55.
ヴァッカスの知識と経験。
ラニーの知恵と経験。
そこに私が加わっても大したことはできなかった。
これから、これから。
そう思うしかない。
途中でグロリアとサッカス殿が戻ってきて、手続きが無事に全て済んだ事を教えてくれて、その後はまた明日にしようという事で解散となったんだけど。
まだ本に夢中だったヴァッカスは、サッカスに引きずられるようにして帰っていった。
「あと二ページ、いや五ページ待ってくれ、サッカス……!!」
「減らすならまだしも増やすな! いつまでも王女殿下のところにいるわけにはいかん、お前を生活させなきゃならないこっちの身になれ!!」
ぐいぐいと羽交い絞めにして引きずるようにして書庫を後にする姿は、なんというかちょっと見た目よろしくない。
けれど確かにヴァッカスがこの場に留まり続けるのも時間的に良くないし、サッカス殿には仕事が別にあるであろうし、私はどうしたものかと小首を傾げた。
「ヴァッカス、書物は逃げないわ。明日の昼から来てくれるなら、書庫に通れるよう話はしておきますから」
「本当ですか!」
「ええ。サーラ、お願いね」
「……わかった。です」
「キャーラ、お二人のお見送りを」
「あああではせめて、部屋で読めるようにこの本、それからこの本、あと……」
「いい加減にしろヴァッカス、ここは実家じゃないんだ!!」
本当に本が好きなのか、ヴァッカスは書庫の本をかき抱くように手を伸ばす。
だけれど、書庫の本を持ち出す事はあまり褒められた事ではないから私はそっとそれを手で押さえた。
「ごめんなさいヴァッカス、これらの本はあくまでこの城のものです。私個人の蔵書も混じっていますが、それだって私がお父様にお願いして手に入れていただいたもの。なんでもかんでも持ち出すのは、よくないと思うのです」
「……は、いえ、あの、別に持ち逃げするとか」
「そんな心配はしていないわ、安心して!」
私の言葉に一気に不安そうな顔をして周囲を見るヴァッカスに、私はできる限り優しく微笑んだ。できているだろうか? ディアティナ姉様のように、人を安心させる笑顔というのはなかなか難しいなあと思う。
それでも笑顔の練習もしたんだもの、形にはなっていると思いたい!!
『あのオヒメサマの笑顔ってさー、どっか陰気臭いのよネー』
『あー、わかるわかる! 嫌われたくないって媚び媚びのさ、アタシたちみたいな侍女にまでそうしちゃうなんてほんっと使えない王女サマってのも大変だよね!』
『まぁしょうがないんじゃない? 王家の務めである国民への奉仕ってのが魔力なしの王女サマじゃなぁんにもできないんだもん!』
きゃっきゃっと楽しそうに笑う、私を見下す人の声が、耳の奥で蘇る。
いいえ、いいえ、それは過去の事。
私は、笑っている。
(私は、笑えている?)
ヴァッカスが、本から手をゆっくりと、どけた。
ああ、笑顔は失敗しているのだろうか、それとも成功したのだろうか。
「ヴァッカスの熱心さには、私の方が頭が下がる思いなの。だけれど、これは国費で買ったようなもの。貴方が言ったように、貴重な書物である事を考えたらきちんと保管をしたいと思っています。どうか、理解してほしいの」
「……お、王女殿下、僕は」
「貴方がいつでもこの書庫を自由に使えるように、或いは貴方が望む書物を手に入れられるように、約束するわ」
ヴァッカスが、どこか呆けた顔で私を見ている。
ああ、誰かの目に自分が映り込むなんて嘘だ。
一体私はどんな表情を浮かべているのか、自分の事なのに何もわからないだなんて!
「ヴァッカス・カロ・モーネン。私の言葉は、貴方の信頼に足るものかはこれから証明していきます。だから、今日は一旦貴方自身の環境を整える事に専念してください」
「は、はい……申し訳ありませんでした……」
「ありがとう」
私の言葉に肯定を返してくれたヴァッカスが、気まずげに視線を左右に揺らして、私に深くお辞儀をした。
内心ほっとしつつ、キャーラを振り返る。
「キャーラ、書庫の整頓をお願いしても良いかしら。後、警備の人間にヴァッカスが明日の朝から書庫に入る事を伝えてほしいの。その際には貴女が案内人として迎えてくれる?」
「か、かか、かしこまりました!」
「グロリア、通行証はできたのかしら」
「後ほどサッカス殿を通じてお届けする算段となっております」
「そう。ではサッカス殿、委細お願いいたしますね。ヴァッカスが生活するにあたり足りないものがあったらいつでもご相談ください」
「王女殿下のご厚情、誠にありがたく。まずはこの不肖の弟に寝床に戻るという事をきつく言い聞かせておきますので、どうぞ今日のようにごねたりわがままを言うようでしたら侍女殿らに力づくで放り出すようご指示を出してください」
「まあ!」
まるで小さな子供のような扱いに思わず笑ってしまえば、サッカス殿も難しい顔から少しだけ笑ってくれた。
ヴァッカスだけが唇を尖らせて不満そうだったけれど。
「ぼ、僕だって別にいつも落ち着いてないわけじゃないんだ。ただ、ここには珍しい書物もあったし王女殿下も博識だったし、新しい知識ってのは得難いもので……でも王女殿下を困らせたかったわけじゃないんだよ……」
「ヴァッカスは、悪い人間じゃない。だけど、視野が狭い」
「ひ、ひどいよサーラちゃん」
「それやめて!」
どうやらサーラはヴァッカスと仲良くなったみたい。
ああ、よかった……と思うのと同時に、少しだけ胸の中に寂しさが見つかって私はぎくりとした。
(どうして?)
仲が悪いよりも、ずっと良い事だと思うのに。
まるで、そう。とられてしまったみたい。
ばかげた話だ、私とサーラは主従で、信頼関係はあるけれど彼女の交友関係にまで口出しする権利はない。まぁよほど悪い人間と付き合いがあるというならばあれだけれど、彼女は身元も確かな人間だしむしろ私よりも強いのだから。
それにヴァッカスだって、姉様が橋渡しをしてくれた学者なのだしカエルムの貴族という事で身元もしっかりしている。
どうして。
そうもう一度自問して、出した答えに私は呆れてしまった。
(彼女たちが仲良くなったら、私が置いてけぼりになるみたいでいやだ、なんて)
まるで小さな子供じゃないか。
いいや、この年齢になるまでちゃんとした人間関係を築く事ができないような人間だったから中身は幼いともいえるのだけれど。
「レイジェス」
「なんだ」
「……この後も、時間があるのよね?」
「ああ」
「なら、少し庭園を歩きたい気分なの。……一緒に来てくれますか」
「勿論だ」
「ありがとう。ではみな、それぞれ持ち場に戻ってください。グロリア、レイジェスがいるから私は大丈夫。庭園を歩いたら戻るから、……レイジェス、夕餉は一緒に?」
「ああ」
「では、そのようにお願い」
「かしこまりました」
丁寧なお辞儀を見せるグロリアにほっと息を吐き出すと、レイジェスが腕を差し出してくれて思わず彼の顔を見た。
私の事を見下ろす赤い目には、なんの感情もない。
一緒に庭園に行ってほしいと私からお願いしたのに、躊躇うのはおかしな話だから慌ててエスコートに応じて歩き始めたけれど、違和感なくできただろうか?
書庫から庭園に出る道まで、途中衛兵がいただけだった。
彼らがレイジェスの姿を見て姿勢を正して、私を見て、ちらちらと視線を向けている事が気になった。
ああそうか、噂のゼロ姫と、英雄が共に連れ立って歩く姿が珍しいからか。
(今まではレイジェスに嫌われていると私も思っていたし、きっと周囲もそう思っていたし……この視線にも慣れなくちゃ)
「気になるか」
「え?」
「気にするなとは言わない。慣れろ」
「……ええ」
レイジェスの声に、私は彼の腕に掴まる手に知らず知らず力を入れていたのだと気が付いてそっと緩めたのだった。