58.
昼食の後、レイジェスは仕事があるからと去って行った。
それは勿論、当然の事。彼は親衛隊隊長で、本来ならお父様の側にいる身だもの。私のために時間を割いてくれている、それだけで嬉しい。
「ファール隊長とちゃんと関係が直ったんですねえ」
「ラニー」
うんうんと頷いて私の横を歩くラニーが、嬉しそうに笑う。
私とレイジェスの関係は、歪だった。お互いに気持ちを吐露するまでは嫌われていると思っていたし、彼の方は嫌われても構わないというスタンスだったから当然だったと思う。
そしてそれは見ていた人たちも当然わかる話で……。
どうしてそんな風に嬉しそうなのかと思わず聞きそうになって私ははっとした。
でもそうよね、自分が仕える相手がそんな風にぎすぎすしている姿を見たら、心配だってするなぁって。
「……心配かけていたのね」
「いやぁ、あれは隊長さんが悪いでしょ。好きな子には素直になればいいのになあってあたしは思ってた程度ですよ!」
からからと笑うラニーの言葉に、すきなこ、と思わず繰り返してしまって恥ずかしくなってしまった。
そんな私を微笑ましいといった様子で見るラニーと、アニーに会いに行く。
ヴァッカスとこれから色々アニーの怪我を治すためにとはいえ実験的な事に付き合ってもらう以上、私自身がアニーの事を知って把握して、信頼関係をもっと確かなものにするべきじゃないかと思ったから。
私にできる事は、些細な事。
だからといって、すべてを人に任せるのはただの放棄になるんじゃないかと思っている。
(私には、何ができるのかしら)
まあそれを探していかなくちゃならないんだけれど。
この間は視察にも行かせてもらって、私も王族としての仕事をしていかなくてはいけない。レイジェスに嫁ぐと決まったからって、それはすぐって話でもないし……王族の降嫁ともなればそれ相応の準備が必要で、国としては姫が英雄と結ばれるっていう点で民衆に対して大きなアピールをしたいだろうからそれこそその日は見世物パンダになる覚悟でいなくちゃいけないんだろうなあ。
(……結婚、かぁ……)
片想いが長かったせいかしら。
まだ、実感ができない。
なんだか会っていなかった人と会えなかった時間を埋めていく、そんな風に今の関係を感じている私としては両想いで結婚前提で、ってなんだかおかしなくらい目まぐるしいって思ってしまう。
勿論、利害関係とかそういった理由も含めて頭では理解できているけれど、これが夢なんじゃないかって常々思ってしまうのは私が弱いから?
「どうしたんですクリスティナ様。アニーも心配してますよ?」
「えっ? あ、ごめんなさい……ぼうっとしてしまって」
「何か悩み事ですか?」
「いいえ。幸せすぎて怖いなってだけよ」
「幸せが怖いんですか?」
ラニーがちょっとびっくりしたように私を見る。
ええ、そうね。幸せが怖いだなんておかしな話。
誰もが『幸せに』なりたくて日々努力しているのに、それを手にして怖がるだなんて。
「……そうね」
何とか、笑う。
余計な心配をかけたくなくて、こんな情けない私を見られたくなくて。
だけど、ラニーは訝しげなままだった。
「いいじゃないんですか、ファール隊長が今までクリスティナ様に苦労かけたんでしょう?」
「ラニー?」
「地方から来たあたしの目にも、あの人のわかりづらい愛情ったらないですよ。クリスティナ様が優しいから許されてただけで……まああの人のどこがいいのか、あたしにゃさっぱりわかりませんけどね!」
アニーを撫でながらぱちんとウィンクしたラニーに、思わず私は吹き出してしまった。
そうか、私が『残念姫君』だからみんな嗤っているんだ、なんて思っていたけれどレイジェスの態度がひどいと思って同情していた人もいたのかもしれない。
そんなことにも思い当たらないくらい、私はきっと視野が狭かった。
(今もそう)
だけれど、その視野の狭さを指摘してくれる人がいてくれることは、やっぱり幸せだ。
その人たちがいなくなってしまったらと思うと怖いけれど、そうならないように努力する事はできるはず。甘えてばかりいないで、それを忘れずに行動していこう。
それが、私にできる事に違いない。
「……今日のアニーはご機嫌ね?」
「そりゃ、クリスティナ様が来てくれたからだと思いますよ!」
「なら、嬉しいわ。私もアニーに会えて嬉しいもの」
くるる、と啼いて私の方に頭を摺り寄せてくるアニーの事はもう怖くない。
始めは少しびっくりもしたけれど、こんなにも優しい子だもの。
愛しくて、アニーが大事な存在として慈しむのもよくわかる。
「……月の女神は、そのように笑うのだな」
「!」
そんな私たちの背後から、声がした。
ラニーが庇うようにしてくれるけれど、その声の主を私たちは知っている。
「……カイマール殿下」
ああ、レイジェスに知られたらまた叱られてしまいそう!
思わずそう考えてしまった私は悪くないと思う。
「なに、これ以上は近寄らん。そう警戒してくれるな、流石に傷つく」
「……いえ。何か御用でしょうか?」
「いいや、先程国王の許可を得たのでな、ちと遠乗りに行こうかと思って厩舎に来たところだ。そこで麗しき女人の姿を見たので挨拶をと思っただけだ」
「さようでしたか。どうぞターミナルの景色を存分にお楽しみくださいませ。……供の方はいずこに?」
「厩舎で馬に鞍をつけているところだ」
笑ったカイマール殿下は、私をじっと見る。
なんとなく落ち着かなくてアニーに添えていた手に、力が入った。
私のそんな機微を理解したのか、アニーがカイマール殿下に向かって短い威嚇の声を上げたけれど彼は何も意に介さない。
「どうやらおれはそのランドドラゴンに嫌われたようだ。ただ月の女神とお近づきになりたいだけなのだがな」
「……その月の女神というのを、止めていただけませんか」
「では何と?」
好きなように、と言えば彼は月の女神と呼び続けるのだろう。
だけれど名前で呼んでくれというのもなんだか妙なもののように思うし、良い案が思いつかない。
思わず黙ってしまった私に、カイマール殿下が笑みを深めた。
「意地が悪い事を言ったな。そなたの反応が愛いゆえだ、許してほしい。クリスティナ王女よ、どうかそうおれを遠ざけないで欲しいものだ」
「……ではどうか、適した距離でお付き合いをお願いいたします」
「考慮しよう。それでは準備ができたようだ。おれはここで失礼しよう」
白の装束を翻して、去っていくカイマール殿下を見送って私は深いため息を吐き出す。
私たちの会話を邪魔しないように、それでいて警戒を怠らなかったラニーもほっと息を吐き出していた。
「なんていうか、本当にああいう面倒な御仁にクリスティナ様は好かれますねえ」
「……好かれているというのかしら」
からかわれているようにしか思えない。
その言葉は飲み込んだ。
否定しても肯定しても、なんとなく自意識過剰なんじゃないかって思ってしまったから。
でもラニーは緩く頭を左右に振った。
「まああたしの勘なんてものは戦闘の時以外あんまり発揮されませんからね、さあそろそろ戻ってやらないとヴァッカスの旦那が首を長くしすぎてサーラにモップでどやされてるかもしれませんよ」
ラニーの物言いがおかしくて、思わず私が笑えば。
アニーが良くわからないのか、それでも嬉しそうにくるると喉を鳴らした。