77.
イーノと南方部隊の隊長は私が内部視察をしている間にやってきた。
私の姿を見るなり膝をついて額をこすりつけての謝罪……要するに土下座されたことにはびっくりして思わず一歩後ずさってしまったけれど、そこは許してほしいかな……。
人生でもスライディング土下座とかそう見ることはないと思うけど、この軍部棟の廊下がそれだけ見事に磨かれていたってことにしておこうと思う。
私が呼び出したのは怒っているからだと思われているけれど、私としてはただ労いたかっただけで……ああそうか、労いたいって言えば良かったんだなあと彼らの反応を見て思った。
いやまあ、あんな場で攻撃的な言動は宜しくないということはきちんと伝えたけれど。
(今日は疲れたなあ!)
そうやって今日あったことを自室のベッドに寝転がって思い出す。
もう一日の業務は終えて、すっかり時間は夜で、だからお行儀が悪いだなんて誰にも言わせない。
……ちょっとくらい、ベッドでごろごろしてもいいと思うの。
そんな風に自己弁護しつつ、軍部棟であったことを思い返す。
イーノたちの話によれば南方部隊の戦い方はあちらの魔物は猿のようなものが多く、とても予想がつかない集団だからとかいろいろな話を聞けたのはありがたかったかな。
ラニーがいた北方の魔狼は統率が取れた集団攻撃で、南方の魔猿は神出鬼没の戦い方。
やっぱりその土地によって違うものなんだなと書面でしか知らない知識が、直に知る人の言葉から知れたことはとても私にとって勉強になった気がする。
でも最終的にイーノからすればラニーがまさか蹴り上げてくるとは予想していなかったから負けたんであって次は負けないってなぜか勝負を再び挑まれる話になって、隊長さんの拳骨を受けていたのは痛そうだった。
(……武器職人、かあ……)
もう少し地方によって支給される武器が変則的でも良いのなら、もう少し被害が減らせるのだろうか? ふとそう思って口にしたらイーノがぽかんとした顔をしてこちらを見ていたことを思い出す。
その後グロリアに、当然武人としては戦い方に合わせた武具があれば最善だが国としての形もあるしそれが万人向けとは限らないからこそ、万人向けの今の武具が配布されているのだと教えてもらって……え、グロリアが教えてくれるのって今考えたらおかしいなあ。
それはそうよね、南方部隊に今配属されているからと言って今後変わらないとは言い切れないのが軍部だもの。
何かあって部隊が削られれば、他の部隊と兵士の数を平均させることで補い新たに兵を募集して、っていう形になるのだから一つの土地に合わせた武具に馴染んでしまうと他の部隊に行った後が大変ってことだもの。
でも、主力となる武人たちならどうだろう?
そう思うのだけれど、それはちょっと口に出さなかった。だって私があまりぽんぽん思い付きで口に出す話じゃないと思ったから。
(明日、レイジェスにちょっとだけ……うん、ちょっとだけ、聞いてみようかしら)
その結果レイジェスからそんな馬鹿な意見を言うのはどうかという視線を受けたなら、この話はまるっとなかったことにすればよいのだから!
……ちょっとだけ、ちょっとだけそんなことになったら私の心がダメージを受けそうな気がしてならないけれど。
「やらなきゃいけないことは、朝議で求められる意見……」
私は聞いているだけでいい。そう兄様は仰られたけれど、あの場にいた人々は私がどんな意見を言うのか楽しみにしてきっと唐突に質問を飛ばしてくるに違いない。
特に、私がまともに答えられないか……或いは間抜けな答えを出して「それみたことか!」と言って追い出したいのだろうということは想像に難くない。
別に彼らを嫌っているとか悪意を持ってそう見ているわけではなくて、今までが今までだったのだからそう思われていてもしょうがないんじゃないかなって思っている。
(残念姫君は、ろくに意見も言えないで俯いているお荷物。それが彼らのイメージなのだから、そこを覆していくのは並大抵ではない)
セレニスム公爵は違いそうだけれど。
あの人は……なんていうんだろう、あの人の時計で物事が進んでいるような人じゃないかなって思う。独特な人だからわからない。
(あの人の場合は、私が朝議にいるならばそれ相応に役立てくらいの考えしかなさそうだわ、誰がどうであろうがお構いなしっていうか……)
それゆえにブレることなく国のことを思って行動もしてくれるのだけれど、いかんせん敵も多い人なのよね。公爵という地位があるから守られている部分もあるけれど、その倍は敵がいるんじゃないかなと叔父様が笑っていたのを覚えているもの。
(医療制度とか色々思い出してきたものもあるけれど、細かいところは全くと言っていいほど思い出せないのよね)
病院にかかるのに保険証が、なんて前世で言っていたのはうっすらと思い出せる。
それがあると治療の金額が変わるのだというのは今の私としてはひどく画期的に思えたけれど……いかんせん、それがどういう仕組みで行政と関わっていたのかまでは思い出せなかった。
(こんな中途半端なものばっかり!)
とりあえず青空教室という漠然とした記憶から教育制度の見直し案を兄様に提出したけれど、あれだって穴があるばかりなんじゃないかと心配でたまらないし。
でも国民の学力があがれば自然と開発とかにも繋がって、最終的に国力も上がると思うのよね。そうしたら豊かな国はやっぱりみんな出ていかないし……。
そうすればよその国からだって技術者が来てくれて豊かになるかもしれない。
(でもそのためには、魔力なしの人がもっと暮らしやすい環境にしなければならない?)
王族ということから私は随分と魔力がないことで色々言われたけれど、平民はそうじゃないとも聞く。
だけど、それは本当だろうか?
今更、私は紙の上での話しか知らないんだなと思ったら……私と同じように、苦しんだり悩んだりする人がいるんじゃないかなって気が付いて。
ああ、なんて私は理解が遅いのかしら! って自分を嘆いたものだけれど、嘆いたところで直ぐに行動できないのも権力の大きさ故なんだと思って諦めた。
本当は私自身が個人的に動いて視察でもできれば良いのだろうけれど、何かが起こってからでは……そちらの方が無責任極まりないもの。
(どれを優先順位としてやっていけばいいのかしら)
はぁ、とベッドの上でため息をひとつ。
ごろりと天井を見上げてから目を閉じた。
(朝議のために国内の情報を頭に入れたい。明日は図書室に行って、国内の新聞を見ることにしよう)
少なくとも、知らないよりは知っているべきだ。
それがどうやって知識として使われるかは別として、無駄にはならないと思う。
それからヴァッカスの方も進捗を聞きたいな。アニーに乗って散歩もするんだから、その時に何かできることやするべきことがあるならしておきたい。
(……レイジェスは、明日も、来てくれるかしら)
このところ、忙しくないから大丈夫だと言ってくれた婚約者。
私は夢を見ているんじゃないかって、こうしてベッドの上で毎日のように思っていると知ったら彼はなんて言うかしら?
呆れるかしら、それとも夢なのかしら。
どうやったらこれが現実だと私は受け入れられるのかしら。
どうしたら――失う怖さを、乗り越えられるのかしら。
(いけない)
ネガティブな考えは捨てよう、そう決めていたのに。
ふと胸にしまい込んだ不安が顔をのぞかせてしまったことに私はベッドから跳ね起きる。いけない、こんなことでは。
うつらうつらと少しずつ眠たくなっていたはずなのに、どっと嫌な汗が背中をじっとりとさせた。
それが気持ち悪くて、少しだけ――少しだけ、と言い訳をして、私は窓を開けた。
空にはレイジェスの目の色みたいに綺麗な赤い月が、浮かんでいた。