32.
大広間は、正直広い。当たり前だけれど。
踊る人々とは別に歓談する人たち、端に用意されているテーブルやソファで寛いでいる人たち、バーカウンターのようなものもあるし軽食を摘まめるようにもなっている。
晩餐会で食事は済んでいるから、本当にお酒のおつまみとかそんな感じなのだけれどね。
グロリアの先導で歩く私に、人々が声を掛けてくれるのがなんとも不思議な気持ち。
今まで王女としても大して目立たなくて、みんなディアティナ姉様がいるとそちらに視線を向けていたからそういうものだと思っていたけれど……やっぱり、私自身が拒絶していたから周囲もそうだったのかもしれない。
とはいえ、今はレイジェスの所に行ってヴァッカス殿とお話したことを告げて、アニーの怪我が治る可能性があるかもしれない、ということだけでも伝えたい。
……伝えられたら、迷惑かもしれないけど。
一緒に喜んで欲しい、とまでは高望みしない。
(……伝えて、迷惑そうな顔したら、どうしよう)
いつだってそうだ。
子供の頃からレイジェスは、きっと私がお荷物だったんじゃないだろうか。
みんなで走り回る時も、私がいつも遅いから早くしろって怒ってたし。ぐずだとかのろまとかよく言われたなあ。
それを聞いたディアティナ姉様が怒ってまたレイジェスを追っかけて、……懐かしい。
お母様に新しい服をもらって、ディアティナ姉様とお揃いで嬉しくて見せたら似合わないって言われたり、姉様に連れられてお友達を紹介されたら金魚の糞は迷惑になるぞって言われたり、どうしても二人に追いつけない私にお前は平凡でしかないんだから追いつこうとするだけ無駄だって言われたり。
あれ? 思い出すと結構扱い雑……。
まああの頃の私も言われたらすぐ俯いちゃうし人見知りだったし、しょうがなかったのかなあ。さぞかしイラつかせたんだろうなあ。
『似合っている』
でも、今はどうなんだろう。
少なくともドレス姿を、褒めてくれた……んだよね? お世辞だとしても。
後で話をしようと言われて、ああ、どうしよう。何を言われるんだろう。
レイジェスを探して欲しいと言ったのは私なのに、段々と足取りが重くなる。
いいえ、大丈夫。
私は、レイジェスの、婚約者。
いつまでも別行動をしている方が不自然なの。今回は特に、周囲に対して婚約を発表したばかりなのだから。
ゼロの姫君と救国の英雄は仲睦まじい。
この国の王家と軍部は絆で結ばれている。
それを国内外に示すためにも、不審に思われる行動は避けなければならない。
……私情は、ともかく。
「あちらのお部屋にてシグルド様と今はご歓談のご様子にございます」
「兄様と、レイジェスが?」
まあ、おかしな話じゃない。
兄様とレイジェスは友人関係なのだし、将軍との話が終わって兄様が声を掛けたのかもしれない。
グロリアが指し示した小部屋は、王族の休憩に用意された場所。
どうしよう、邪魔になってしまうだろうか?
けれど、私が学者の所に行くと言っておいたのだから戻ったことは伝えるべきだろうし……別におかしな話じゃない。
中にいるのが王太子である兄様と親衛隊長であるレイジェスだからか、護衛の兵士たちが警戒を向けるのは周囲だけ。
それも、少しだけ距離をとっているのは王族への配慮、というやつらしくて私からすると不思議なのだけれど。護衛なのだから、もっと扉付近にいてもいいと思うのだけれどね。
あまり物々しくしてはお客様に失礼なのだとかなんとか……。
込み入ったお話をする場合は先程私が移動したように別室に行くから護衛も付いてくるっていう話らしい。
「……?」
中から、声が聞こえる。
いやまあ、そうなんだけど。
でもなんだか、ちょっと言い争っている……?
ノックをしても返事がなくて、私はちょっと躊躇ってから室内に足を踏み入れた。
「兄様、レイジェス――」
「クリスティナに対して態度を改めようと思わないのか!」
「俺はただ、マールヴァール将軍が望んだように彼女を守ろうとしているだけだ!」
「……」
私の名前。
マールヴァールの名前。
思わず、私は息をのんでただ二人を、見る。
怒る兄様、それに対抗するように鋭い声を上げたレイジェス。
(……マールヴァールが望んだから)
優しい老将軍の、願いだったから。
だから、私を守るの?
『そう、私は貴女の婚約者だ。……だから、貴女をお守りすると約束しよう。なにがあっても、誰からも』
あの言葉も。
それは、マールヴァールに、言われたから?
さっと目の前が暗くなる。
ああ、だめだ。レイジェスが、私を婚約者にしたのも何もかも、マールヴァールの願いをかなえるためだった?
いいえ、いいえ、そうじゃない。
この国を、この国を守るためにレイジェスは私が必要だった。
それとは別に、マールヴァールが哀れな妹姫を守るように、両親の想いを知っていた老将軍が託したのかもしれない。
それを両方合わせたならば、ああ、そうだ。
彼が私を娶るのは、なんら不自然なことじゃない。
だって嫌おうが何だろうが、そばに置いてしまえば守りを固めるのは簡単じゃないか。
体が、震える。
少なくとも彼が恥ずかしくないレディとして振る舞おう、そうして愛はなくとも少しずつ歩み寄れたら、なんて思っていた気持ちにひびが入ったのを自分でも感じ取る。
ああだめだ、ぐるぐる、する。気持ち悪い。
気持ちも目の前も、ぐるぐるとしていた。
苦しい、ああ、息をするのを忘れていたのかもしれない。
どうして、どうしてって。
どうして、いまさら、なんで。
そんな言葉がぐるりと私の中で渦巻いて、身の丈を知るべきだって、いつだったかレイジェスが私に向けて言ったことを思い出す。
あれは、ディアティナ姉様のデビュタントの時だった? 綺麗なドレスに、いつかは私も着てみたいと言った時だったかもしれない。
その時私も、姉様ほど美しくはないけれど……子供心に、憧れを持って彼にそれを告げていたんだと思う。
そんな私に、彼は身の丈を知るべきだって呆れたように言ったんだ。
今ならわかる。私みたいな、目立たない地味な、後ろ盾もない魔力もない、そんな王女が太陽の女神のようだって賞賛された姉様を真似ても、なんにも意味がないってことだって。
でも、あの時は傷ついて泣いてしまったっけ。
その時のことが、妙に今思い出された。
ああ、この場にいてはいけない。
この場にいては、私は、でも身体がすごく重くて、でもこれ以上ここにいたって私は傷つくだけなんだ。
引きずるように踵を返す。
音がしたことに二人が振り向いて驚いた顔をしているのが見えたら、急に怖くなった。
傷つくのが嫌だ、というよりも二人の会話を聞いてしまったという罪悪感と、彼らの目が私をどう捉えていたのかがとても、とても怖くなってしまった。
その場から逃げるように走り出してしまった私は、舞踏会の人々の目も怖い。
嗚呼、嗚呼、どこに行けばいいのだろう!
走り回れば悪目立ちすることは請け合いで、私の様子がおかしいと気が付いたグロリアに支えられてテラスの方へと移動した。
「大丈夫でございますか、なにかございましたか」
「グロリア……、グロリア、お願い。もし、兄様とレイジェスが私を探していても、今は、今は……いいえ、少しだけでいいから。少しだけでいいから、一人になりたいの」
「……クリスティナ様」
「お願い、グロリア……」
「かしこまりましてございます」
パーティ会場から見える場所で、テラスの要所要所には兵士の姿もある。
それを確認したグロリアが、私を椅子に座らせてくれた。
下がって扉から、兄様とレイジェスが来ないように見ていてくれるんだろう。
それに甘えることにして、私はぎゅぅ、と自分を抱きしめた。
ぐるぐるする気持ちが、溢れ出してしまいそうだ。
気を抜いたら意味のない叫び声をあげて、喉を掻きむしりたいくらいの衝動が私の中に渦巻いている。
どうして。
どうして。
どうして!
いいえ、どうしてなんてわかってる。
それは、私を守ろうとした結果。
今まで私が外を見ず、内にこもっていた結果。
(だけどマールヴァールが言ったから私を守るというならば)
きっとレイジェスは、それを任務の一つとして受け止めて全うするに違いない。
じゃあ私を妻として守るのは、彼にとってもう曲げられないことなのだ。
そのくらい、レイジェスがマールヴァールを尊敬していたことを私は知っている。
だとしたら?
だとしたら、レイジェスをどう幸せにしたらいい?
いつか彼が本当に好きな人に出会えたならば、その時は諦めてみせよう。祝福してみせよう。そんな理想は持っていた。
だけど、だけどこれじゃ。
どうしよう、何も考えられない。今は誰が来ても、笑顔なんて浮かべられる気がしない。
ああ、ああ、どうして私はこんなにも打たれ弱いのか!
ふと見上げた空には、大きな月があった。
月は煌々と輝いていて、太陽がディアティナ姉様ならば月がクリスティナ、なんて。
(そんな、のは、私は月にもなれない。こんなに美しく輝けない)
泣きそうな気持ちで、気が付かないうちに私は立ち上がって月に手を伸ばしていた。
気が付いて、引っ込める。まるで手に入らないとむずがる子供のようだって自分で恥ずかしくなった。
「――……驚いた。なんということだろう。こんなところに月の女神がいるだなんて!」