5.
「――クリスティナ姫?」
「……なんでもありません、ファール親衛隊隊長。私の考えは今述べた通り、この国の姫として英雄たる貴方の望みのままに嫁ぐことに異など唱えることはありません」
思い返してみれば、あの時はやっぱり無茶をしていたんだなあと自分でも思う。そして、自分がいかに自分の殻に閉じこもっていたのか、も。
そうせざるを得ない、なんて思っていたけれど実際はどうだったんだろう?
だけど、その事について考えるのは今ではないんだろうと思う。
私の考えていることを見通すかのような、鋭い赤い目が見上げているのだから。その目と視線を合わせることは、なんだか自分の恋心まで気付かれてしまいそうで怖くて私は目を伏せた。
この国の姫として、なんて御大層なことを言ったところで私がレイジェスという男性を未だ恋慕っていることは私だけが知る事実で、それを知られてしまったら彼と私の関係はより一層悪くなるに違いない。
素直に従姉のマルヴィナを娶ってくれたなら、私は表面上いくらでもお祝いの言葉を述べただろう。心の中では小さな悪態と、悲しみに暮れたであろうけれど。けれど、少なくとも今この現状に比べれば、心は穏やかに過ごせたかもしれないのに。
(いや、そもそも私が諦められないのがいけないんだと思うけど)
嫌われている。
そう感じた日から、諦めればいいものを。どうしても、窓の外で見かける彼の姿を見つけては心をときめかせ、振り向いてくれないことに嘆きを覚え、目が合えば喜び、そして冷たいまなざしであることに傷ついた。
それでも、それでも、と心はレイジェスにばかり向いた。
他に異性と出会いがなかったとは言わない。この城に、男性は彼だけではないのだから。
「クリスティナ姫」
「私は、……この国の王女だから。大丈夫よ、レイジェス」
彼に、この気持ちを知られる前に。私は詰めていた息を吐き出した。
そして、できる限り穏やかに、この心の中を悟られないように努めて明るい声を出した。うん、うまく出せたと思う。そして、砕けた口調にすることで、彼に立ってもらいたかった。
きっとレイジェスはまだ私を見上げているのだろう。膝をついて、騎士の姿のそのままに。それがどれほど、私と彼の距離を感じさせるものなのか、彼は知ることはないのだろう。王女と、騎士である私と、彼。
性別も、年齢も、地位も、立場も、その心も。目指すものも、違う。まるで、まるで違う。今回の婚約そのものが……どうしたって、国の……軍の為の、ものなのだと思い知らされているようなものだから。
いっそ素直に私が彼に恋をしているのだと告げて、一層嫌な顔をさせてみようか。
その冷静で、冷たい表情が歪んでくれたら。
ただ、私と婚約をすることで利益を得ているはずの彼に、クリスティナという人間を刻み込めるのならば。
(……馬鹿みたい)
目を閉じる。
見たくないものから、目を逸らすことも許されないなら……見なければ良いだけのこと。
私の目の前にいる、レイジェスを見たくない。
見てしまったら、きっと、もう。
「もう、大丈夫だから。……そうね、あまり部屋に閉じこもっていて貴方に心配をかけるようでは、『ゼロの姫君』を婚約者にした意味がないもの。今日は具合が悪かった、そういうことにしておいてくれれば、後はなんとかするわ」
「何を、言っているんだ」
「……ディアティナ姉様と久しぶりに会えて、でもまた別れてしまうのが少し寂しかったの。子供みたいな抵抗でごめんなさい。だから、貴方も仕事に戻ってレイジェス」
「……、クリスティナ。お前が俺との婚約に、反対だとしても」
「そんなつもりはないわ。さっきも言ったでしょう、この国の姫として異存はないって」
「お前自身は、どうなんだ」
「……」
私、自身?
私自身の意見なんて、誰も求めていなかったのに。
なんで今更聞いてくるのだろう。
伏せていた目を開けて、でも視線は上げられない。
わかるのは、目の前に跪いていたレイジェスが知らぬ間に立ち上がっていたから彼の足が見えたということ。そっと心の中で、安堵の息をひとつ。
だけど、このまま答えないことも無言で下を見続けることも不自然すぎるから、なにか、何か答えを出さなくては。
これ以上、彼に嫌われないような、そんな答えを出さなくては。
(王女として、の答えではどうして満足してくれないの)
それで満足して、出て行ってくれたらよかったのに!
そう思わずにいられない。でもこれは私のわがままであることも、わかってる。
どうして。
どうして。
私はレイジェスに向かってここ最近、……いいえ。最近じゃない。
嫌われたのではないかと感じ始めた子供の頃から、ずっとずっと、彼に心の中で問いかけている気がする。
口に出してはっきりさせたいという気持ちと、そうすることで傷つきたくない気持ちのまま、閉じこもった情けない自分。
その情けない自分を認めたくないまま迎えた今日。
いつの間にか、どうして、という言葉を飲み込んで心で常に言い続けながら彼の婚約者に収まって、こうやって心を尋ねられて、どうしてかなんて答えが出せない。
どうして。
初めて、自分に向けられた気がする。
レイジェスの問いも、私自身が私に問いかけることも。
くるりと背を向ける。それが精いっぱいの抵抗だった。
「私自身の気持ちを聞いて、どうするの。……どう、なさりたいのですか」
言葉遣いを、変える。
姫としての私であろうとしなければ、王女という仮面を被らなければ、とんでもないことを口走ってしまいそう。
そんな私のことなどお構いなしなのか、レイジェスはそのまま言葉を続けた。
「お前は、お前を犠牲にしてまで国王陛下や王太子殿下、ひいてはこの国を守った」
「………」
「俺は、お前自身が幸せになろうとしているところを見たことがない」
「……」
「あの時、叛徒どもに囲まれてなお毅然とするクリスティナ、お前を見た時の俺の気持ちは決してわからないだろうな」
「……レイジェス?」
細められたレイジェスの赤い目が、私を睨みつけている。
怒っている。けれど私を、真っ直ぐに見ている。
私を、見ているんだと窓に映る彼を見て、それだけで胸がざわめいた。
嗚呼、私はどこまで愚かなほどに彼に恋をしているのだろうか!
この状況で、胸をときめかすなんてと自分にこれでもかと呆れているのに私を見てくれていると思うだけでやはり止められないなんて!
「……失礼をいたしました、クリスティナ姫。どうぞご無礼をお許しください」
「無礼、などと……あな、たは、ファール親衛隊隊長は、私の、婚約者でしょう……」
「どうぞ、レイジェスと。そのお声で私の名を呼んでいただけたならば、幸いです」
「……」
かつては、私が貴方の名を呼ぶと眉間に皺を寄せたのに。
そんな非難めいた考えが、頭に浮かんで消えた。
(私は、まるで子供みたい)
本音を言うのは嫌だ。
だけど建前で接されるのは嫌だ。
本音を聞くのは嫌だ。
だけどもう隠しきれない自分が嫌だ。
嫌だ嫌だとまるで小さな子供が駄々をこねているだけのようで、それを自覚すると余計に情けなくも恥ずかしくもなる。
「そう、私は貴女の婚約者だ。……だから、貴女をお守りすると約束しよう。なにがあっても、誰からも」
静かな声と共に、彼の気配が遠ざかる。ああ、退室するのか。
私が婚約者であり、それは覆せない事実であるということを強く念を押して。
どうして私はこんなにも心をかき乱されてしまうのか。当然だ、恋をしているからだ。
(どうして、守るだなんて言うの)
いっそのこと、建て前だけの婚約関係だと言ってくれたら。
いいえ、言われたら私の心は壊れてしまう。じゃあ何が正解なのか。どうしたら、良いのか。
(わかってる、私がきちんと『王女』としての立場を貫くこと……私の心を、犠牲にすること。そうすればすべてが丸く収まるってわかってる)
「クリスティナ姫。重ねて約束しよう。貴女を、必ず守ると。あの時のような事態は、二度と招かぬと。……失礼する」
「レイジェス……ッ」
何故、そんなことを言うの!
私が振り返った時にはもう、彼はさっさと退室していて。
伸ばしかけた私の手が、いかに間抜けで、情けないものなのか。
それでも守ると誓われたことに胸が、痛むのと同じだけ喜びを感じたことに私は、どうしていいのかわからなかった。
いっそのこと、小さな子供のように泣いて喚いて、そんなことができたら良いのにと思ったけれど。
もし泣けたとしたならば、その涙の意味は一体喜びと痛みとどちらからくるものなのだろうと、ぼんやりと思って伸ばしかけた手をおろしたのだった。