87.
(……落ち着きなさい。クリスティナ)
深呼吸をする。
今すぐに移動するわけではないのであれば体力を温存しておくことだ。
そしてあの代表者はまた私の所に来るはずだから、会話を重ねて情報を少しでも引き出すことだ。
(……食事を持ってくると言った)
あの口ぶりでは、恐らくあの男以外の人間が運んでくると言う意味だろう。
とりあえず、私のことは『ターミナルの王女』として身の安全を最低限保証するという物言いだったから……食事に毒を入れられることはないと、思う。多分。
いや、睡眠薬くらいはあるかもしれない。
一応、王族の嗜みとして毒物耐性が付くように訓練は受けているけれど……特に私は魔法で耐性を上げられない分、苦労したんだよな……って違う、今はそんな悲しい思い出が頭を占めている場合じゃなかった。
「!」
ノックの音に、身体がびくつく。
だけど、私はできる限り落ち着いてドアを見るだけで声を発するのはなんとか堪えることができた。
私の答えがないのは想定済みなのか、ドアを開けた見張りの男の間をすり抜けるようにフードを目深に被った男が入って来た。
その姿は先程の代表者の後ろに控えていた二人の内の一人であることを覚えていて、なるほど、あの男の腹心なのだろうか?
少なくとも虜囚の世話をさせる程度には接触させても大丈夫だという安心があるのだと思う。
男が持ってきた盆にはスープとパン、それにサラダ。さらには紅茶まで付いている。
(……それなりの待遇をしている、という表明かしらね)
少なくとも虜囚の扱いとしては上等な方だろう。
だからといって好意的に彼らを見るなんて、できはしないけれど。
「お食事を、お持ちいたしました。お飲み物は、申し訳ございませんが紅茶のみで……砂糖は、ございません」
静かで、落ち着いた声に私は首を傾げる。
そういえば、声を聴いたのはこれで二度目。
「貴方は、……ディミトリエ皇子の護衛官の一人でしたね」
「……私のようなものまで、ご存知でしたか」
「名前は知りません」
そうだ。
名前も知らない、姿も少し見たことがある……程度の。
ディミトリエ皇子の連れて歩く集団の中に、それでも必ずいた男。
私を、窓から、攫った男。
「なぜ?」
「なぜ、とは」
男がうっそりと笑う。
フードのせいで口元しか見えないそれは、酷く歪に見えた。
「私が、ディミトリエ皇子のお側を離れたことですか? それとも貴女を攫ったことでしょうか。こうして、貴女と言葉を交わすことに躊躇わぬことですか?」
「……」
「だんまりですか。良いですよ、別に貴女が何かできるとは思っておりませんので」
くっと笑うその口元を、私は――知っている。
私を侮り、嘲る笑いだ。
知っている。だからこそ、感情を揺らしてはいけない。
俯いてはいけない。
彼らはそれで気持ちよくなにかを話してくれるわけじゃない。私自身の身を危うくするだけだ。
コイツは言い返しもしなければ、俯くばかりの弱いやつだと思われてただサンドバッグにされるだけだ。
だから、私はただ見据える。
静かに、静かに、心を殺せ。
(戻ったら)
そう、戻ったら、泣けばいい。
私を迎えてくれる人の前で、いくらでも情けない顔で、泣けばいい。
少なくとも泣くのは、この人たちの前じゃない。
「……思ったよりも肝が据わった女性のようだ。未来の国母様」
「私は、マギーアの妃になるつもりはありません」
「それを決めるのは、我らが主ですので」
「……そうですか」
「ディミトリエ皇子は」
「……」
「良い方ですよ。頭も良いし部下を思うこともあれば、非道な手も使えましょう。ただ、運と後ろ盾がなさすぎる」
人望もじゃないのか、と皮肉を言ってやりたいけれどそれは飲み込んだ。
ここでディミトリエ皇子を貶して目の前の男に一矢報いた所でなんの価値もない。
淡々と事実を述べるこの男にも、ディミトリエ皇子にも、事情はあるのだろう。
だけど、それは私には関係ない世界。
いいえ、関係そのものはあるけれど――皇位継承権争いなんて他国の諍いに、巻き込まれるのはごめんだ。
ターミナルという武力を手に入れる駒として扱われることを、良しとした覚えなど、ないのだから。
「そして貴女も、ただの魔力なしというわけでもない」
「……」
「弟が、推すわけだ」
「え?」
「さて、食事はきちんと召し上がってください。無論毒物の類など入っておりません。未来の国母に対する敬意をどうぞ信じていただけたらと思います」
白々しい言葉を最後に、男がさっと身を翻す。
名乗るつもりも、これ以上の会話もする気がないのかさっさと部屋を出て行った男の言葉を私は反芻してパンを手に取った。
私は弱い。
少し食べなくても死なないけれど、動きは鈍る。
毒がない、という言葉を鵜呑みにするのはどうかなと思うけれど。味なんてまったくわかりはしないけれど。
(ここから、逃げるために)
少なくとも、逃げるために何ができるのかはまだわからない。
ただ私に対する評価はどうやら低くはないようだ。
(なら、まだ可能性は捨ててはいけない)
ただ連れ去られていいようになんてされてたまるものですか。
私は『残念姫君』のままじゃないのだ、……まだ打開策を思いつかないけれど。
空腹かどうかもわからない。
眠れるかどうかもわからない。
だけど、なにかしないわけにはいかない。
(ここは、どこかの塔だ。夜も休まず駆けるにはきつかったのだろうし、もしかすれば受け入れ側の態勢が整っていないのかもしれない)
マギーアまでの国境は、厳しい道のりだ。
どうせまっとうな道は元々考えにないはずだから、だとすれば抜け道のようなもの。
……魔獣が多くあらわれる土地か、或いは人が足を踏み入れるには危険すぎる地域か。
いくら彼らが熟練の戦士であっても、魔力も戦闘力もない人質を傷一つなく……と考えるならどちらの方が進みやすいだろう?
(マギーアは魔獣の研究も進めていたんだっけ……ああ、でも、砂漠化に対して研究も進めていたはずだから環境対策の魔法なんかも編み出されているっていう論文があった)
記憶を、呼び覚ます。
さあ、私を連れてどちらの道を歩むのか。
私はその時、どうすれば良いのか。
味のしないスープを軽く舐めて私がわかる範囲で毒はなさそうだと判断し、飲み下す。
紅茶は、睡眠薬の味がしたから残した。
一通り食べて、思案に耽っているとまたノックの音がした。
きっと食器を下げに来て、私が薬を飲んだのか確認するのだろうと思ったが入って来た人物を見て、私は眉を顰める。
それは、やっぱりあの代表者の後ろにいたローブの男だと思ったけれど、先程の男とは違った。
「貴方は」
「薬入りの紅茶はお気に召されませんでしたか。なぜ捨てなかったのです? 偽装くらいはできたでしょうに」
「……元より私が飲んだかどうか信じる信じないなど関係ないと思っていますよ。単純に寝てもらわなければ強行軍を続けるにお荷物が面倒になるといけない、それだけでしょう?」
「辛辣なお言葉ですね。王城でお見かけしたときにはそのように棘をお持ちとは思いませんでした」
「少なくとも好意的に接する理由がありませんもの。そうでしょう?」
ハリル殿。
そう唇だけ動かして男を見れば、彼は笑った。
笑って、フードを取る。
そこにはディミトリエ皇子の後ろにいつもついて、私を見つめてきていた男――ハリルの姿が、確かにあった。