56.
すっかり茜色に染まった空と、どこまでも整然と整えられた庭園は美しいと素直に思える。隣のレイジェスは、私に合わせてゆっくりとした歩調で庭を進んでくれる。
腕を組んだままの私は、ぼんやりと庭を眺めて、連れられるままに庭園の中を進んでベンチへと案内してくれた。
「……ありがとう」
「大丈夫か」
「ええ……」
ぼんやりしていてはいけないと思うのだけれど、少し疲れていたのかもしれない。
静かな庭園の中で、風の音や鳥のさえずりを耳にして気分が落ち着いていく。
「顔色が、優れない」
手袋越しのレイジェスの手が、私の頬をするりと撫でた。
こんな風に、触れてくれるんだと場にそぐわないことを、思った。
「ねえ、レイジェス」
「なんだ」
「私は、……私は、笑えていた?」
レイジェスの顔を、見れなかった。
笑えていなかった、不格好だった、そんな風に言われたらと思ったら自然と俯いてしまった。そんなんじゃいけないってわかっているのに。
ドレスの下で、足が震えた。
立っていたならば、しゃがみこんでしまっていたかもしれない。
(ああ、なぜ聞いてしまったのか)
知りたかった。
笑って、王女らしく振舞えていたのか。
だけど、知りたくなかった。
できていないと、否定される事というのはひどく恐ろしい事だから。
「お前は」
「……」
「どうして、『完璧な王女』であろうとする」
「……どう、して……?」
私の質問に答えないレイジェスの言葉に、ゆるゆると顔を上げる。
赤い目が、夕焼けの色と混じってとても綺麗だった。
どうして、なんてわかりきっている。
私が、私であるためだ。
役立たずの、『残念姫君』から国にとって有益な『ゼロの姫君』であるために。
でもそれは、レイジェスを幸せにするためだった。
じゃあ、今は?
いいえ、想いが通じたからといって今のままでいいはずがない。
彼はこの国の『英雄』で、だからこそ姫である私を褒賞として得る。
それなのに与えられた姫君が『残念姫君』のままだったら、レイジェスの名誉に傷がついていってしまうから。
レイジェスはそれでいいって言うのかもしれない。
私が彼の用意した優しい檻の中で生きていく事を望んでいる。
だけど、だけど、それは、違う。
「私、は……貴方の隣に立てる人間になりたい。今まで、俯いてばかりだった自分を変えたい。だから……」
「だが、それで無理をしてはお前が壊れる」
「……無理、なんて」
していない。
その言葉は飲み込んだ。
体が勝手に、そうした。
それが、自分の答えだと知って私はまた俯いてしまう。
(自分で望んで行った、それは大それた夢だったの?)
愛した人に見合う人間になりたい。
少なくとも、嫌われていたと思っていた時から最後の思い出は綺麗な私でありたいと思っていた。
でももし、その状態であったとしても、今と私の成長具合はきっと変わらない。
ああ、ああ、なんてことだろう。
(私は、前に進めていない……?)
上っ面だけを追い求めて、なんの実にもなっていないのだろうか。
そんな事はない、そんなはずはないって思うのにそれを肯定するはずの自分がまず否定的である事実が、私にとってなによりも辛い。
(どうしたら、前向きになれるの)
太陽のようなディアティナ姉様みたいには、なれない。
私は物語の主人公みたいに、運命を切り開く強さなんて持った人間じゃない。
それを理解した上で、できる事を諦めない……それだけのはずなのに。
前を向いて、笑って、グロリアたちがいて、少しずつちゃんと変わっていると思ったの。
でもレイジェスを前にして、こうして改めて問われて、答えが出ない。
「笑えていた」
「……えっ?」
「人が思う、王女としての笑みとしてで言えば誰も文句などつけようのない、笑みだった」
レイジェスが、淡々と言う。
その口調は、ただ事実を述べているんだとわかるくらい、事務的なものだった。
できていた。
その事に、安堵の波がジワリと胸を満たした。
けれどそうなると、どうして私が壊れるだなんて彼は言うのだろう? そんな疑問が出てくる。
ベンチに私を座らせて、自身は立ちっぱなしのレイジェスは手持ち無沙汰なのか、時折手を伸ばして私の頬に触れたり髪を弄ったりとしてくるけれど決してそれ以上近くの距離にはなろうしない。
それが婚約者であっても、王女と騎士という身分の違いという見えない壁が理由なんだっていう事は私も理解している。
だけれど、今、私はそれがひどくもどかしかった。
小さな子供じゃない。
だから身分差も、彼の振舞いの正しさも、きちんと理解している。
(……そうか、私)
信頼しているけれど、グロリアたちと私は主従で、友達みたいに思っていても、どこかで私自身が『立派な王女で在らなければ』と距離をとっている。
それは、きっと間違いじゃない。その中できちんとした信頼関係を築いていけばいい。友情とは違うかもしれないけれど、そこを崩しては身分制度そのものを否定する事になってしまうし、それを王族である私が率先してやってしまってはいけないと律する事も大事だもの。
だけど、レイジェスは違う。
彼もこの国の騎士だけれど、私の情けない姿も、本当はこうして俯いてしまう悪いところも、知っている人だから。
前まではそれを鬱陶しく思い、嫌っているんだと思ったけれどそれが違うとわかってしまったから。
(私は、レイジェスに、甘えたいんだ)
その事に気づいた私の胸が、とくんと小さな音を立てた気がする。
ああなんてことだろう。私はこんなにも欲張りだったのか、それとも或いは甘ったれの子供のままなのか。
あれもこれもやらねばならない中途半端な状況で、想いが通じたからとそんなに距離を唐突に詰めたいと思うほどに彼に焦がれていたとでもいうのだろうか?
いや、たしかに焦がれていたけれど。
「レイジェス」
「なんだ」
「……あ、の」
「……」
「隣、に、座ってもらっては、だめ……?」
「それは」
私の願いに、レイジェスが珍しく言い淀んだ。
少しだけ視線を彷徨わせてから、私の横に腰を下ろす。
それからまた躊躇って、私の事を、抱き寄せてくれた。
「……そんなに泣きそうな顔をされたら、断れないだろう」
「抱きしめて、なんて、お願いしてない……」
「置いてけぼりを食った子供みたいな顔をしておいてか」
くっと笑ったレイジェスの言葉を、否定なんてできない。
だって私は、こうして欲しかったんだもの。
どうしてわかったんだろう。
どうして、伝わったんだろう?
泣きそうな気持になるのと同時に広がるこの幸せな気持ちを、なんて説明したらいいんだろう。
レイジェスの軍服の金具が冷たくて、決してこの抱擁は心地いいだなんて言えないのに心はこんなにも満たされる。
誰かに見られたらどうするんだ、とか。
強がりをしても結局私は弱いままなんだ、とか。
色々思うところはあったけれど、レイジェスの私の髪を撫でる手つきが優しくて、それで十分だった。
「お前は、お前のままでいい。壊れたとしても、俺がお前を手放す事はない。……だが、無理はするな」
「……」
「お前は、何も知らずに笑っていればいい。その方が、お前にはお似合いだ」
「……」
王女としての重圧。
ディアティナ姉様はどうやって耐え続けてきたんだろう。
どうして私は今までそれを直視しないでいたんだろう。
魔力がないから。それで否定された私という存在を、私自身が否定してしまったその時に遅れを取ってしまったんだという事が悔やまれる。
「いいえ、私は立派な王女になりたいの。今からでもきっと遅くはないわ」
「……頑固だな、相変わらず」
「そして、私はレイジェスを幸せにするの。そう、私は決めているんだもの」
レイジェスの胸を押すようにして身を離して立ち上がる。
すっかり空は、茜色から夜の色に姿を変えていた。