80.
夢を見た。
大きな、大きな木の下で、一組の男女が手を取り合っていた。
男性は怪我をしていて、女性は泣いていた。
なんだか悲しい場面に見えるのに、それはなにからか彼らが自由になって、それを花を満開に咲かせた大樹が祝福している。そんな風に思えた。
私はどの位置にいるのか、なんなのか、自分ではよくわからない。
だけど、二人がこちらを揃って向いて、女性が何かをこちらに語り掛けてくる。
歩み寄ったつもりもないのに段々と二人と距離は近づいていて、それなのに声も聞こえなければ二人の顔も見えない。
「… … …」
(何を言っているの? 何も聞こえない)
私は声を発しているはずなのに、それは声にならずに消える。
彼女は何かを穏やかに話しかけている。多分あちらも同じように思っているんじゃないだろうか。
けれどそれは何を語っているのか、私にはわからない。
ただ、花を差し出された。
それはあの大樹に咲く花で、……それなのに、何色でどんな形をしていたのか、まるでわからなくて、ぞっとする。
差し出された花をそれでもなぜか受け取らなくてはならない気がして、手を伸ばす。
触れるか触れないか、そんなところで目を覚ます。
「……まただわ」
眠れない日々が続く中で、繰り返し見るそのおかしな夢。
相変わらずディミトリエ皇子の家臣は私を見てくるし……とはいえ、レイジェスに伝えてからは随分と距離をおいてのものとなって、一安心なのだけれど。
なぜ見てくるのかはわからないのでまだ調査中らしい。
ディミトリエ皇子に直接聞くわけにもいかないしね。
(私が聞けば良いのだろうけれど……レイジェスは、良い顔をしないでしょうね)
そう思ったけれど、素直に理由を話してもらえるとは思えないし、ディミトリエ皇子もわからないかもしれないし、無闇につついて妙なことになっても困るので結局私は知らんぷりを決め込むのが一番だということに落ち着いている。
まあ勿論私も、そう交渉事を得意としているというわけでもないし当たり前かもしれない。
皇位継承権争いをしているディミトリエ皇子の方がそういったことは直接的に経験している分、私が下手なことを言ってターミナル王国にとって不利な約束を取り付けられないとも限らないし。
「……はぁ、寝なおそう」
まだ窓の外を見れば真っ暗で時計を見なくたって今が真夜中だってことがわかる。
このままでは寝不足のまま明日の朝議に参加しなければならなくなって、化粧で誤魔化しきれなくて兄様に心配をかけてしまうのが目に見えているもの。
(……でもあの夢はなんなのかしら)
魔力持ちの人には『夢渡』と呼ばれる特殊な力で他者に念を送ることができるなんて文献を見たことはあるけれど……文献にあるくらい珍しい能力で、現在使い手はいないのではないかって言われているくらいだから眉唾物だとも記されていた。
それ以外には過去や未来を何かしらのカタチで視る能力もあるらしいけれど、残念ながら私には魔力がないからそういうのとは違うんだと思う。
思う、けれど。
それでも毎晩のように見るようになるというのは、やっぱりただの偶然というには無理があるような気がする。
それにしたって顔も覚えていないしどんな花かもわからない、そんな夢について真剣に相談なんて子供じゃあるまいしと思うと誰にも言えないまま、悶々としているんだけど……いいえ、きっとストレスだわ。
この間、青空教室について一歩前進したのはいいけれど朝議での発言数が増えて私自身にかかる『王女としての責任』がやたら重く感じるものだから、そのせいだと思う。
それに、私とレイジェスの結婚についてもだいぶ具体的な話を耳にするようになったから、将来への漠然とした不安のようなものもあるんじゃないかしら。
いえ、レイジェスに嫁ぐこと自体は喜ばしいことなのだけれど、私が妻としてふるまえるのかとか……そもそも妻らしいふるまいってなにかしら?
家人を取り仕切ってファール家を盛り立てるって言われても、彼は私にそういうことを求めていないっていうか……下手したら「家人なんて必要か?」くらいのことを言いだしそうだし!
まあ流石にレイジェスだって立場はよくわかっているだろうから、実際にはそんなことを言わないとは思うけれどね!!
(……でも、なんであの男性は怪我をしていたのかしら)
明るい世界の中で、それはとても異質だった。
そしてまるで塗りつぶされたかのように彼らの特徴は私の記憶からすっかりと消えてしまって……というか、夢を見ている段階で見えているはずなのにわからないんだから不思議でたまらない。
(ああ、だめだめ)
考えてもキリがない。
それだというのに最近ではもうこの夢が気になって……いいえ、気にするからこそこの夢を見るのかしら?
相変わらず外には赤い月があって、伝説やそんな夢に今は思いを馳せている場合じゃないのにってわかっているのに、私は現実逃避がしたいのかしら?
だとしても、もうちょっと……そうよ、今は私が王女として公務をしっかりこなして姉様や兄様のお手伝いをできるような、立派な王女としての分岐点な気がする。
(だから、逃げていては、いけない)
きっとあの夢は、現実逃避でいつか見た物語かなにかの一部なのだろう。
幼い頃はたくさん本を読んだもの。
それを思い出して映像化したに違いない。……肝心の物語が思い出せないから気になってしょうがないんだわ。
何度かベッドの上で寝返りを打ってみても、一度はっきりとしてしまった意識はそう簡単に眠りに落ちることもできなくて私はそろりと窓辺へと歩み寄る。
赤い月は日に日に丸い形になっていく。
満月になったら、今度は大きくなって……そうして白い月が現れて、季節が変わるんだわ。
「赤い月はなぜ赤いのかしらね?」
ぽつりと浮かべた疑問に答える人はもちろん誰もいなくて、私は子供みたいな独り言に思わず顔を赤らめる。
この世界では赤い月は白い月になる。
満ち欠けをするのは赤い月、だけどその赤い月が満月になると、数日かけて大きくなって、なぜか白くなる。
真っ赤な満月は魔力に満ちて、それが爆ぜて白くなるのだと言われてもいる。
真っ白で大きな月はとても綺麗だけど、この世界では“不吉な証”。
魔力が弱くなるとかいろんな伝説が残っているけれど、それを証明する根拠は何一つないのよね。
(私と同じ、魔力のなくなった月……)
だからかしら、白い月が恋しい。
真っ赤な月は魔力を宿すという伝説から、その満月の時に生まれた子供や月光浴させた子供は優れた魔力を持つなんて言い伝えもある。
勿論、私みたいな例があるくらいだから?
それはただの言い伝え、なんだけどね。
(満月まで、あと三日……だったかしら?)
それが済んだら真っ白な月が来る。
少しだけその日は夜更かししようかな。
(レイジェスを誘って、月光の下で庭園を散歩したいなんて言ったら彼は嫌がるかしら?)
少しでも強くなりたいと始めたことは、まったく強くなれた気がしない。
それでも変化は確かにあって、付いて行くので精一杯。
それでも、少しだけこうやってレイジェスのことを思い出せばぽっと胸の中が暖かくなる。恋ってすごいなあ。
「……?」
ふと、視界をさっと何かが横切った。でも暗がりの中だったし、それは一瞬だったから確証はなくて私は思わず出窓に身を乗り出して周囲を見たけれど、やっぱりなにもない。
(窓の外で、何か動いた気がするけれど……気のせいよね?)
だってここは四階だし、外は衛兵が見張っているのだし。
(きっと蝙蝠だわ)
私は少しだけ怖くなって、後ずさる。
外には、赤い月が煌々としているだけだった。