34.
ひんやりとした、だけど確かな熱を持った指先が私の頬にかすかに触れる。
まるで壊れ物を確かめるかのようなささやかな動きだけれど、私にはそれだけで十分だった。
触れられたことで、私は思わず顔を上げて目の前のレイジェスを見てしまった。
どうして、という思いに駆られたとも言えたしびっくりしたからとも言えた。
レイジェスの赤い目が、私を、真っ直ぐ見ている。
嗚呼、どのくらいぶりだったろう? こんなに真っ直ぐなのは。
そんな風に思ったけれど、そんなに前でもないとすぐに思い出した。
あの謀反の日、私を助け出してくれた瞬間。私の無事を確認するのに、少し乱暴なくらいの力で覗き込んできた時もそうだった。
婚約を申し出たレイジェスに、私が抗議した時も彼は私から目を逸らすことはなかった。
……その前までは、あんなにも視線が合わなかったのに。
私がいくら彼を見ようとも。
(咎めるように細められることも、不機嫌に逸らされることもあったはずなのだけれど)
今、目の前にいる男性の眼差し。その意味が、わからない。
レイジェスの眼差しは、たくさん見てきた。
老将軍に向けていた憧れを、動物たちに向ける柔らかいものを、マルヴィナに向けた眩しいものを見るものを。
訓練の時に浮かべた鋭い眼差しも、敵に向けた厳しい目も、みんな見てきた。
私に向けた冷たい、何の感情もない目も。
だというのに、今、目の前にいる人は、誰だろう?
全部知っているつもりで、勿論知らない彼のことの方が多いことも知っているつもりで。
つもりつもりでいたことは知っている。
だけど、この彼の眼差しは、知らない。
ああ、見なければ良かった。彼の視線を、こうして真っ向から受け止めるようなことになってしまうなんて。
外すこともできない、まるで私の奥底まで見透かされてしまいそうで、こんな、こんな、怖いのに。
怖いのに、赤い瞳が、すごく綺麗で。
まだ彼の背の向こう、大広間では人々が笑い踊っているというのに、その音が全部どこかに消えてしまって、その景色も遠のいてしまって、まるで目が離せない。
「レイ、ジェス?」
「月の女神、か」
「か、カイマール殿下はお上手、よ、ね」
「……お前は」
するり、と私の頬をレイジェスの指が滑るようにしてそのまま髪をとる。
その髪を指先で弄りながら、レイジェスはただ私を、見ていた。
「お前は、綺麗だ」
「……、えっ……」
「あの男がそう言ったから対抗してとかじゃ、ない。お前は、俺の言葉を疑っているだろう? ……それもこれも、俺が原因だとは、自覚している」
唸るように、そう告げる彼の言葉の意味が、私の頭では理解できない。
今、レイジェスは確かに言った。綺麗だと。
誰のことを? 私のことを。
衣服ではなくて? わからない。
「クリスティナ」
「……え、ええ」
「お前は、俺の、婚約者だ」
「……」
婚約者。
そう言われた途端、彼の言葉に動揺していた私の胸の内に、ひやりとしたものが生じた。
そう、婚約者。
私とレイジェスは、婚約者。
愛で結ばれたわけではない婚約。
名誉を守るための、政略。
「誰が、何を言おうとも」
そして、彼にとって何物にも代え難い、敬愛すべき老将軍の遺言。
私にどうしてそれを拒めるだろう?
彼を、好いている一人の女としてではなく。
王女として、責任ある立場として。守られてきた身として、何ができただろう?
レイジェスの言葉に、私は急激に押し潰されるような気持ちを堪えて彼の目から逃げるようにそっと目を閉じた。
そうするとまるで金縛りにあったみたいに動けなかった私の体はようやく自由を取り戻して、私は俯くこともできるようになった。
「クリスティナ」
「……わかっているわ、レイジェス。私は、貴方の婚約者。カイマール殿下にも、きちんとそう申し上げたの。ここでお会いしたのは本当に偶然だし、グロリアもそばにいた。だから誰かが誤解をするようなこともしていないし、褒められたことで照れてはしまったけれどそれで思いあがるようなこともない」
冷静に。そう、冷静に、穏やかに。
私は、この国の王女。淑女の中の淑女。
誰もが敬愛するこの国の王、その娘。
「ダンスは申し込まれたけれど、一度だけなら非礼にはならないと思うの。……そこまで下手でもないとは思うのだけど、レイジェスはどう思う?」
「お前のダンスは下手じゃない。……クリスティナ」
「大丈夫よ、レイジェス」
さあ、息を吸うの。
そして笑って見せなくちゃ。
私は、この国の、第二王女。
胸を張って、笑みを浮かべて、誰もが望むようなそんな王女の振る舞いを!
「……貴方が、マールヴァールの遺志を継いで私を守ろうとしてくれた。その気持ちを、私はむしろ感謝しなくてはいけないのよね」
「やはり聞いていたのか」
「私がいつも、隠れて泣いていたのを探してくれたのも、マールヴァールに言われたからなのでしょう? ……大丈夫よレイジェス」
「なにがだ」
私の言葉に、眉を顰めたレイジェス。
どうやって私を納得させようか、そんな風に思っているのかもしれない。
だけど、そう、大丈夫。
大丈夫なのよ? レイジェス。本当に。
「婚約者として、私は恥ずかしくない振る舞いで、貴方にとっても国にとっても尽くして見せるわ。もう私は『残念姫君』じゃ、ないもの」
「……お前はとうの昔に『残念姫君』なんてものじゃない」
「ええ、今の私は『ゼロの姫君』、ターミナルの頭脳。そんな大それた二つ名なんて、って前の私なら委縮してしまった。だけど、今の私はそうじゃないから安心して欲しいの。決してみんなを失望させない、立派な王女として振る舞ってみせるわ」
そう、まだ私に何ができるのか、そこが見えていないけれど。
少なくとも、こうして胸を張って前を見て、笑って見せることから始めようって決めて……それを、実践していこう。
多分今、ちゃんと笑えてる。
でもそれは私一人の力じゃなくて、グロリアだったり他のみんなのおかげでもあるんだなあ。
レイジェスを前に、こうして彼を見て微笑み浮かべる、そんな日が来るだなんて。
胸の内は、相変わらず苦しいけれど。それでも、耐えられない程じゃない、だなんて!
「いつか、……いつか、貴方がそんな風に言わなくて済むように。そうしてみせるから、どうかレイジェス、心配しないで」
「なんだと?」
「マールヴァールは私を守れと言ったのかもしれない。だけどそれは貴方の未来を犠牲にして成り立つものではないと思うの。私が私自身を守れるようになったなら、それはもう呪縛にしかならないでしょう? 私はこの国の王女として、『英雄』レイジェス・アルバ・ファールにそんな枷をつけたくない」
「……お前は、俺の話を、聞いているようで聞いていない。いつだってそうだ!」
「いつだって?」
レイジェスが苛立ったように放った言葉に私も思わず眉を顰めた。
いつだって、聞いているようで聞いていない。
それは、私に言っている?
「いつだって貴方は、私に何も言ってくれなかったでしょう?」
「言っている! いつだってお前は危なっかしかった!」
「そんなの知らない……!!」
レイジェスが私の否定に、ぎゅっと眉間に皺を寄せた。
ああ、怒らせたのかもしれない。
だって、そんなの知らない。
知らないのだもの。
いつだって私が知っているレイジェスは、私が遅いとか身の丈に合わない真似をするなとか、そんな言葉しかくれなかった。
そんな言葉から私が何を知ればいい? そう、私は分不相応なことをしていたんだろうなって思うだけだ。周囲にも言われて、レイジェスにも言われて、そう思って何がおかしいの。
それを今更咎めるの?
貴方が?
そう思ったら、私はおかしくなってしまった。
悲しくてたまらないのに、笑ってしまう。ああ、なんて滑稽なんだろう。
「……迷惑を、かけたりなんかしない」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題なの!?」
「お前は、俺の、婚約者だ。わかっているのか?――『婚約者』だ。俺とお前は結婚し、夫となり妻となる。その意味がお前にわからないはずが、ないだろう!」
知らず知らず、後ろに下がる。
その動きに合わせるように、レイジェスは私を追い詰める。
バルコニーの手摺りに、背中が触れた。
ああ、どうして?
どうして、この人は、いつだって私を追い詰めるの。
どうして私が出した提案で、納得してくれないの。
苦しくて、苦しくて。
視界が、涙でじわりと滲んだ。
お前らもう少し落ち着いてお話しようぜ、という作者です。




