閑話 侍女と騎士
「……グロリア殿」
「なにか」
「そう、殺気を込めて睨まれていてはこれより先の場では警護の兵が誤解をしかねない。私に文句があるのであれば、今この場で仰っていただけるか」
レイジェスが、足を止める。
その口調がクリスティナと先ほどまで交わしていたものよりもずっと固いもので、全くもって感情を欠片も見せないものであることに彼の後ろを歩くグロリアの目がすっと細められた。
「良い心がけです事、若造が」
「流石、剛腕の名を持つ女性だ。だが私を討つには少々足りないのではないか」
「討たれるようなお心当たりが?」
「……さて」
他に誰もいない回廊で、背を向けたままのレイジェスだけがゆるく首だけ巡らせてグロリアを肩越しに見る。その赤い目がひどく冷たいものである事に、グロリアはぞくりと背筋が震えるのを感じた。
(とんでもない男だこと)
そっと内心で毒づいて、それでもグロリアはその視線を真っ向から受け止めるどころかはねつけるように睨み返した。
別に彼女も本当にレイジェスを討とうというわけではない。
この国に仕え、王家に忠誠を誓っているという点でレイジェスとグロリアは騎士と侍女という立場の違いがあれども同輩だ。ましてや、彼女は元騎士でもあるのだから。
それでもこうしてレイジェスに対して厳しい目を向けるのは、現在の主であるクリスティナに対する彼の今までの行動であり言動が、彼女にとっては腹に据えかねるものであったから……というわけでもない。
単純に言えば、王妃キャサリンの意向だ。
愛すべき娘の婚約者に収まった男に、武官として信頼は寄せていても今はまだ婚約者として信頼していない……というのを言外に突きつけている。
グロリアが元々王妃付きの侍女であることをレイジェスは知っていたし、このくらいの意図を汲めなければ親衛隊隊長など務まるはずもない。ちょっとした意趣返しであろうことに、レイジェスは気付いているからこそグロリアに文句は言わず軽口を返すのだ。
少々それが物騒であるというようなことを言うものが誰もいないのが難点であるのだが。
「あまりクリスティナ様のお心を乱さぬようお願いいたします」
「……さて」
王女の名前を出されてふいと視線を逸らすところを見て、グロリアはそれを『まだ可愛げがあるではないか』と判断する。
どうにもこうにも、彼女の目から見てこの青年と主の恋は前途多難だ。
互いを想い過ぎてそれぞれがそれぞれに、傷つけあっているのだから始末に負えない。
あの謀反事件そのものは当然いただけないが、それのおかげでようやく向き合うことになった二人の様子は見ていてじれったいを通り越していっその事、離れてみてはどうだとグロリアでさえ声に出したくなったものだ。
クリスティナの自信のなさは、そばにいて理解できた。
王妃からも耳にしていた通り、まるで魔力がないがゆえに王城内のあらゆる施設を使うのに難儀することは勿論、仕えてみればそれまで彼女の身の回りの世話を担当していたという侍女たちの質の悪さにグロリアは眩暈を覚えるかと思ったくらいだった。
それでも王妃と夫の言葉を信じるならば、この王女は人間として捨てたものではないのだろうと接してみたところ思いの外聡明であり、聡明であるが故に周囲の人間の心ない言葉一つ一つを素直に受け取って傷ついてきたのだろうと推察された。
現にグロリアが一つの言葉を呈せばそこから複数の事を考え、王女として最適解を出そうとしているそれだけで彼女からしてみれば立派なものだ。
侍女として仕えていた小娘たちはまがりなりにも王族の周囲に仕える事ができたのだからそれなりの家柄出身であろうが、それらに比べれば魔力がないなんて些事である。
少々心が繊細であるし、なんでも一人で片付けようとするあまりに周りに心配をかけているという点に気付けていないのが難点であるがそれは自分が傍らで補助していけば何とでもなることだとグロリアは思う。
それに、年若く彼女をまるで女神のように信奉している二人の優秀な少女達もいるのだから、道を誤らないように導けばあの王女は花開くように輝くに違いない。
だが、グロリアから見て問題なのはレイジェス・アルバ・ファールだ。
この男が優秀であることは疑いようもない。
つい最近まではグロリアでさえこのレイジェスという男は感情を碌に持たず、王家を神聖視するあまり王女クリスティナの魔力がない事から冷淡に接しているのだとばかり思っていた。
だがここ最近の、少なくとも婚約を正式に表明されたパーティでの二人のやり取りを垣間見てそれは誤りであったと彼女は確信する。
だとすれば空恐ろしい程の、恋情と呼ぶにはあまりにも気持ちの悪い執着と呼ぶべきかもしれない想いを彼は秘めている事になる。
恐らくは王女のためだけに謀反を疑われる勢いで昇進したのだろう、そしてそれを危惧したマールヴァール将軍がアルバの名を与えた事で国に忠義を尽くす若者として位置づけたのであろうことは想像に難くない。
(……本当に、この男でクリスティナ様は良いのか)
公爵が来て語った事を考えれば、王女の相手は今からでも増えていくに違いない。
国王その人が国益のために婚約を反古せよとは言い出さないであろうが、議会や国民の気持ちが傾けば可能性は無きにしも非ずといったところだろう。
だとしても、いずれの名前も碌なものじゃないとグロリアとしては思うのだがこればかりは侍女が口を挟んで良い物事ではない。
(この男の『想い』は、クリスティナ様にとって危険ではないのか)
だが恐ろしい事に、かの王女もまたこの男を大切に思っているのだと知っているだけにグロリアの胸中は複雑だ。
よりにもよって、と思うがこればかりは人の心だ、どうにもなるまい。
グロリアにできる事は、少なくとも今の主であるクリスティナの心が傷つかぬように彼女の盾となり、矛となる事だ。
「もしも、貴方様があの方を失望させるようであれば、喉笛を食い千切る事にいたしましょう」
「……心得よう」
「その言葉、どれほどの信頼に値しますか」
「そうだな」
レイジェスが、少しだけ考えるその背をグロリアはじっと見る。
しんとした回廊で、静けさは二人を包んでいた。
「命などでは足りない。名など取るに足らない。捧げるのはただ、……俺の時間だけだろう」
ぽつりと呟くように言うなりさっさと去っていく男の姿に、グロリアはただゆっくりと頭を下げた。
私、ではなく俺、と言った男の本音だ。
疑うような真似はすまいと彼女は思う。
少なくとも、妄執であれ何であれ、彼が王女を手放す事はないのだろう。
それが良い事か悪い事かと問われると返答に困るのは確かであるが、王女が個人として望むのであればそれは本人たちにとって幸せなのだから。
(……とはいえ、放っておいては攫いかねない)
そのような真似は決してさせるまいとグロリアは小さくため息を吐き出し、そして待っているであろう王女の元へと戻るのだった。