52.
私の想像通り、部屋に戻った私たちをグロリアが出迎えてくれた。
……それと一緒に、レイジェスがいたことには少し驚いたけれど。
「おかえりなさいませ、クリスティナ様。レイジェス様は先ほどお見えになりまして、お待ちになられると仰いましたのでこちらにてお待ちいただきました」
「え、ええ。……レイジェス、もう用事は大丈夫なの?」
「カイマール殿下の件ならば、問題ない」
「……私に会いたいと願い出てくださったと先ほど直接、告げられたわ」
「……」
ぴくりと眉を顰めたレイジェスの赤い目が私の事を睨みつける。
前までならそれを怖いものと思ってすぐに視線を逸らしていたけれど、今は違う。
いえ、怖いのは変わらないけれど。
レイジェスは綺麗な顔をしているから、そんな人が不機嫌さを隠しもせずに無言で睨みつけてくるというのは苦手とかそういう事を抜きにしても怖いっていうか、気後れするっていうか……。
これは、少し話をした方が良いかな。
そう判断した私はレイジェスから視線を外さずに、グロリアに声をかけた。
「グロリア、ヴァッカスの雇用についてお父様は?」
「万事、クリスティナ様の良いようにと」
「そう、じゃあ手続きをグロリアが主導でお願い。サッカス殿、彼女と共に手続きをよろしくお願いいたします、宿舎の方も今日からお願いできますか」
「承知いたしました、王女殿下」
「それではご案内いたします」
グロリアが一礼して、サッカス殿と出て行く姿にヴァッカスが「えっ」と困惑した声を上げたけれど、私はまだレイジェスから視線を逸らせずにいた。
赤い目に浮かぶ不機嫌の中に、今私の行動をどこか面白がっているようなものが混じり始めたような気がするから。
「サーラ、私の書庫にヴァッカスを案内して。ヴァッカスの補助で必要な資料はなんでも出して構わないわ」
「はい」
「えっ、しょ、書庫?」
「ヴァッカス、申し訳ないけれど先に行って仮説をいくつか立て、現時点で必要なものを書き出しておいて。それを見て私も判断します。ラニーも一緒に行って、書庫周辺の警護をお願い。私の書庫ということで特になにかが起こるとは思えないけれど、他国の方が出入りしているという事で誤解を招いてはいけないから」
「は、はい! うわぁ、書庫か、楽しみだなあ……!!」
「それではヴァッカス様、こちらへ」
「は、はいぃ……!」
「それじゃあクリスティナ様、こっちはわたしに任せてごゆっくり」
ラニーがひらりと手を振ったのが視界に見えて、笑った声が聞こえた。
それからサーラとヴァッカスが出て行って、幾分か室内がしんとする。
私が視線を逸らせないままレイジェスを見つめているように、レイジェスも私をただ真っ直ぐ見ていた。
「キャーラ、私とレイジェスにお茶を」
「か、か、かしこまりました!」
「それから、人払いをお願いね」
キャーラが出ていく音が聞こえた。
部屋には、私とレイジェスの、二人だけ。
「……座って、レイジェス」
「ああ」
私が椅子を勧めて、レイジェスがようやく私から視線を外した。
もう不機嫌そうな空気はないけれど、まだよく距離感がわからない。
嫌われていない、というのは理解できたけれど……やはり、まだ好かれているとは思えない。
レイジェスを前にすると、私の前向きになった気持ちがどこか逃げ出したいという気持ちになってしまうのは、条件反射なんだろうか?
そんな気持ちをぐっと飲みこんで、私もレイジェスの向かいに座った。
「カイマール殿下とは、先ほど厩舎で会ったのよ」
「なぜそんなところに行った」
「アニーの様子を見に」
私の言葉に、レイジェスはなるほどと言った様子で頷いてそれでも不快そうだった。
でもあそこで会ってしまったのは偶然だし、客人として迎えている他国の王族であるカイマール殿下を無視なんかできるはずもないし、
そんな私の状況は理解できているのだろうレイジェスは、それでもムッとしている。
多分断ったのに、カイマール殿下が実力行使に出たから……だと思う。
「……さっきの通り、ヴァッカスが私の教師になったの」
「ああ」
「それでね、アニーの治療ができるかはわからないけど、色々試してみようとは思ってて」
「ああ」
「……カイマール殿下のお誘いは、ちゃんとレイジェスが一緒ならって告げたの。それと、ディミトリエ皇子にもお会いしてみんなでお茶をって誘われたけど、それも断ったわ」
「そうか」
短い返答ばかりのレイジェスに、私は少しだけ不安になる。
私が彼にしているのは、言い訳めいたものだろうか? それは彼には必要ないものなのだろうか? 媚びている風に思われたのだろうか、鬱陶しいと思われていないだろうか。
そんな気持ちが私の胸の内を焦がす。
だけど、それをレイジェスに聞いてもいいんだろうか。
「……カイマール殿は」
「え?」
「相当お前の事を、気に入ったようだな」
「そ、そう……?」
「月の女神、月の女神と喧しい」
「レイジェス、ほかに人がいないとはいえ……」
他の誰かが耳にでもすれば、他国の王族に対して不敬だと彼が咎められる事になってしまう。
「お前は」
「れ、レイジェス?」
「ああいうように甘ったるい言葉を、欲するのか」
「あれは……あれは、キャンペスの男性が女性を褒めるのに使う言葉ではないの?」
私に対して確かに過剰に友好的だと思うけれど、それはターミナルの女性としては毛色の違う私が珍しくて、そう声をかけているのかもしれない。
この銀髪も確かに月に例えられる一因であるであろうし、キャンペスでは大人しい女性の方が好まれるというのは前に何かで耳にしたから。
だけれど私の言葉に、レイジェスがくっと笑った。
小馬鹿にするような、冷たい笑みだった。それを目にした私は体をぎくりとさせてしまう。
さっと血の気が引いて、ああ、怖い怖いと、私の意志を無視して体が震える。
そんな私の様子に気が付いているのかいないのか、レイジェスは視線を逸らして先ほど浮かべた冷たい笑みのまま、口を開いた。
「あの男には近づくな。どうしてもという時は、俺を呼べ」
「え。ええ、それは……それは勿論」
「俺の婚約者と認知してなお、お前に声をかけるとはな。公爵が言っていた事もあるし面倒なことだ」
「面倒」
その言葉に息が詰まる。
苦しい、苦しい、ああ、息を吸わなくちゃ。
それなのに私ののどを、何かが塞ぐ。
苦しくて、苦しくて、思わず喉に手が伸びる。
助けてほしくて、それでもレイジェスに手が伸ばせない私は自分の喉を支えるように触れるだけ。
そんな私に気が付いて、レイジェスがまた眉を顰めた。
「クリスティナ」
「……、ご、ごめんな、さ……」
怒らないで。
嫌わないで。
私は、どうしてうまくできないのだろう。
レイジェスに並び立つ、そう決めたのにこんなにも心を弱くしてしまう自分が嫌い。
勝手に怖がって、勝手につらくなっているっていう自覚はある。
どうしたって、なんだって、私は……まだ、すぐには変われない。
変わりたい、変わってみせると決めたけれど現実はそんなにたやすくない。
少しずつ、ちゃんと変わっていると思うけれど。だけど急には強くなれない。
それが、苦しい。
「言っただろう。お前を、手放す気はない。……手放せるはずがない」
「れい、じぇす」
「諦めろ。俺に、手を伸ばす権利を与えたのはお前だ」
レイジェスの手が伸びる。
私の喉に添えられた手を、彼の手が掴む。
それはやんわりとしたもので、だけれど確かに彼の掌の熱を受けてそこだけかっと熱くなったような気がした。