86.
目が覚めると、知らない場所だった。
……直前の記憶ははっきりとしていたので、私は攫われたのだろう。
縛られているわけでもなく、それなりのベッドに寝かされていて、無体を働かれた様子はない。
衣服も着ていた夜着のままだ。
ぐるりと周りを見回せば、簡素ながらも清潔な部屋に、ベッドとサイドテーブル。
テーブルの上には透明な水差しが一つと、グラスが一つ。
後は椅子が一脚と、毛足の長いラグが床に敷かれていて、私用になのだろう、女性用の柔らかな布の靴が用意されていた。
(……窓はない。ドアは一つだけ。間違いなく監禁用の部屋だ)
意識のない成人女性を連れて、警備の厳しい王城から逃げ出したのであればそれ相応の準備があったとしてもそう遠く……少なくとも国外へは出ていないはず。
私はばくばくとうるさい自分の心臓を無視して、考える。
そう、考えなければ。
私の身柄、それがどんな価値を持つのか私は責任を持つべきなのだ。
ターミナルの王女という立場がどんな価値を持つものなのか。
(勿論、犯人の狙いはそこにあるのだけれど)
少なくとも私を傷つけてターミナルの怒りを買いたくないと思っているからこその厚遇なのだろう。
それとも私が魔力のない、無力な女だからかもしれない。
どちらもあり得る。
(……そしてこうして身の自由を与える程度に、相手は余裕のある所を私に見せたいのでしょうね)
だとすれば、私がとるべき行動は慌てず騒がず、待つことだ。
相手は私の動揺を、焦りを、そんな感情の揺らぎを利用してくるに違いない。
(魔力なしに魔法は効きづらい、確かにそう言っていた……)
それならば、私が確固たる心持ちでいれば精神操作の魔法はある程度凌げるのかもしれない。
過信は禁物だけれど。
(……怖い)
ベッドに座り、相手が来るのを待つ中で深呼吸をする私は、自分の手がどうしようもなく震えていることがたまらなく悔しい。
手が、震える。それは、怖いからだ。
そんな気持ちごと、震えを抑え込むように反対の手を重ねたけれど、どちらも震えているのだから意味がなかった。
それがまた、悔しい。
自分の無力さが、こんなにもはっきりとわかるのだから。
「――お目覚めで、あられましたか」
ドアの外から声がかけられて、私はゆっくりと顔を上げる。
そうだ、慌てふためく姿を見せてはならない。
私は、囚われていようとも。
ターミナル王国第二王女としての矜持をもって、対峙せねばならない。
(救いは、必ず来る)
レイジェスは、来てくれる。
あの時のように。
あの日、私などきっと捨て置かれると思ったあの謀反の日のように。
それまで私は、私にできることを精一杯しなければならない。
私は、座ったままただじっと扉を見つめるだけだ。
立って待ってやるなどできるものかと態度で示す。
私を恭順させるつもりならば、彼らはとっくに縄で縛って転がして、魔力のない憐れな王女に泣いて縋れと脅していただろう。
そうしないということは、少なくとも私に対し最低限の敬意を払っていると考えていい。
ただし、間違ってはいけない。
敬意を払うことは、私の身の安全を保障するものではない。
媚びても価値が下がるが、高慢であってもいけない。気を付けるべきところだ。
(……と兄様が、何かあった時の態度として教えてくれたけれど)
まさか実践する日が来るとは思わなかった。
それとも兄様はこれを見越していた? いいえ、流石にそれは無理があるか……だってこれを教えてくれたのはもっともっと幼い頃の話だもの。
私もよく覚えていたものだわ。
扉の窓が少しだけ開いて、覗き込んできた目と私の視線が合った。
扉の向こうで、幾人かの男たちが話し合うような小さな声が聞こえたけれどその内容まではわからなかった。
「失礼いたします」
いくつかのカギが外される音。
ああ、案外厳重に監禁されていたのねとどこかで思いながら、私は息を整える。
そして入って来た男たちの姿を前にも、私は落ち着いて見せた。――少なくとも、表面上は、だけれど。
「ご挨拶が遅れたこと、お詫び申し上げます王女殿下。重ねて、乱暴なる方法にてこのようにお招きしたこともお詫び申し上げます。お身体に不調などはございませんでしょうか」
入って来た男は三人。
その向こう、閉まる扉の向こうにはまだ姿が幾人か見えた。
(これは、大掛かりなことだわ)
勿論、一国の王女を誘拐しようというのだから大掛かりなことは間違いないのだけれど。
「なにゆえの、行動か」
私は、ゆっくりと、問う。
できるだけ、淡々と。
「私が王女であることを知り、ターミナルの王城より連れ去ることがどれほどの罪であるのか、知ってのことなのでしょう」
「勿論、存じております。ターミナルの至宝、魔力がなくとも輝く白き月が如き王女。こうして直にお言葉をいただける栄誉……」
「甘言を弄することはお止めなさい。私の欲する答えを出せるのか出せないのか、それを問うているのです」
「……」
代表者なのであろう男は、私の言葉に眉を顰めた。
気持ちよく喋っていたのだろうけれど、私を簡単に操れると思わない方がいい。それを示さねばならない。
勿論あまり刺激しすぎても良くないけれど……緊張のあまり、たくさん喋ればボロが出てしまうに違いない。
「マギーアの民として、ターミナルの王女である私に何を望むのです」
そう。
彼らは、マギーアの民族衣装に身を包んだ男たち。
その衣装はただの旅装束であるとわかっているけれど、動きの機敏さは軍人なのだろう。そのくらいは、わかる。
代表者以外頭をあげず、ただひれ伏す男たちは私の言葉にも動かない。
「我々の任は、貴女様の御身を我らが主の前にお連れすることなのでございます」
「……それで?」
「どうぞ、御身の威光にて我らが主に寄り添い、伝統ある我らが故郷の国母となり、我らをお導きください……!!」
「私に婚約者がいることを知っての略奪婚をお前たちの主は望んでいると?」
「おお! そのような乱暴なことはございませんとも!」
芝居がかった男のその口調にいら立ちを覚えずにはいられないけれど、少なくとも彼らはディミトリエ皇子の配下ではない、ということのようだ。
だけれどそれが別の皇子の誰なのかというのは明確にしない辺り、なんと卑怯なことだろう。
忠誠心が高いのかと言われればそうではなさそうだし、私が『嫌だ』と言ったところで帰す気がそもそもないというのに乱暴なことはないというこの矛盾。
「……とはいえ、強行軍でこちらにお連れしてしまったことは事実でございます。本日はごゆるりとお休みいただき、また別途マギーアにて最高のおもてなしをさせていただき我が主と話していただけましたならば、御心も和らぐことかと」
それ以上私に何かを質問させる気はないらしい。
代表者がそう言って立ち上がれば、男たちもすぐにそれに付き従った。
扉を開けて、再び代表者の男が私の方を振り向いて大袈裟な笑顔を向ける。
「後ほど、食事を持ってこさせましょう。旅の途中ですので大したものが出せぬのが歯痒いですが、王女殿下がお身体を壊されては困りますからな!」
私の返事も待たず、男たちが出ていく。
閉まった扉から、ガチャンという鍵の無情な音が聞こえて私はそっとため息を吐き出してベッドに倒れこんだ。
もし、ここで癇癪の一つも起こせれば、あちらも扱いづらい姫だと思うかもしれないけれど……それはきっと無駄なことなのだろう。
(私がターミナルでどのように過ごしていたかなんて、きっと筒抜けだものね)
去って行く男たちからあまり情報は得られなかった。
とはいえ、今日はもう移動しないのだということを信じるのであれば、私も少しは休まねばいけないのだと思う。
月明りすらない部屋で、赤々と灯されているのが松明だとようやく気が付いて自分がどれほど動揺しているのかを知って、私は打ちひしがれるのだった。




