿駅前で食べたきつねうどんは三十円だったから、高くなったものだ。

 口の中に甘い汁の香りがした。

 坂を下り、駅に向かう。

 補習を終えての帰りだから、気分は楽だ。

「親父がなあ、喫茶店やめるって」

 鈴木がぽつりと言う。彼の家は国鉄須磨駅前にある喫茶店をしている。国鉄とは今のJRである。国鉄の前は「省線」というが、稔達はその時代は知らない。言葉だけ、父などが話すのを聞いていたから知っている。鉄道省というのがあったらしい。

 ジリジリと首筋が焼け出した。

「暑いなあ」

 稔は帽子の下から、鈍く輝く空の太陽を見上げようとした。

 「ズコーッ ズコーッ」

 音が聞こえた。

 巨大なふいごが耳元で動いているような気がした。

 鼻の周りに透明の被いがある。手を上げて外そうとした。

 腕が持ち上がらない。肩からつけられた自分の肉体とは別物の、作り物のような感じがしていた。

 ぼんやりと蛍光灯が田中稔の視界に入ってきた。

 薄暗い蛍光灯だ。まだここはLEDではないのか。人の思考は妙な時に妙なものに飛躍して考えるものだ。

 酷く寒い気がした、身体の外を冷気がゆっくりと通り抜けていく。

「ねかされている」

 田中稔はそう理解した。

 切れ切れの夢が、高校時代などの思い出になり、明瞭に蘇ってきているらしい。

「生きている」

 と頭の中で自分でない誰かが囁いた気がした。

 殺風景なモスグレーの壁。何処かの部屋のベッドの上に寝ている。裸の身体に薄い布が、かけられている。冷たさは身体全体を覆っている。寒い、だが染みこんでは来ない。

「さ」

 寒いの「さ」が自分のものでない喉から掠れて漂い出た。

「大丈夫」

 耳元で、声がした。

 はっと脳髄が反応した。神戸から西へ五十キロほどの姫路の北に住む、姉の声のようだ。

「あ、ありがとう」

 稔はそういった気がする。「やはり、生きているのか」そう思ってそのまま、また意識がなくなった。

 コンクリート製のベンチにいた。

 神戸市立中央体育館は大倉山にある。神戸駅の北、楠公さんのさらに北だ。

 稔がこども時代、戦後しばらくは、神戸駅の西側、新開地が賑やかな土地だった。三ノ宮、元町を凌駕していた。

「ええとこ、ええとこ」という聚楽館があった。じゅらくかん、という。豊臣秀吉が贅を尽くした聚楽第にちなんで名付けられたとは、稔が中年になって知ったことである。

 が、市民は「しゅうらっかん」と呼んでいた。一九一三年、大正二年竣工。東京の帝国劇場をモデルにして建てられ、「西の帝劇」と呼ばれていた。鉄筋三階建て、地下一階の洋風劇場。一二〇〇人収容。冷暖房完備の場内には真紅のカーペットが敷かれ、夜には屋上で三千燭光の大アーク灯が輝くという神戸モダニズムを代表する近代劇場だ。冬は後に造られたスケートリンクもあった気がする。松竹座、湊川温泉なども有り、南の大阪ガスビルまでは家族も楽しめる歓楽街だった。

 この新開地に近い楠公さんという楠木正成を祭った神社の北の体育館では、成人式が開かれている。田中稔は鈴木と、その入り口近くのベンチにいた。寒かったが満員で入場できなかった。

 現在でこそ、あらゆる場所に公立の体育館があり、学校にも体育館が必ずあるが、当時はなかった。巨大な量の団塊の世代の成人式など行う場所はなかったのだ。

 稔は大学二年生であり、鈴木も工業大学の夜間二回生であった。いずれ昼間に転部を考えているらしい。団塊の世代の大学進学率は二十パーセント前後だから、二人ともエリートと言えばその部類だろう。

 稔は関西の国立単科大学である。いまどきの東京で言うなら、早稲田、慶応ほどではないにしても、青学や法政、中央レベルだろうか。

 母親も稔も「よくできてのですね」と言われる度に謙遜していた。戦後たくさん出来た駅弁大学ではない。稔自身も、旧帝大ほどではないが、そこそこ名前を口に出来る大学だった。中、高とそれほど勉強した覚えはなかった。高校時代は赤点で補習も受けたが、どの教科も重要な点が割合要領よく掴めた。いい成績というわけではないが、いつも上位三割くらいには入っていた。

 父親は早死にしたが、元々土地と家もあり、遺族年金も十分に出て、姉も姫路市にあった短期大学の家政学部に進んだ。

 父は多少の預金も残してくれた。

 稔は卒業するとすぐ地元の中堅商社に勤めた。

高度成長期まっただ中である。仕事はいくらでもあった。

「日本の奇跡」と呼ばれた時代だ。

 戦後の廃墟から立ち上がり、稔が高校二年の時一九六四年には東京オリンピックがあった。第十八回の夏季オリンピックである。一九七〇年には大阪万博があり、「イケイケドンドン」の時代だった。

「お母さん、太陽が見えなかったで」

 稔は台所に立つ母親に話していた。

 高校時代に東大阪に住む親戚に品物を届けに行って帰ったところだった。

 姉も母の横にいて、コンクリート製の流しで洗い物をしている。横にあるガスコンロにかけられた鍋からは蒸気が勢いよく立っていた。壁の換気扇が、ガラガラブンブンとやかましかった。

「スモッグでしょう」

 母はこともなげに言った。晴天の真昼でも太陽がぼやけていた。誰もそれを深刻には捉えていなかった。

 テレビと電話と、洗濯機に冷蔵庫、電気釜、掃除機に扇風機、テープレコーダーに、トランジスタラジオ。自家用車もそろそろである。まだエアコンはなかった。

 ぐぶっ、と稔は油を呑んだ。夢だと解っていたが嫌な臭いまでした。中学二年の夏に自宅から自転車で須磨の海水浴場にでかけたら、フエンスの張られた海面は油まみれであった。海水は灰色で、油にまみれたカラフルなゴミ片が大量に浮かんでいた。

 胎児性まで進んだ水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、森永ヒ素ミルク事件、カネミ油症などの公害病が発生していた。が、それが国全体の重要な課題になり国民が危機意識を持ち出すのは、稔が成人を迎えたあとの一九七〇年前後からである。

 田中稔は就職後、三年して見合い結婚をした。恋愛結婚が流行りだしていたが、それほど器用ではなかった。

 上司の紹介で釣書を交換した。少し気の強そうな感じもしたが美しい女性である。戦後高度成長期の当時としては専業主婦が全盛で、稔も企業戦士として家庭のことはあまり顧みず仕事をしていた。

 毎年給料が一割、二割とベースアップしていった。郵便局の定期預金は利子が五パーセントもあり、十年もすれば預金が倍になった。都市の地価は暴騰していく。

 友人の鈴木とは、年に一度会う程度の付き合いが続いていた。

 鈴木の人生も順調だった。

 須磨駅前の喫茶店を手放して、鈴木の父親はコーヒー豆の販売を始めていた。サイフォンやドリップでコーヒーを飲むという、豊かな習慣ができはじめていた。

 おまけに、鈴木の父親は目先が利いた。転居した月見山の小さな自宅を三年ほどで売って、滝の茶屋に引っ越した。それで広い新築を手に入れ、さらに数百万のもうけになった。そしてすぐ、明石の朝霧に転居し、最終的に、神戸市の北区、鈴蘭台北に移り住んだ。敷地百五十坪、建坪三十五坪の総二階建てである。土地バブルが弾ける寸前に上手く売り抜けて手に入れた終の棲家であった。

「お父さん、綺麗な名前ですねえ」

 稔の頭の中に、東京の長男の嫁が、にこやかに現れた。結婚前に一度だけ両親と神戸に来た。

「いたじゅく」にお住まいですか、と言われてギョッとした。平和台という町は山陽電車「板宿」駅の北東になる。

 なるほど東京から来れば「板宿」は「いたじゅく」である。新宿、原宿となれば「いたじゅく」は止む得ない。

「いや、いたやど、と読むんだよ」

 と言ったら目を丸くしていた。

 なにせ「畿内」の西に当たる神戸市西南部から明石にかけては、源氏物語の昔から歴史の舞台である。

 板宿、月見山、須磨、滝の茶屋、垂水、塩屋、舞子、朝霧と、綺麗な地名が続く。

「板宿って地名は、どこからきたんですか」

 嫁の言葉遣いには他人行儀な響きがある。

「菅原道真公が太宰府に流される時、この地の人たちが一夜の宿のために、板囲いの家を造ったからだともいわれている」

 そう説明した長男の嫁とは、もう長い間、会っていない。

「また、東京にもおいで下さい」

「じゃあまた」

 と言ったものの、その後会ったのは一度だけで、賀状の交換だけで少なくとも十年以上にもなるだろうか。

 稔は目を開けた。

 焦点が合わなかったが、狭い病室のベッドに移されていた。

鼻に何やらチューブが入っていた。ぼんやりと天井が見える。誰もいないらしい。完全看護だから、姉も楽だろうとぼんやり考えた。

 たぶん入院しているのは、神戸市立中央市民病院に違いない。埋め立て地のポートアイランドの超巨大な病院だ。一度だけ見たことのある風景がぼんやりと視界の中に現れて、稔は再び生と死の境の混沌とした思考の中に沈み込んでいった。

※ 

 田中稔は妻との間に男の子を一人授かったが、それからは恵まれなかった。

 長男が東京の大学に進み、卒業後そのまま就職して結婚すると、稔の妻との仲が冷えた。

 目先を変えようと、神戸の西、平和台にある実家の戸建てを売り払った。稔の場合、母親も彼が四十歳前くらいの時に、脳梗塞で亡くなっていたから、年老いた親の心配は要らなかった。

 新開地から神戸の中心になっていた三ノ宮のマンションに引っ越した。タワーマンションには手が出ないが、古いマンションなら北野の異人館近くにあっても手の届くところにある。

 北野はハイカラな土地である。現在は、三ノ宮から元町にかけてが百五十万都市神戸の中心地だ。美術館も、国際ホールも、ショッピング街も飲食街も眼と鼻の先である。JRに、阪神、阪急、山陽電車、地下鉄が集まっている。

 北の山際には新幹線の「新神戸駅」が出来ている。六甲山のトンネルとトンネルの間に造られた駅だ。駅の北は緑の斜面であり、ホームに森林の香りがする。歩いて十分もすると、有名な「神戸ウォーター」の水源である「布引の滝」や貯水池にたどり着ける。日本広しといえども、この様な立地の駅はここだけだろう。神戸はゴルフやジャズの発祥の地でもある。

 潮風までがモダンな国際的な気がした。

 しかし住処を変えた新鮮な雰囲気は一年も続かなかった。

 日曜の朝遅く、突然、妻から別れ話を告げられた。

 妻に男が出来た。少し名前の出たキザなジャズピアニストとかである。

 頭を思いっきり殴られたようで、初めて「顔の血が引く」のが解った。恐らく蒼白になっていたに違いない。

 夫の四人に一人はDVだというが、田中稔にはその癖はなかった。DVは結局の所これも、自分の魅力のなさ、力のなさ、知恵のなさに対する自分自身への怒りである。そこには「変えたくない」自分がいる。と言うより変えられない自分がいる。

 稔の場合は、それは鬱屈し、卑下した慢心に転化している。心の動揺を抑え込み動じない自分を演ずる。そのストレスは確実に彼の身体に蓄積していく。

 どう反応していいのか、頭脳はピタリと停止していた。稔はただリビングのソファに腰掛けたままである。広げた新聞を膝の上に落とし、焦点を失った眼を見開いていた。

 妻はもう波風の立たない口調で「ごめんね」といった。

 その響きの中に、時間と深い思考で充分に消化された意識が含まれていた。

 妻は、そのまま出て行った。

「お、おい」

 と声をかけようとした。だが声は喉の奥に引っかかり重なって、潰れていった。

 玄関のスチールのドアが閉まり、カチャリと鍵が回された。それから郵便受けに金属の落ちる音がした。三十年ほどたまっていた鬱屈した心も一緒に落としていったようで、そいつは変に軽やかな響きをたてた。

 三十分もして、稔の心の中にあるマグマのようなものの爆発の感情が出てくる。心の奥底でそんな気がした。それを避けようと稔は新聞に眼を落とし続けた。文字は点の連なりにしか見えない。意味をなさなかった。

 しかし、一時間経っても、二時間経っても何も現れなかった。

 大きな溜息を一つ吐く。呼吸が止まって、またゆっくりと大きな息が漏れ出た途端に、新聞の文字が読み取れた。

 立ち上がって、ソファに新聞を落とし、トイレに向かった。便座に腰を降ろし、排尿した。その刹那に怒りとも自己への憐憫とも言えぬものが湧き上がってくる。排尿が進むと心の黒い塊が急速にしぼんでいった。そのまま座っていた。

「コロリといけたらいいなあ」

 と思った。下着をさげて便座に臀を落とした格好である。

 恥ずかしいとは考えもしなかった。ただ、嫌になっていた。妻にも、自分にも人生にも。遠くの息子や孫のことも意識にはのぼってこなかった。

「なんで生きてきたんやろ」

 半時間以上もぼんやりしてから、のろのろと立ち上がった。自動洗浄の水が音を立てた。 リビングに戻ってまたソファに座り、浅い呼吸をしていた。

食事をする気も起きなかった。昼になり、夕方になって、初めて少し空腹を覚えた。

 心にこれほどのダメージを負っていても腹が減る。

「まあ霊長類と威張ってみても大したものではない」

 少し微笑んだ。淋しい笑いだと自分で気がついていた。

 テレビをつけて、冷凍食品を温めて食べた。相変わらずのバラエティ番組と馬鹿笑いが素通りしていく。稔は黙々とエサを口に運んだ。

 時間がドロドロと粘りついて流れていく。時計の針は音を立てて身体を刻んでいく。

 ベッドは綺麗に整えられていた。妻はもう相当以前から、荷物を整理し、今日の日の準備をしていたらしい。

 眠れなかった。妻の痴態が浮かび、怒りと嫉妬の塊になった。それまでは気にしてもいなかったが、二つ歳下の妻は、なるほど男の気を引く。妻と男への怒りは、自分の迂闊さへの怒りだった。心を自らズタズタにしていた。

 マンションを残し、株などは総て妻に渡した。現金は姉に半分送った。あとはこれも妻の口座に振り込んだ。

 定年は目の前である。退職金が二千五百万円でる。

「向こうの不倫でしょ」

 姉は怪訝な顔をし、不満そうに言葉を吐き出した。

「不貞行為の相手の男からも慰謝料が取れるのと違う」

 そうも言った。が、疲れ切った、というより諦めきった弟の顔を見て、何も言わなかった。

 稔は怒りを捨てることにした。

 三年かかった。

 冷静に考えてみれば、専業主婦の妻に金はなかった。相手の男性もそう裕福ではなさそうである。男との老いた関係がそう続くとは思わなかったが、妻が帰ってくるだろうという甘い考えはしないことにした。

 自分勝手なものだが、諦めてはみたものの、男との逢瀬の場面がいつも夢に出てきた。

 それでも妻が可哀想だと思った。稔がもっと妻を見つめていたら、こういう結果はなかっただろうと思う。

 稔には男の夢はなかった。

 男は夢を見ないといけない。バカバカしい青い夢を見ることが男である。権力を握り、地位や名誉を求めるのも、社会的承認を得るのも金を稼ぐのも、総て「夢」の途中なのだ。そしてその夢は、小さくなろうとも、老いてなお朽ち果てるまで続かなければならない。

 高年クラブ会長、町内会長、自治会長、民生委員、保護司、青少年育成会長、愛護委員、条例検討委員、商店会長、退職組合会長、理事会幹事。名誉と地位である。それなりに忙しいが、社会に役立っている。男の場合、女性より社会的認知が必要だ。そして、なにより人生を充実させる時間が持てる。上手くすればほんの少し手当が出る。

 地位や名誉だけでなく、ゴルフをしたり、絵を描いてみたり、コーラスに参加したり、焼き物や、ゲートボール、ボーリング、ヨガ、歴史散歩、マラソン、つり、フォークダンス、社交ダンス、カラオケ、囲碁・将棋、お遍路、本やレコードの収集、芸能人の追っかけ、折り紙、絵手紙、盆栽、温泉地巡り、写真、俳句に短歌、創作に小説読破、旅行といったこともあるであろう。 戦後七十年以上経って築き上げられた豊かな社会である。

 昔ながらの地域の子どもの世話とか孫の守りでもよい。

 社会や人間と関わりを持ち、楽しみ、能動的に生きねばならない。過去の地位に生き、テレビのお守りをして引きこもってしまえば、人間の「オス」としての機能を失うことになる。生殖だけのためのオスではない。

 ヒトの場合、無駄でもオスには夢がいるのだ。

 相手のジャズピアニストには、たぶんそれがあったのだろう。喰うや食わずかも知れないが、決して達成できない夢は食べ続けているのだ。

 稔は夢想する。妻と相手との男女関係は嫌悪しているが、意識は都合よく頭の中に妄想を生む。

 妻が相手の男にも見捨てられたら、黙って迎えてやろう。彼女の年金は国民年金だけである。稔は幸い二十万近い年金が入る。妻の取り分があるかどうかは知らないが、少なくとも、法的な不貞行為は妻が働いたのだ。それに六十五歳の年金支給年齢までは、勤め先が雇用してくれる。月二十万で、ボーナス月はさらに二十万がでる。

 少し考えを洩らすと、「そんなの、甘い」と、姉は稔が言う度に眉間に皺を寄せた。

 姉は姫路市の北の町に夫と未婚の息子と住む身である。近くにいる娘夫婦の孫の面倒も見ないといけない。

 バスで二十分かけて駅に出て、JRの三ノ宮まで来て、歩いて十分の北野坂を上る。そうそう稔のことにかまってはいられなかった。

 東京の長男は、たまに電話してくる程度である。嫁の実家が近くにあり、そこにも気を使わねばならないようであった。

 定年を迎えても妻は戻らなかった。

 稔は二年足らずで、退職後の勤めを辞めた。

 よく、同じ仕事を、給料が三分の一ほどになって、昔の部下に使われるのはシンドイという。「部長」「課長」が「さん」付けになり、仕事は単純業務になる。若いヒラなら将来の夢があるが、退職後は生きがいとしての仕事の魅力自体がなくなる。責任もなくなる。なにより、「おかえりなさい。おつかれさま」と言ってくれる妻がいない。言葉はなくとも自分が支えている係累がない。

「ともに歩む、伴侶がいるのか」

 稔は一人になって改めて人間というものの不思議さを感じた。動物でも、つがいはある。だが一匹、一羽になっても、彼らは黙々と生きる。

「いや、そうでないのかも知れない」

 生き物は総て、ともに生きる仲間がいるのだ。頭脳が異常に巨大化し、自己を客観視でき、他の生命の立場にたてる人間の場合は、それがより強いのかも知れない。

 無職になっても生活は保障されている。妻がいても年金が出るまで充分に食べていける蓄えはある。贅沢はしたくもない。あれが食べたい、あの服が着たい、鞄が欲しい時計が欲しいという欲望も枯渇しだしている。

 肉体は壊れ始めている。精神もカサカサに乾き始めている。ゆったりとした老後を過ごす夢はひび割れて崩れた。

「だらだらと生きている」

 ぼんやりとテレビを見て、ぼんやりと飯を食いに出て、ぼんやりと酒を飲む。ぼんやりとレコードを聴き、ぼんやりとコンビニで買い物する。掃除は週に一度が月に一度になり、今は、身の回りを時折するだけだ。洗濯はたまったらクリーニングに出す。下着類は仕方がないのでまとめて洗うと、浴室乾燥機にかける。

 「毎日が日曜日」というフレーズがあったが、日曜は解放されているという語感がある。田中稔の毎日は、日曜であろうと解放どころかもはや時間を潰すだけの存在である。

 格好良く言うと「刻を喰うヒト」であろうか。

「ヒトでなく、動物そのものだが、それを認識しているという点では、ある意味化け物だな」

 稔はニヤリとした。

 そこで、思念から醒めた。

 病室の薄暗い壁がヒンヤリと迫っているのに気がついた。そしてまたすぐ意識の糸が切れた。


 鈴木洋一郎の場合


 鈴木洋一郎は神戸、元町の、めし屋兼居酒屋、山田屋に入った。

 湯気と熱気と、酒と食べ物、人の臭いが押し寄せ、その後から、てんでに話す言葉が飛び出してきた。

 田中稔が隅のテーブルにいて、上げた視線が鈴木とぶつかると、萎えて消えた。

 神戸は全国第六位の人口、百五十万人ほどの港町である。六甲山地と海に挟まれた坂の多い街だ。明治時代の兵庫開港で、ハイカラさで横浜港と並ぶ日本の港湾都市だ。

 高度成長期に、原口忠治郎という市長が、山を崩して住宅地にして、その土で埋め立てをして、人工島を造った。ポートアイランドと言うが、『山、海へ行く』である。懸案であった阪神、阪急、山陽電鉄、神戸電鉄という四つの私鉄を地下で結びつけた神戸高速鉄道を完成させた。

 二十年間も市長をしていた。京大の土木工学科を出て、博士号も持つ。後の明石海峡大橋の調査などもしている。

 そのおかげもあって、沖合には神戸空港が出来ている。

 また六甲山以北にも市域を拡大し、西神ニュータウンなどが出来ている。隣接する明石市は五十平方キロほどに三十万人が住む神戸のベッドタウンだが、それを包み込むように神戸市は広がり六百平方キロ近い。

 めし屋兼居酒屋は教室ほどの空間がある。

 合板の薄っぺらいテーブルが並ぶ。午後の一時半頃とあってほぼ満席だ。大都市のど真ん中に、昭和の雰囲気を持つ店である。従業員は愛想はよくないが、無関心の親切さを持っている。誰にでも同じように対応する。出口の会計席には、ざるに入れた小銭が置いてある。会計の時には便利に違いない。

 隅の丸椅子に荷物を置いて、惣菜棚(そうざいだな)から好きなものをとる。

 テーブルに戻って、瓶ビールを注文した途端に、「知らんがな」と、友人の田中稔は何処かに投げるようにいう。

 稔は昭和二十三年一月生まれ。

「知らんがな」というのは、隣国から「歴史を忘れた国民に未来はない」とニュースで話している事への返答である。

 店の隅の壁上に三十インチくらいのテレビがあって、聞こえるか聞こえないかという音声が流れている。稔は相当気になっているらしい。

「そうやな、少しいらついて溜息が出るな」

 鈴木洋一郎は、ワケギのぬたのラップを外しながら、いらつきとは似合わぬ笑うような調子で言った。

 田中稔は「そやろ」と、我が意を得たりとばかりに声が高くなった。

「『あんたの爺さんが悪いことした。謝れ! あんたの親父が悪いことした。あんたも謝れ! それ忘れるな。謝れ!』『歴史を忘れた国民に未来はない』と言われても『知らんがな』やで」

 祖父はもう、とおの昔にこの世にいない。稔の父親も既に亡くなっている。

 祖父や親父の起こした事件。それの賠償も済んで、謝罪も終わっている。それの蒸し返しである。子や孫に謝れというわけだ。

 韓国の理屈は少し判る。

 ほんの少しである。戦後、高度成長期の始めに、当時の隣国の国家予算の二倍以上の賠償をした。個人補償もしようか、とまで尋ねた。はっきりと『徴用工などの補償は、韓国政府が日本からもらった金でする』と断言した。だが、それ以降、何度も蒸し返す。確かになかなか感情をほぐすのは難しいだろうと思う。しかし、幾度も決着し、幾度も総理たちが謝り、それでも、まだ謝れという。

「まあ、『恨の国』というからな」

「けどなあ、うんざりやで」と田中稔は白い無精ヒゲの生えた顔の、小さな目を瞬かせる。「恨みに嫉妬。まあ、何千年か、中国に押さえつけられて、そこには反抗できないしなあ。気がついたら、自国より遅れていると思っていた、海中の倭国に支配されてしまっていた。ボスには反抗できないけれど、自分の目下と思っていた奴にやられたら、そら残念やわなあ。けど、もうちゃんと手打ち式はしてるんやで。日本は長い間の兄貴分の韓国に謝って、お金も払っているけどな。韓国にして見たら弟分とも思っていなかった『夷の国』の方が先進国で、国際的にも評価が高いから、たまらんのやろなあ。なんとか引きずり下ろしたい。だから嘘でもなんでも言って回る。このごろ他の国でも『韓国不信論』いうてメッキが剥げてきているけどなあ。しかし、そんな不満をぶつけられてもなあ。だいいち、俺なんか、まだ生まれてないしなあ」

 鈴木もうなずく。もう関心を持つのも、関わるのも、うんざりの気分だ。

 運ばれてきた中瓶のビールは、意味のない乾杯の後、二人のグラスに注がれると、あっという間に消えた。

「さあけど、鈴木、わしら生まれてないから戦争知らんけれど、当時の日本はいまの北朝鮮と同じやで」

 田中稔が、もう一本注文しようと、右手の人差し指で空の瓶の口を叩きながら言う。

 一九三〇年代には「娘を売るときには役場に相談して下さい」という貼り紙が地方では見られた。世界大恐慌のあおりを受けて、日本も悲惨な時代であった。

「ふむ・・・、まだ百年経ってないで・・・」

 鈴木は能弁な田中稔の顔を見ながら、ワケギのぬたを頬張った。

 甘辛い感触とワケギの、ぬめっとして、キュリッとした歯触りがあった。

 また、ビールが空に近くなっている。

 当時の経済は跛行的(はこうてき)である。戦艦大和もゼロ戦もあったが自家用車はゼロに近い。石油もない。いまの北朝鮮と同じである。ミサイルと核爆弾はあるが、半導体も液晶も、自動車もろくに作れない。国民は飢えている。娘は身を売る。

 鈴木は、よく喋る田中稔の口元を見つめた。

 高校時代からの付き合いだが、妙なことをよく知っている男である。頭もいいし、国立大学を出てもいる。裕福でもある。ただ、妻と離婚して一人暮らしだ。長男は東京で結婚し家庭を持ち、稔とはあまり付き合いはないらしい。

「ああ、プラスチックがなかったな」

 田中稔が思い出したように言った。

 戦前、石油がなかった話から、田中や鈴木のこども時代に話が飛んだ。

 団塊の世代の小学校前半くらいまで、つまり一九五五年前後までプラスチックはない。これは世界中でも同じである。まだ汎用化されていなかった。

「それ、えらいことやないか」

 鈴木洋一郎は田中稔に言われて思い出し、愕然とした。

 現在を想像するとそうだ。家電はプラスチックの躯体(くたい)、部品も多い。衣類もプラスチックの仲間のナイロンなどだ。布団や絨緞、鞄も靴もその仲間が多い。机など家具の木目は、薄い石油から出来た膜に印刷されたものが貼り付けてある。カーテンも床もソファも、コードも天井も蛍光灯も、バスタブも、玩具も、ゴミ袋も・・・・・・。

「ほんまやな、ぜーんぶ石油や、石油」

 田中稔から言われて周りを考えたら石油に首まで浸かっている。

 団塊の世代はプラスチックとともに現れたのだ。

 いまそれが公害になりだしている。

 団塊は蛍光灯とともに育ち、LEDに照らされて滅んでいく。ブラウン管式テレビとともに育ち、液晶を眺めながら逝く。

 いつの間にか増えたビールは、またもや空に近い。

「田中は、よう知ってるな、俺は、まあそこそこだな」

 鈴木洋一郎の父親は中国で戦っていた。母親は竹槍訓練をしていた世代である。父も母も、あまり戦争のことは話さなかった。

 それでも団塊の世代は、そういう過去の暗い雰囲気を引きずっていた時代に成長したのである。

 戦後生まれだが、戦前の空気がたっぷりと残る中で育ってきた。そういう重苦しく暗いものが身体の中に自然に染みこみ沈殿している。

 戦争そのものを知っているわけではない。北山修が作詩し、杉田二郎が作曲した『戦争を知らない子どもたち』だ。朝鮮戦争さえ記憶にない。

 稔の喋りを聞き、食べて飲むのを見ながら、チラリと首を動かして店内を見た。

 戦争を知らない子どもたちが『戦争を知らない老人達』になって集まっていた。一人で飲んでいるものもいる。ハイキング帰りか男女の数人のグループがリュックを足下に置いて笑っている。二、三人で頭を突き合わせつつ話している連中も多い。それが総て『戦争を知らない老人達』である。

 この山田屋は朝の七時から夜の九時迄やっている。朝はサラリーマンが立ち寄る。昼は近くの大丸百貨店などに行った帰りだろうか、親子連れもいるし、近くの女性会社員も来る。昼定食は七百五十円で、量もあり美味い。夕方からは背広のサラリーマンらに占領される。それ以外の時間は『適用除外族』である。高齢者だが、介護保険のお世話にならず自立している人間のことだ。そして七十代が多い。いうまでもなく八十代になるとさすがに出歩く人間は減る。そして二〇一八年前後の七十代とは、団塊の世代とその前後の人のことだ。

 はじめから平和の空気の中で生まれ育ったのではなかった。敗北感と、もう我が国は立ち直れないという虚脱感と、占領されるという屈辱感、そして膨大な人々の無惨な死の空気の中で生まれたのだ。いわば死の中から生まれたのが団塊の世代である。

「生まれてもいない団塊の我々は、、隣国から、もう言われるのは、うんざりやで」田中稔の話が元に戻った。「もっとも、俺たちが働いていた高度成長期には、韓国も中国も発展途上国で、気にもかけなかったけれどな。いまはそう言われても仕方のない時代になってるな」

「うん、これからは中国にはもちろん、韓国にも抜かれるかも知れんな。奈良時代、平安時代、いやそれ以前の『倭国』になるかもな。人口も減り、経済力も落ち、借金は千兆円を超え、老人は三人に一人になる。長生きしたら、飢え死にするかもしれん」

 鈴木は、そう言って、少し生ぬるくなったグラスをぐっと空けた。

     ※

 帰りの神戸電鉄の電車の中で、鈴木洋一郎は、大きな欠伸を何度もした。

 酒は強い方だったが、歳には勝てない。次第に少量で酔うようになった。

 田中稔の博識には感心する。少し嫉妬もあるが、友人の話だから、面白く聞いている。

 地元の高齢者クラブに顔を出したら「長老大会」と「(うん)(ちく)大会」だった。

 「長老大会」は年齢自慢である。団塊の世代をつかまえて「若いなあ」とか「俺は戦前生まれだ」「戦中派」だという。それには「俺の方が年上だぞ、敬意を払え」というニュアンスがある。まあ確かに漢字では「戦前」かも知れないが、大体が八十歳代である。戦争が終わった時は十歳前後だ。「戦中派」とは少しオーバーだ。それを指摘しても仕方がない。歳は誰でもとるのだが、もちろんそんなことは口が裂けても言えない。それに、洋一郎も息子や孫に対しては、そういうことを言っているかも知れないから、他人のことをとやかくは言えない。

 「蘊蓄大会」は、調べた地元の有名人のことや、趣味の世界、地域の歴史を(とう)(とう)と話し出すことである。人間には他人に教えたい、指導したい、話したい、尊敬されたいという願望がある。承認欲求だ。現役時代はそれなりに所属感も、部下や同僚、家族からの承認もあったが、退職すると何もなくなる。自分史を書いたり、地域のことを調べたりしてまとめる。だが、息子も孫も聞いても、読んでもくれない。面白い小説の中のストーリーに必要な蘊蓄なら読んでくれる。しかし素人の調べた学識など興味もないし面白くもない。そこで高齢者クラブでお互いに「蘊蓄大会」をすることになる。

「俺もその傾向が少しあるかも知れんな」

 鈴木洋一郎は工業大学の電気工学科に進んだ。県立星陵高校で同じグラマーの補習を受けていた田中稔が国立大に進んだのに、鈴木洋一郎は私学の関西工科大の夜間だった。

 よくもてたので、そちらに興味がありすぎたのかも知れない。もっとも、彼の人間的な底が浅かったのであろうか、深くつきあった女性はいない。

 関西の私学の雄は関関同立である。関西大学、関西学院大学、同志社、立命館だ。併願できるところは受験したがどこにも通らなかった。

 関西工科大そのものは難しい大学の部類に入っていた。しかし定時制は比較的容易だった。だから働いてもいないのに定時制を受ける学生は結構いた。

 三年次になる時に夜間の定時制から昼間の全日制に転部した。それでだいぶ学力の劣等感から解放された。

 就職は地元の畿内機工である。大企業ではないが七百名の人員を擁する中堅企業だ。小型エンジンや、変圧器などを造っていた。研究室に配属されたが、二年で総務部に異動した。研究者としての能力はないと判断されたらしい。以後、退職まで総務部で採用事務や、得意先と下請け回りの営業をしていた。

 父親がバブルも利用して金を貯め、鈴蘭台北に敷地百五十坪、建坪三十五坪の総二階建ての家を建てた。父と母、洋一郎と妻と三人の子どもが住んだ。

 妻は父親が応援していた保守政党の地域幹部の娘で、頭が良く気が強い美人であった。コーヒー豆の販売などをしていたので、政治組織と結びつくのは都合がよかったらしい。

 鈴木洋一郎は若かった。相手の人間性とか相性とか、その辺の所はあまり考えなかった。

 美人の娘と結婚できたことに有頂天だった。三人の娘が出来た。

 結婚生活が十年近くなると、妻は洋一郎にあまり関心を向けなくなった。理由はわかっていた。結婚自体が洋一郎の父親の金が、妻の父親の政治活動へ向けられるといった政略的なものであった。

 妻には結婚前、好きな男がいたらしい。しかし、男は当時、爆発的に流行した学生運動にのめり込んでいた。その家庭も経済的に貧しかった。惚れているとはいえ、娘がみすみす不幸になるより、魅力がなくても堅実な洋一郎に嫁がせた方がよかった。

 洋一郎は真面目だ。これという趣味はない。ゴルフに出かけ、たまにブランドものの腕時計や、洋服を買うと、嬉しそうに自慢する。そんな男だった。確かに美男子だが、自分の金も力もなく、夢もなかった。魅力的な男性性がないと言えばいいだろうか。男性性とは精神的な切断性のことだ。そして切断性とは、こだわらぬ事でもある。男の根源的な魅力とは、キン肉マンでもなく傲慢さでもなく、知識、学歴でもない。金や地位でもない。青い夢を指している。理想的に言えば宇宙探査機「はやぶさ」を飛ばして、三億キロの彼方から星の欠片を持ち帰ることに人生をかけるような。

 鈴木洋一郎の父親は息子に金を触らせなかった。

 だから洋一郎は色男の通例どおりに金や力はない。そして「夢」もなかった。

 妻の昔の恋人は、美男子でもなく、財産も力もなかったが、当時、安保反対から東大紛争などで盛り上がった学生運動から政治運動に没頭していた。男の青い夢が全身から輝き出ていた。

 洋一郎は、喫茶店をしていた父親に才覚が有り、彼を塾に通わせたりした。団塊の世代で塾に通った者は少なかった。学習塾などと言うものはほとんど存在しなかった。洋一郎は、自分から進んで学ぶという点には欠けていたから、大学進学で躓く。

 美男子というのは確かに得な風貌だった。洋一郎は加山雄三似で高校時代から女の子にちやほやされている。もっとも、つきあうとすぐにメッキが剥げて「面白くない」地金が見えていたらしい。

 知的好奇心がないので話が面白くない。音楽にも、芸能界にも興味がない。なにより男の子の持つ馬鹿げた夢がない。四十代前後にテレビゲームが流行り、コンピュータが普及しだした。こういうものにまったく興味を示さなかった。

 全体として団塊の世代は、デジタル革命、インターネット革命に乗り損なっている。古希を迎えて、そういうものが自在に扱えるのは一割もいるであろうか。管理職になってもワープロは部下に打たせていたし、割り当てられたパソコンではネットサーフィンばかりしていた。それでも、大多数はメールはなんとか扱えたが、洋一郎は、それさえ自由に使えなかった。ガラケーは始めた。待ち合わせなどの伝言板代わりに便利だったからだ。スマホは買わなかった。ゲームもしないし、ラインも、携帯電話番号で使えるSMSと言うメールも使わなかった。

「鈴木さん、メールなら、空いている時に打てるし、相手もゆっくり読める。電話は時も所も構わずだから、急ぐ時以外はメールの方が便利ですよ」

 とゴルフ仲間に言われて考えたこともある。

 しかし、やらなかった。手間暇が面倒である。なにより自分が変わることが怖い、メールを打ち出したら、やりとりする関係者が必ず増えるだろう。そこにいちいち返答しないといけない。妻や娘からも来るに違いない。話す方が楽だ。

 ガラケーは、さすがに使えないと、不便だから持っただけだ。家の電話の延長である。自分からはかけるが、相手からのものにはなるだけでない。

 基本は怠けごころである。好きなこと好きなもの、快いものとだけとつきあう。上司から命令されたり説教されたり、友だちから善意を持って言われる注意さえ嫌だった。人とそういう付き合いをすると自分を変える努力をしなければならない。洋一郎の心の芯の部分には変えたくない強い自我が鎮座していた。

「部長の荷物を持ったり、引っ越しの手伝いなんか、ゴマすりで俺はしたくない。趣味の会の先輩の展覧会の作品を運んだり、手伝いをしたりするのは下心が嫌だ。男のマメはイヤらしい」といって、いつも避けていた。

 もちろん、追従的な面も世の中に多いが、人間関係という面では必要な部分もある。

 本音の所は面倒だった。その反面、極めて少ないが、洋一郎を気に入っている上司には、自宅まで手土産持参で遊びに行った。また逆に洋一郎に都合のよい同僚や友人はよく呼び出した。その時の飲食代はワリカンである。部下はワリカンも出来ないので、あまり誘わなかった。

 妙に現実的で、そして吝嗇と言うほどではないがケチの気配がある。

 結婚後、妻は三人の娘の子育てに夢中になった。

 洋一郎に期待はしていなかったようだ。それは彼にとって楽な生き方だった。

 その妻の教育熱心もあって一番上は、阪大の医学部に進んだ。洋一郎は自分の子ではない気がしたほどだ。二、三番目もそれぞれ有名大に進んだ。妻の資質を受け継いだのだと苦笑いしていたが、金が湯水のように消えた。

 妻は娘が大きくなると、女友達と会食や海外旅行に度々出かけるようになった。

 洋一郎の両親が相次いで去る。父親は考えていたほどたくさんの金は残さなかった。自分で稼いだ金は、自分で殆ど使い切って旅立った。妻の両親も去る。娘達は結婚し、でていく。或いは独身のまま都会での一人暮らしを好む。

 広い二階建ての家の中は空気が遊んでいた。

 妻の飛び歩きは、子どもの巣立った鳥の巣を意味する「空の巣症候群」という病らしい。

 妻は夫とは適当に過ごしてきた。妻から見れば、体のいい種馬であったのかも知れない。二人になるとますます何の面白味もない。歳をとると、人は頑固になる。変化するためには努力しないといけないからである。洋一郎は頑固さの度合いが増してくる。加山雄三似の顔には老人斑がまだらに広がり、ヒフは土気色である。顎のえらはますます張り、頑固さを象徴している。下腹部が出てきて太鼓腹である。

 加山雄三が洋一郎より十歳ほども年上とは想像できないほど若いのに比べると幻滅する。もちろん加山雄三がタレントで、トレーニングや、肌のお手入れもし、スタイリストがついているのを解った上である。

「それにしても、もう少し気をつけて、何か夢があれば」

 と思う。しかし、そういうことがなんとなく解っていた前提で結婚した。させられたという気もあるが、青い学生運動家より、堅実な道を選んだことは間違っていなかったと考えている。

 電車が鈴蘭台駅を超えると、霧が出てきた。

 父親と越してきたときは、洋一郎は嬉しかった。

 転売を繰り返し、転居ばかりして来た気がするが、八千五百万円の邸宅に引っ越せたのである。両親と妻と子どもと、七人が住んだ。子どもには八畳の個室を与えられたし、洋一郎には書斎もある。応接室を独立して持つことも出来た。

 鈴蘭台北の新興住宅地である。周りは立派な戸建てばかりで、若い夫婦も多かった。駅前のスーパーは新築され、銀行も病院も徒歩圏内にいくらもあった。近くの町には大手百貨店の支店も開設された。

 不動産バブルが弾けた。

 それでもいずれまた、と思っていたが再現はなかった。

 やがて膨張した神戸市自体の人口が減り始めた。

 人は六甲山南の市街地に集まりだす。ポートアイランドや、六甲アイランドに、市は重点的に投資した。巨大病院が造られ、理化学研究所や、コンピュータ「京」が誕生した。

 神戸女子大、神戸学院大といった大きな大学が、広々としたキャンパスを設けた。

 高層の住宅街やオフィスが建設される。完全無人運転のポートライナーがその間を走り抜け、神戸空港に人を運んだ。

子育てを終えた鈴蘭台北は、老人が多くなった。

 八千五百万の住宅は、五千万になり、三千万になり、ついに二千万を切るところまで来た。それでも買い手はなかった。何度も手を入れたとはいえ住宅は築四十年以上の古家になっている。

 駅前の銀行は閉鎖されて、キャッシュコーナーだけが残っている。病院も年老いた医師の個人医院があるだけだ。もちろん駅前のスーパーは消えて、しゃれた感じのプレハブアパートが建ち並んでいる。そこなら、なんとか神戸の中心まで一時間でたどり着ける。若い独り者が多い。

 田中稔のように、神戸の都心なら古くても買い手は多いし、値もそれほど下がることはない。むしろあがっているところも多い。病院も買い物も、映画も観劇も、音楽や美術や色々な講座、総て手の届くところにある。

「ま、しゃあないな」

 鈴木洋一郎はポツンと心の中で呟いた。

 大阪に近く交通が便利な都市は、人口が増しているらしい。しかし、神戸やそれ以西となると、中心駅周辺や大きな道路沿い以外は、高齢者が増え、人口が減っている。

 食料品一つ、買物がままならない。既に田舎の過疎化は言われ出して久しいが、都市といっても、巨大都市圏の中心部以外は似たようなものである。 

「しゃあないが、医者通いはしんどいな」

 諦めの言葉が頭の中にでる。

 駅前に残った診療所は、いつも老人で満杯である。待ち時間が長くあまり評判もよくないので神戸まで出る。自宅を出て歩く。電車を待ち、神戸電鉄の新開地で乗り換えて元町に着き、歩いて病院までとなると、一時間半はかかる。

 買物がてら、散策がてらというと聞こえはよいが、もうどのようなものにもさして興味はない。だいいち出かけるのがそろそろおっくうになりだしている。

 もう糖尿病と診断されて長い。六十過ぎからである。

 Ⅱ型糖尿病、生活習慣病だそうだ。

 父親も軽い糖尿で「自分もいずれ糖尿病が」と思っていたら発症した。

 寿命が延び、身体が老化すると当然臓器も劣化する。血糖を抑制してくれるインシュリンが、六十代になると、三十代の時の三分の一になるという。運動不足、肥満、ストレス、喫煙、飲酒が拍車をかける。

 治療は今のところ朝食後に小さな薬剤を飲むだけだ。しかしこの薬をもらうには月に一度、医師の診察が必要になる。

 病院はどこもかしこも老人だらけである。高血圧、腰痛、膝の異常、入れ歯、耳鳴り、白内障、頭痛、肩こり、不眠、排尿障害、物忘れ、認知症。あげ出すとキリがない。高齢者一人、三つ四つは当たり前だ。骨も筋肉も腱も、血管も神経も、臓器も総て機能は低下し壊れ始めている。

 五十代くらいから始まる病変は、人間としての機能が劣化してきている左証である。

「『人間やめなさい』と神様が言っているんだな」

 ぼんやりそう思いつつ、電車を降りて坂道を歩み出した。

 団塊の世代は、平均寿命が五十歳前後の時代に生まれて、八十歳前後にのびた世界に生きてきた。栄養状態や衛生状態がよくなったからだという。目出度いことらしい。しかし考えてみると、五十代から、人の名前が出てこなくなる。物忘れも多くなる。白髪が増え、老人斑が出来だす。目が弱り、歯も抜け始める。耳の調子も悪くなり、声も低くなり掠れ始める。はっきりしないがたぶん嗅覚も衰えているだろう。筋肉も衰える。新陳代謝が悪くなるので、眉や鼻毛が伸び始め、白くなりだす。六十代になるとそのスピードが加速し始める。

「腹が出てくるのは、食べ過ぎだな」

 緩い坂道をのぼりながら片手で腹を軽くたたいた。

 身体が必要としなくなっているのに若い頃同様に食べる。生存欲の根源たる食欲だ。百万年に及ぶ原始時代に、餓死を避けるために、とにかく満腹にするという生物的習性が、人間にも備わっているらしい。白内障は七十歳前に両眼とも手術している。戦後すぐまでは「白そこひ」と言う病名で失明していた。

「少しは生きやすくなったのか・・・、いや、それとも死なねばならないのに、寿命がのびたのか。そのおかげで老化や、病という苦痛をたっぷり味わうことになったのか・・・」

 鈴木洋一郎は団塊の世代が担うことになった苦しみを思いながら、唇の端を歪めた。

 生老病死は、お釈迦様のおっしゃった人間の生きる上での四つの苦である。だが、直接生まれる苦しみと、死は変わらぬとしても、老・病は大幅に増加したのではないかと思う。

 少し息が弾み始めた。

 鈴蘭台北は山中の盆地に近い。市が計画的に開発したところだけあって、舗装も行き届き、歩道も整備されているが、最近は少し怪しくなってきている。

 そういえば、自分の足も怪しい。歩幅が狭くなり、背が曲がって少し猫背のようだ。幸いいまのところ、田中稔のように杖が必要なわけではない。古希になって杖に頼りだしたら、八十歳になるころには歩けなくなる恐れが出てくる。だから、日頃、散歩は欠かさない。

 四時頃だというのに、あまり人に出会わない。

 最近は、生協の宅配とか、弁当の宅配、更にはアメリカの巨大なアマゾンのおかげで、通販が発達し、高齢者は在宅でも過ごし易い。

「子どもの頃は、母親との買物と言えば市場だけだった。細長い通路の両側に店が並び、新聞紙で量り売りしたものを包んでくれたなあ」

 ぼんやりと思い出した。人間の脳は、一説によると光より早く情報とも妄想ともつかぬものを回転させるらしい。

 主婦の店ダイエーというのがスーパーの走りで、板宿の中にも出来たのは、洋一郎が中学生くらいになってからである。

 団塊の彼らの時代は、二、三年が江戸時代二百六十年間ほどに匹敵するほど変化が早い。人間の意識や感情は変わらぬままなのに、認知する外界は、その認知能力以上に早く変わっていく。

 階段を上がり、玄関ドアに鍵を差し込んで回した。

 澱んだ空気が押し寄せると思ったが、開けた途端、「おかえりなさい」と珍しく妻の明るい声が耳朶を打った。

「あ、ああ」喜んでいるはずなのに喉に声が引っかかっている。「た、ただいま」

 久し振りに帰宅の受け答えをした気がする。六畳ほどもある玄関から廊下を抜けてリビングダイニングに入った。七人の人間がいた時には狭いくらいだったが、いまは空間がむやみに広がっている。

 大きなダイニングテーブルの椅子に妻が座ってよく光る目で洋一郎を見る。口元には少しぎこちない感じの微笑がある。

「あ」

 洋一郎の心の警報が微かに震えた。

「田中さんお元気だった」

「あ、ああ、変わらんね」

 洋一郎は答えつつ、隣のサニタリーに入り洗面台で手を洗い、うがいをゆっくりとした。「何があるのか」と見せることのない妻の笑顔を思い出しながら考えてみた。高価な買物か、高額な旅行か、長い留守か・・・。とりあえずそんなところだろうと見当をつけつつペーパータオルで手を拭った。

「夕飯は食べないでしょ」

「うん」

 お茶を入れながら聞く妻に答えつつ、椅子に腰を降ろした。

「田中さんもお一人じゃあ淋しいでしょ。前にお会いしてからどれくらいたつかしら」

「ああ、お前とは親父の葬式以来だな」 

 もう遙かに過去の話である。

 洋一郎が湯飲みを取り上げ、一口飲み終えてから、妻が用件を切り出した。

「あのねえ、再来月の初めから三週間ほど、山際さんたちと、アメリカに行こうと思うの」

「ああ」

 と洋一郎の喉から言葉にならない声が出た。いつものことだが、三週間は長い。

「いいでしょ」

「うん」

 洋一郎はこくんと頷いた。それしか仕方がない。「長いなあ」とかいう否定的なニュアンスがあれば、たちまち妻は黙り込むだろう。余分なことを聞くと、何処かでプツンと切れて、妻の表情は氷になる。静かにしていれば話し出す。しかし洋一郎は少しだけ誘ってみた。

「ロスかニューヨークか」 

「あら、ロスは前に行ったじゃない。山根さんや沼田さんと」

「ああ、そうだ」

 妻は女子会、というより洋一郎が口に出して言えない「おばん会」で、ロスに行っている。ラスベガスにも寄ったはずである。

「ワシントンで一泊するでしょ。議会、ホワイトハウス見てみたいわ。ニューヨークに行って三泊。自由の女神は登るの。タイムズスクエア、摩天楼にも行ってみたい。ブロードウェーでミュージカルも見るわ。セントラルパーク散策して。ああ、マンハッタンの西側に三兆円かけたという『ハドソンヤード』がオープンしたって。二千五百段の階段が組み上がっていく赤銅色のモニュメントもあるって。三井不動産が造ったらしいわ。それから北にあがってナイアガラ・・・・」

 洋一郎は黙って妻の話を聞いていた。右の上、奥歯がぐらぐらする。下は左が部分入れ歯だ。前歯は少し欠けている。前歯はご愛敬ともいえるが、なんだか「貧乏くさく」もある。

「一本五十万円のインプラントは無理だろうなあ・・・」

 洋一郎の頭の中を妻の言葉が通り抜けていった。


岡田清美の場合


 岡田清美はにこにこしていた。

 小さな顔だ。背も百五十センチ半ばくらいだろうか。可愛い感じを誰もが受ける。

 背の高い八木恭子は美人だ。団塊の世代で八頭身は珍しい。キリリとしている。宝塚歌劇の男役にでもなれそうである。

 この二人はいつも一緒にいた。中学三年から友だちになり、高等学校も一緒である。

 女性の二人組は、男性以上に二人の対比が際立つ。同じ傾向の美人どおしという組み合わせは滅多に見ない。二人とも美人でも、この岡田と八木のように、背丈や体型、可愛さと整った美しさと、と言った点で異なる。

「舟木のレコード買ったわ」

 岡田清美が八木に言う。

 一九六〇年代前半である。CDの登場は八〇年代だ。

「まあ、清美が好きならね」

 八木は素っ気ない。御三家と言われた橋幸夫も舟木一夫、西郷輝彦もたいして好きではない。

 岡田清美は、八木恭子の左手の先に自分の右手を触れさせる。

「歌詞がいいわよ、高校三年生」

「あの人、高校の制服着ているけれど、もう卒業しているんでしょう」

「うん、橋も舟木も、私たちより三つくらい年上ね」

「それより清美、進路相談、どうするの」

「あ、それねえ、どうしようかなあ・・・」

 岡田清美は下を向いて小さくため息を吐いて黙り込んだ。

「私ねえ。就職しようと思うの」

 八木恭子が、そう口を開いたので、岡田は下から八木の横顔を見つめた。

 高校の帰り道の公園の木のベンチは、涼やかな木影になっていた。

「恭子、進学しないで就職するの?」

 岡田清美は、少しだけ驚いた声を出した。なんとなく解ってはいたが、はっきり言われたのは今日が初めてである。

 木漏れ日が端正な八木の顔を照らしている。

 清美は、ゴクリと喉を鳴らしてから「私、神戸の短大の家政科かなあ」と声を落とした。

「そう」

 風が吹いて木漏れ日を乾いた地面に振り落とした。

 県立星陵高校は大学進学校である。全体の一割から二割が就職であるが、ほとんどは女子である。

 清美は、またため息を大きく吐いた。

 できれば、八木恭子と同じ大学に進学したかった。特に八木の家庭が進学に難しいという話は聞いていない。

「なんで・・・」清美は、就職するの、という続きを口の中に残した。

「うーん」

 八木恭子は、少し上を向いて考えるように小首を傾げた。

 その首筋とうなじを、清美は意識を失ったように見つめていた。

      ※  

 清美は神戸の短大に進んだ。

 家政科は、料理、被服、家計などを学ぶ。一九六〇年代当時は、専業主婦向け、良妻賢母育成を目指している。現在は、実用性を重視した保育士、調理師、幼稚園教員の資格が取れたり、コンピュータ関係の資格も目指す大学も多い。また四年制大学化、男女共学化も進んでいる。

 清美は短大に進んでからも、神戸市のファッション企業に進んだ八木恭子とは月に一、二度は会っていた。

 八木恭子は、清美が短大にいる間、三つ会社を変わった。

 一つ目のファツション企業は、ブランドものの衣料を製造販売する大手だった。工場や下請けに女性は多かったが、本社の女性従業員は、二百五十人余りの中で、二十人足らずだった。もちろん女性グループの確執はあった。

 それよりセクハラが酷かった。歓迎会では、会場のカーテンを使ってストリップまがいのことをやらされた。八木恭子は美人だった上に、少しすましていると見られるところがあり、標的になった。現在では考えられないことだが、容姿はもちろん、生理のことまで男性の口から露骨に出た。会社の倉庫で、上司の係長に襲われかけたことさえある。もちろん問題にしてもろくに取り合ってくれる時代ではなかった。一年で辞めた。

 二つ目は長田の靴関係の百人足らずの中堅企業だった。ここでは、高卒には珍しく秘書に採用されたが、社長の個人秘書である。社長愛人の指定席とわかって半年足らずで去った。

 現在の会社はコーヒーの輸入、製造、販売をする。ここでやっと事務として落ち着いた。半世紀後、この会社は日本を代表する缶コーヒーなどを販売する企業になっている。

 八木も清美も、男性との付き合いはなかった。八木はすらっとした美人だし、清美も小柄で可愛い女性である。言い寄ってくる男性は多かったが、二人とも関心がなかった。

「私、野口五郎、みたいな人がタイプだけれど、どうも何か、硬い岩のような感じがするのよ。怒られるわねファンの人に」

 清美が口にすると、八木恭子が笑いながら続けた。

「私は、そうねえ、郷ひろみ、かしら」

 そう言って恭子は清美の顔を見下ろした。

 相楽園の庭園で早い夕食の後、六甲山から、現在は1000万ドルとなった神戸の夜景を前に、二人は肩を寄せていた。

 清美の左手が遠慮がちに、八木恭子の右手に触れた。清美は少し手のひらが汗ばんでいると思ったが、触れた恭子の手のひらも湿り気があって温かかった。指が少しずつ絡み合い、清美はきゅっと手を握られるのを感じた。頬が紅潮するのが解った。

「清美・・・」

 八木恭子の口から溜息のような言葉が漏れた。同時に恭子の身体が清美の方を向いた。斜め上から柔らかな香りが満ちてくる。

「なんの香りかしら」

 清美は頭の隅でそう思いながら、目をそっと閉じた。

 

崩れゆく波


 田中稔の耳元で誰かが囁いていた。

「うーん、無理かな・・・。もう一年経つか・・・」

「今日は、お姉さんが来られるようですし」

「今夜か・・・、よし用意しておいて」

「先生、いいんですか」

 田中稔は、ぼんやりしていた。夢の中の会話のようで、それもおぼろである。何度か病室を移されたのは覚えている。身体は何も感じない。手足の感覚も背中も臀もあるのかどうかさえわからない。それより生きているのかも解らない。漂っている。

 どれくらい時間が経ったのか、微かに稔を稔と認識していた意識が、突然切れた。

 総ての存在がなくなった。

     ※

 ポツトに茶葉を入れた。モスグリーンの葉の上に湯を注ぐ。グリーンが一瞬濃さを増し、闇色にかわるとそれはたちまち全体に広がり、透明な湯の中に溶け出していく。葉は湯の中で新たないのちを得て、喜びをかもし出す。それが、微かに清美の鼻腔をくすぐる。

「お茶にしましょうか」

 清美は隣室に声をかけた。

「うん、そうねえ」

 襖が開いて八木恭子が顔を見せた。

 ほうれい線が深くなり、目尻の小じわが目立つ。髪は滑らかな輝きを持つ白髪である。若い頃の少しきつい感じの顔立ちはそのままだが、目に優しさがあふれている。

清美は、白髪混じりの黒髪だが、上の部分はウィッグである。

 神戸で買った成城石井のカステラを取り分けて皿に置く。

 すっかり湯の中に溶け込んだ茶葉のいのちを、ホタル焼きの湯飲みに注ぐ。何度も何度も小分けにして。

 リビングのテーブルの上のランチョンマットに湯飲みとカステラを運ぶ。

「あら、おまんじゅうじゃなくて、カステラ」

 八木恭子が清美に笑いかけた。清美は、明石分大の羊羹やおまんじゅうが好きなのだ。いつも出てくるので、カステラに少し驚いている。

「この間の同窓会で、鈴木くんに会ったの」

「鈴木・・・」

 いきなり出てきた名前に恭子が小首を傾げた。

「覚えてない?」

 清美がお茶を少し口に含んで、上目づかいに恭子を見た。

「同窓会って、どこの」

「星陵」

「ああ・・・・」

 恭子は記憶の奥底に沈んでいる学校の名前を聞いた。

 恭子は同窓会員登録はしていない。清美は、同窓会員なのだ。時折出かけたり、送られてくる会報を恭子に見せたりする。しかし、恭子はもう余り興味はなかった。

 会報などによると、隣にあった神戸商科大は別の場所に移転して、県立大学の一つの学部になっているらしい。高校の近くには高速道路のインターが出来て、それは巨大な面積を持つ街並みに包み込まれている。高校の校舎は、小さな大学かと見間違うほどの近代的なものに建て替えられているらしい。聞くところでは、制服がなくなって私服だというのに少し驚いたが、もう行ってみたいとも、あの時代の誰にあいたいとも思わない。

「思い出した?」

「うーん、鈴木くんねえ」

「ヒントあげようか」

「うん」

「加山雄三」

「・・・・」

 苦笑が出るだけである。加山雄三に似ている鈴木だという。男前だと言うことだが、思い出せない。お茶を飲み下しながら記憶の底をさらいだしたら、胃の腑が暖かくなると同時に、微かにそんな生徒がいたことが蘇ってきた。

「思い出した?」

「うーん、なんとなく、そう言われればねえ。六十年くらい前のことでしょ」

「そうね、半世紀以上も前なのね」

 清美は相づちを打ちながら、カステラを口に運んだ。上品な甘さと、ミルクとバターが混じり合った味わいがする。

「で、鈴木君に会って、どうだった」

「お腹の出た、おじいさんになっていた」

「あたりまえよ。わたしたちは、おばあさん」

「覚えているかなあ、彼と、補習を受けたの」

「赤点グラマーね。あれは覚えている。人間って、そういう落伍体験はしっかり記憶に残るのね」

 清美は若い頃同様、ニコニコしながら人生を共に歩んできた八木恭子の顔を見つめた。

 清美は、饒舌になった。

 鈴木洋一郎が鈴蘭台北にいること、奥さんと二人暮らしと言うこと、そして、田中稔が亡くなったこと。

「覚えていないわ」

 八木恭子は首を振った。

 加山雄三似と言われれば、なんとなく鈴木のことが浮かんできたが、田中稔の姿は頭のどこの片隅にも屈んでいなかった。

「それがね」   

 清美は話し出した。

「気の毒よね」から始まった。

 田中稔は一人暮らしで、脳梗塞を起こして一年余り植物状態に近かったらしい。その間、姫路の姉は時折訪れていたが、東京にいる長男は一度顔を見に来ただけであるという。まあ、誰もいないよりはましともいえるが、長い人生の終わりがこれではと、月に一度程度は訪れていた鈴木洋一郎は思ったらしい。

 洋一郎と妻との仲は、彼によると冷え切っていると言いきるほどでもなく、相互不干渉の同居者だった。幸い長女が医者で神戸にいる。余り尊敬された父親ではなかったが、それでも女の子というのは比較的両親、特に父親のことは気にかけてくれる。子どもは三人とも娘である。しかも神戸や西宮にいる。

 洋一郎は、息子がいないのを残念に思った時期もあった。実際、鈴木洋一郎が子どもの自分、経済の高度成長期以前は、息子の方が頼りになった。

 第二次大戦前は、国民の六割以上が農業である。田舎の大家族制の元では「家」は男性が嗣ぎ、女性には親権もない。父親が寝たきりでも長男の嫁が世話をやいてくれた。

 だが、明治以来、基本的に農業社会の封建制度で成り立っていた国の仕組みが敗戦と高度成長で壊れた。

 国民の六〇パーセントの農家は四パーセント以下に激減した。

 都会の核家族の中で男性は働きバチにしか過ぎない。その夫の父親など、顔もほとんどあわせたことがない。

 嫁いだ女性は、舅姑に遠慮なく動けるようになった。

「鈴木くんは幸せなんだ」

 八木恭子が七十代とは思えない快活な声でいった。

「うん、あまりパッとしない感じだけれどもね」清美は、少し声を落とした。「加山雄三が細くなって、目も口も鼻も下がって、お腹が膨らんで・・・」

 八木恭子は「おやおや」と口の中で呟き、鈴木を思い出そうとしたが、やはり明瞭な記憶はなかった。高校時代から、清美のことだけが心の過半を占めていて、男性には何の興味もわかなかった。むしろ不潔さが強かった。

 清美とはいわゆるレズビアンである。LGBT、セクシュアル・マイノリティーは、二十人に一人程度と言われる。しかし六十年前には口に出すのも憚られる時代であった。そこから生き抜いてきた。男女の夫婦以上によい伴侶であった。親からも他の友人からも疎外されてきたが、ようやく少し明るさが見え始めただろうか。

 二人が生きてきた時代は、日本では典型的に新しい波が生まれ始めた時期である。古く硬い岩の塊のような団塊の世代は、内部に新しい芽を含みつつ、いま破壊されつつあるのかも知れない。

「・・・でね、終末期鎮静でね、逝ったらしいの」

「えっ」

 八木恭子の耳に言葉が突き刺さった。

「何それ、逝くって。安楽死なの」

「違うって、でも議論があるようよ。消極的安楽死だって」

 安楽死を世界で認めているところは少ない。回復不可能、末期、苦痛がある、本人も、そして出来れば周りも、去りたい、去らせたいと思っている。しかし、去らせるには複数の医師の所見がいるなど厳しい。

 実際問題、本人の意思の確認が出来ないこともある。本人に関係なく、「生きていてもらいたい」という家族の希望もある。更には、相続などの難しい関係も生まれてくる。

「死にたい」だけで、安楽死を認めると、自殺そのものを容認してしまうことにもなる。

「そうか、終末期鎮静って、止む得ない処置か」

 八木恭子は遠くを見るようにしていった。

 清美と知り合って人生を生きてきた。しかしいずれ、死は訪れる。厳しい話だが、一人は見送ることになる。もし二人同時に死ぬといっても、実際の所、死の瞬間は、人は独りで逝かねばならない。

 八木恭子は清美をじっと見ながら、「それって、具体的にはどういうこと」と聞いた。

「鎮静剤とか睡眠剤を使うって聞いたわ」

 清美が続けた。

 避けられない死が近い。意思が確認できない、或いは本人も望んでいる。そして肉親家族も同意している。

 疼痛治療は出来ても、死の近い肉体は「沈み込むようなだるさ」に近いと思われる。

 それでも安楽死をおこなうと、我が国の場合のみならず、医師は殺人罪にさえ問われる可能性がある。

 といって、回復の見込みのない苦痛を持つ人間をいたずらに生かせておくことの方が、人間として正しいのか。それを考えると、医師のみならず誰でも疑問を持つに違いない。

 病を治すのが医師なら、治せない病を終わらせるのも医師の努めなのだ。

「量を増やして或いは少しでも、そういう薬でいのちを断てるのか、それは知らないけれどもね」清美は八木恭子を震える視線で見上げるようにして言った。「眠っている間に・・・。私もそうしてね」

 八木恭子は、改めて清美の瞳をじっと見た。

 レズだなんて、現在でも先進国を除いて世界の中には、それを知られると生きていくことさえ出来にくい国も多い。二十一世紀の日本でさえ、なかなか一般にはオープンに出来ない。家族までも巻き込んでしまうであろう。

 数十年前、清美と知り合った当初は、とても洩らせるような時代ではなかった。女性そのものも、一万年とも言われる人類の文明の歴史の中でやっと表舞台に立てるようになった。それが二十世紀後半からである。僅か数十年に過ぎない。

 その現代という中の僅かな時間の中に生まれてきて、知りあったからこそ、八木恭子の目の前にいま清美がいる。

 そしてこの穏やかな時間も、普通に考えれば十年か二十年のうちに終末を迎える。次の時代が、さらに性差別のない時代になるかどうかは解らない。

 人類という種にとって、陽炎のような時間かも知れない。

 八木恭子は自分の瞳も少し濡れてきているような感じがした。

 田中稔は点滴が新たに入れられた瞬間から、明るい空間にいた。

 去るという概念はでてこなかったが、最早、自分の肉体がなくなりかけていることは感じていた。

 目も耳も鼻も口も、手足も胴体もなにも認識しなかった。それまでは微妙な感触が訪れることがあった。それを頭脳が認識し世界が存在していたようである。

 いまは、頭脳さえ何も認識しなかった。

 敢えて言うなら、バラバラになりかかっている肉体の要素のようなものが外界らしきものを感じていた。例えば鉄粉のようないのちが、関係性という磁力によって集まり、心として感じていた。それはすぐに、稔という個体からは離脱していくだろう。固有の魂ではなく、ただ行為によって関連付けられた生起の世界に戻るだけである。

 周りは、綺麗で柔らかな、包み込まれ、ホッとするような明るさだった。ただ光があるだけで何もなかったが、不安はまったく感じなかった。明るさの向こうに母がいて手招いている気がした。その母は、稔より若い歳で亡くなったはずだが、老いた彼は母の子どもに戻っていた。

 父も別れた妻も、東京にいる長男も孫の気配もなかった。

「俺はどうなるのかな」

 と考えていた。母が傍にいる気配だけで充分だったが、「なんで生きてきたのかな」という妄念のようなものが彼の周りに漂っていた。

「人類紀の終わりに立ち会ったのさ」

 声がした。耳に届いたのではなく、身体全体に響いた。太く低い声だ。

「鈴木か」

 よく聞いた胴間声だった。歳を経てもなお、声が大きい。居酒屋で「ちょっと聞くのは悪いが、いい声だが、なぜ声が大きいのだ」と、訊くと「そうか」と頭をかいた。片耳が軽い難聴だそうだ。歳をとると声も貧弱になるが、辺り構わず大きいままなのは本人が気がつかないだけの耳の不調なのだ。

「なんだ、人類紀って」

 どこからか感じる鈴木に向かって訊いた。どこにいるのか知らないが不安は感じない。その鈴木はまだ生きている。この場にいるのは、田中稔の中にいて、そのいのちに繋がる響きのような鈴木だった。生き霊かも知れないな、と稔は、妙な言葉を思いだした。

「ほら、白亜紀とか、ジュラ紀というだろう。あれの人間版だ。人間紀」

「人間の時代か」

「そう、それの終わり」

「終わりって、ああいう時代は億年単位だぞ。人間なんて百万年も経つかどうか」 

「でも終わりだ。わかるだろう。みんな解っている」

「そうか、そうかもなあ」

 単科大学で習った、現代文明論を思い出した。確かにもう人類はこれ以上の進化は難しいかも知れない。

 百万年の昔から、嫉妬と恨みと、怒りの世界に生きてきた。その精神性のままで文明は発達のピークに達した。自らを滅ぼす原子エネルギーの解放も出来た。生物化学兵器も「貧者の核兵器」として手に入れた。

「それよりどうだ。終わりはわかるだろう」

 鈴木が言った。

「なにが、どうだ、わかるだろうだ。人類が終わって、コンピュータが人に取って代わるのか」

「それもあるかも知れないが、いまはまだ仕事を奪われ、格差が大きくなるくらいだな」

 まだコンピュータは進化すると鈴木は言う。だがそれまでに人間が滅ぶのだそうである。アーサー・C・クラークは半世紀前に感情を持つコンピュータを予想したけれど、人間の脳は遙かに複雑だ。

「電気回路じゃないのか」

 田中稔は自身の中の鈴木の知識に驚いていた。

 私学の関西工科大の電気工学科の定時制に進んだと聞いた時には、秘かに優越感を感じてもいた。友だちなのに人間とは度しがたいものだと思う。友だちなのに嫉妬し、怒り、慢心する、まかり間違うとその不幸さえ願っている。友だちだからよけいにそうなのかも知れない。

 一歩、心に踏み込むと例え親子や恋人でもどす黒い欲望感が渦巻いている。所詮人間は、生存欲の塊の猿にしか過ぎない。

「その通りだよ」

 鈴木洋一郎が言った。

 田中稔の思念の中の彼は、稔の心そのものでもあるらしい。

「その人間が扱いきれない領域に踏み込んだのが、吾々、団塊の世代を中心とする人間の生きた時代だ」

 脳は神経細胞が電気信号で繋がっているが、なんと神経細胞の端末では化学物質で情報のやり取りをしている。それが何を意味するのか人類は掴めていない。量子コンピュータで速度は上がっても、脳の曖昧さや感情や思考の飛躍は真似できない。

 それがコンピュータで可能になり、嫉妬や恨みと、怒りを、持つようになったら、人間は滅ぼされる。

「いや、待てよ」田中稔は声にならない口を動かした。「人間は嫉妬や怒りだけでなく、理性や、愛や喜びもある」

「甘いなあ」

 洋一郎がフッと笑った。

「そうか」田中稔は自分の心を指摘されて失笑した。

 この七十年余り、朝起きてから夜眠りにつくまで、いや夢の中でさえ、頭の中にいつも蹲っていたのは嫉妬や怒りや不安、妄想である。昨日の出来事を後悔し、明日の計画を立てながらくよくよと思い悩む。その底には、「出来なかった」「出来るか不安な」自分がいる。そしてその嫉妬や怒りは、力のないみじめな自分への怒りである。

 理性や喜びや愛は、ほんの僅かな時間、顔を出すだけだ。そのことをもって「人は理性や喜びや愛の部分が大きい」とか「そういう面もあるから人生は楽しい」と自らを錯覚させているだけなのだ。

「そうか、本来は人間は欲望に振り回されているだけなのだ。そして欲望は満たされることなく、生きるのは辛いのだ」

 稔ははっきりと自分に言って聞かせた。

 もう、人間の文明の進歩は加速度的に大きく巨大になりだしている。その速度になると、貪りや嫉妬や怒りに振り回される人間はそれをコントロールできない。

「吾々は人類最後の世代なのか」

 稔は鈴木洋一郎に問うてみた。

「楽観的に言えば、たぶん子や孫の代まで持つかも知れない。だが、例えば北朝鮮のような国家がいつ何時、暴発するかも知れない。そんな大それたことより、遺伝子組み換えの作物が、ブタや牛が、吾々を未知の病で滅ぼすかも知れない。一つの遺伝子を触るとどのような影響が出るのか、短期日の試験で十年、二十年後の影響は解らない。総て見切り発車しているだけだ。吾々は傲慢になりすぎているのだな。医学や科学の進歩で、総て判った気になり、いずれ判る気になっている。しかし、脳の記憶さえ仕組みなど解明からは、ほど遠い。ロボトミーではないが、ここを触れば感情が抑制される。この薬でこの部位が興奮すると言う程度だ。原始人が車をバラバラに分解して、この丸くて弾力のあるのはタイヤでどうやら転がるらしいと考える程度だなあ」

「その感情と妄想に支配される人間が、恐るべき部分にまで強引に手を伸ばし始めたのだな」

 洋一郎は溜息を落として続けた。

「そのとおり、チャップリンのモダンタイムスではないが、日本でもその状況が起こりつつある」

 団塊の世代の生きた時代は機械力が人間の労働に取って代わった。 チャップリンの心配は杞憂だった。機械に出来ない情報やサービス分野に人間は生きることが出来た。だが、それも人工知能の登場とオートメーションの進歩で否定されつつある。

 看護も介護も、飲食業も、総てのサービス産業も人間の担うべき労働分野などなくなりつつある。教育分野さえやがて人間の手から離れていくかも知れない。生き残るのは極めて僅かのエリートと、巨大産業だけである。

 執事も秘書も、設計も、芸術も、セックス分野でさえ、人間以上のものが登場するのは近い。「人の感性は真似できない」という希望的観測に頼っても仕方がない。

 その格差世界で、セーフティネットなど期待しない方が良い。これからの産業は自己完結してしまう。インターネットとドローンは配送業を無意味にする。ロボットと自動運転が組み合わされれば物流網に人間は関与しなくてもよくなる。医療さえ、診断は高性能のソフトの方が勝れるだろう。人間という不完全な生き物より、完璧な機械医師が手術をする。突発的な事態には機械は対処できないとか、直観がどうとかいって逃げてきた時代は終わりつつある。もし必要としてもそれはほんの僅かの人間でことたれる。

「そうなるのか」

 稔は解っていて訊いてみた。

「半世紀かからずに、それに近くなる」

 洋一郎の声が稔の脳に響いた。というより命そのものが共振した。

「俺は死ぬのか」

「もう、ほぼ死の世界にいる」

「断滅するのか」

 答えはなかった。

 そうか、人類が結局、次の段階に上がれない最後の時間軸の中に、生きてきたのか。・・・・。

 団塊の巨大な波は、いま崩れゆく。

 白光に満たされた世界が、プツンと反転した。

                                         了


  母親には「親権」もなかった時代、「父兄会」の時代が終わり、「保護者会」になった父や祖父の幼少期。父や祖父の生きてきた時代。20世紀後半の団塊の世紀。戦後の廃墟から、経済成長、公害、テレビとネットとスマホ、コンピュータ。自家用車の時代。言論の自由と、女性の自立の時代。一ヶ月もかかってイギリスに辿り着いた時代から12時間の空の旅ですむ時代。グローバルな世紀。そして30年も寿命が延びた時代。それを少し描いてみた。


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