81.
赤い月が段々と丸く、そして大きくなった。
それを私は歩きながら見上げている。
場所は王城内部の回廊だから、庭園と相まってなかなかに幻想的な光景だ。
勿論一人ではなく、ラニーと歩いているから心配はしていない。
今日は月光の下でアニーに騎乗しての散歩を試してみたのだけれど、楽しくなったらしいアニーがなかなか竜舎に戻ってくれなくてこんな時間になってしまった。
「すっかり遅くなってしまいましたねエ」
「ええ、そうね」
「アニーが本当にすみません」
「いいえ、いいの。最近のアニーが、散歩を楽しみにしてくれているなら私も嬉しいもの」
「クリスティナ様がお優しい方で本当に良かったですよ! すっかりものぐさになったアニーのことはわたしも心配してたんですが」
そうなのだ、王宮に来てからのアニーは不満そうにしつつも竜舎暮らしを快適に世話をされて過ごしているようだったが、どうにも北部砦にいた頃に比べると運動量が減っていたということをラニーがずっと心配していた。
それもしょうがないのかもしれない、だってアニーは脚を怪我しているのだから。
歩行はできるとはいえ、走ることは厳しいというし……だからこそ、騎士のための竜でいられなくなったのだけれど。
言葉が通じない分、痛いのかどうかは様子を見るしかできないが竜種というのは心を許した相手以外には警戒心が強い。その辺りは野生動物もそうだけれど、それ以上に気取られないと断言できるとヴァッカスも言っていた。
「でも月光の下の散歩が良いなんて本当かしら?」
「さあ……わたしにもわかりかねますね。でも地竜たちは確かに夜行性ってほどじゃないんですが月の明るい夜は好んで歩き回るようですよ。まるで散歩をするようだってじっさまが昔言ってましたっけねえ」
「へえ……」
「ああ、それと交尾は決まって赤の大満月、産卵は白の月なんですよ。面白いでしょう?」
「そうなの!? それは知らなかったわ」
「ええ、竜種ってのは大なり小なり違いがありますけどね、割と月の変化と関係があるらしくて……まあわたしはそんなに詳しくないんで、そこら辺はヴァッカスの先生に聞いてください」
「ええ、明日にでも!」
ラニーがにっこり笑って話をしてくれていたかと思うと、歩みを止めて私を庇う。
彼女を信頼しているからこそ驚きこそすれ、何があったのかと問うような真似はしない。ただ、彼女が警戒したのならば私自身も律するだけだ。
(誰かいる?)
王城内だ、それは勿論どこにだって人がいる。
それは侍女たちであったり、衛兵であったり、夜間でも働いてくれている人々が殆どだけれども。
「……やあ、珍しい時間にお会いしたものだね。クリスティナ姫」
「ディミトリエ皇子……」
ラニーが警戒している。
笑顔のディミトリエ皇子、……ではなく、その後ろに控える青年を見ている。
私を背に庇っているのにそう思ったのは、あの彼がまた私をじっと見ているからだ。
私たちの様子からそれを察しているであろうにディミトリエ皇子の笑顔は崩れない。
「こんなお時間にお散歩ですか?」
それでも努めて笑顔を作り、ラニーに庇われたまま穏やかに、友好的に声を出す。
ここ最近で、私もすっかりらしくできるようになったと思う。少なくとも、兄様が褒めてくださるほどには。
「ええ、今日はとても月が綺麗ですから」
「……もうじき赤の大満月ですから、その日はもっと見事でございましょう」
「ターミナルでは最も魔力が高まる日と言われているんでしたね。私の母国では赤い月は不変の証とも呼ばれ、平和の象徴でありますが」
「国によってあまりにも違う伝承に、数多の学者が頭を悩ませ続けているなんて本当に不思議ですわね」
他愛ない話。
私が焦がれた魔力の明かりに照らされた大国の皇子は、その身に宿す魔力でこの月をどう見上げているのかしら。
とてつもない魔力を秘めた方だと、あちこちでその噂は耳にしている。
……私を妻にして、ターミナルという切っ先を用いて混乱を極め始めた王位継承権争いを一気に片付けようとしているのでは、なんて噂まであった。
(勿論、その噂が馬鹿らしいものとして彼が否定していることも含めて、知っている。……けれど)
故国で起こる争いに、彼が胸を痛めているらしい話も耳にして、なんとも複雑な気分になるのは……民を思う気持ちが、共感してしまうからだろうか?
「赤い月の下の貴女も美しいけれど、きっと白の月の時の方がその髪が美しく映えるのだろうね。……君もそう思うだろう? ハリル」
「……は」
後ろで控える、私を見つめ続ける彼はハリルというのか。
ディミトリエ皇子に言葉をかけられて頭を僅かに下げたけれど、未だに私の方へと視線は向き続けている。その力強さは、……少し、気味が悪い。
カイマール殿下のように熱を伴うわけでもないし、ディミトリエ皇子のように何かを探るものでもない。
かといって私を『魔力なし』として見下してきた人々のものとも違うし、騎士団で向けられた敬意や尊敬といったものとはやはり別ものだ。
「さて、私たちはもう少し月光浴をしていくつもりだけれどクリスティナ姫はどうなさるのかな?」
「……私たちは御前を失礼して、部屋に戻らせていただきますわ。どうぞ、ゆるりとお過ごしくださいませ」
「ありがとう、後日……白の月の時にでも一緒にこうしてまた話をしたいものだね」
「その時には私の婚約者も伴って、是非に」
私のそつない言葉に薄く笑みを浮かべて返すディミトリエ皇子はやはり王族として私よりもずっと狡猾で、そして賢い。
なにも読み取らせないし、けれど言葉巧みに何かを引きずり出そうとしているわけでもないのに何かこちらが失敗すればそれを次の時には言質を取ったかのように使われてしまいそうで、ひどく緊張する。
まるでカードゲームを覚えたての幼子を前にした、ディーラーのような余裕さが憎たらしい。
(でも、だからこそ)
早くこの場を後にしたい。
そう願う私とディミトリエ皇子の会話から、私の本心を正しく理解したラニーがすっと動き出して、私の手を取ってくれる。
彼らの姿が遠くなったところでラニーがようやくいつものように笑顔を浮かべてくれたので、もう安全なのだと私もほっとする。
だけれどちょっとそれもかっこ悪い気がして、私はおどけたように声を出す。
「ラニーはまるで物語の王子様のようね、完璧なエスコートだわ!」
「おや、そりゃ光栄ですね! それじゃあファール隊長の代わりにクリスティナ様をダンスでも誘いましょうか?」
「あら、ラニーは男性パートもできるの?」
「女性パートよりも上手ですよ!」
「それは良いことを聞いたわ、ぜひ今度ダンスの練習に付き合ってね」
「クリスティナ様とでしたら喜んで!」
ラニーも私の言葉を馬鹿にするでもなく乗ってくれて、私たちはくすくすと笑い合う。
ゆっくりと、今度こそ月を見上げて楽しむくらいの余裕をもって歩き出せば、赤い月は強く強く輝いて……ただの言い伝えだとわかっているのに、やっぱりこの月光には魔力が含まれているんじゃないかって思わずにはいられない。
(本当、レイジェスの目の色とそっくり)
見入られてしまいそうだ。
そんな声にならない感情が、ほう、とため息をつけばラニーが不思議そうに私を見ているのに気が付いて、私は曖昧に笑い返すのだった。
 




