閑話 銀の髪はその証
王妃は、ただ王妃であればよいというものではない。
その務めの最たるは世継ぎを儲けることであり、王家の血筋、その直系を育み守るために時として己の腹を痛めた子以外を守らねばならない。
そして種を残すためならば、他の女たちに対しても寛容でなくばならない。
その上で後宮の主として君臨し、社交界を握り王の足元を盤石とする役割を担うのだ。
そんなことは知っている。頭で理解はできている。
泣きそうな気持ちをいつだって蓋をして、彼女は――キャサリンは、凛と立って見せていた。
今までも、これからも。
王妃キャサリンは聡明な女性であり、王妃となるべく教育を受けて育ってターミナルの貴族、侯爵家出身であった。
現国王と婚儀に至ったのも特別なドラマがあったわけではなく、純粋なる政治的戦略というものであった。
だが互いを偽ることなく、互いを支えて行こうと正式な婚約を経て二人は愛を育んだ。
そして一男一女を儲け、国母としての地位を揺るぎないものとする。
だが、二人の子を産んだキャサリンの体は負担が大きく、次の妊娠は望めぬものであろうと医師が告げた。すでに跡継ぎを生んでいるキャサリンの立場が揺るぐことはなかったが、それでも王の血筋はもっといて然るべきであろう、と多くの貴族たちが側室を召し上げることを国王に進言した。
それに対し本来ならば受け入れ、後宮の主として迎え入れるだけの寛容さを持つべきと学んでいたキャサリンであったが心情的に受け入れることができなかった。
「愛すべき人が、わたくし以外の女性に触れ、愛し、抱くというのですか。どうしてそれを受け入れねばならないのですか。ああ、ああ、立場こそが恨めしい」
嘆く彼女はそれでも諸侯の言葉を拒否できない。それが王妃という立場だからだ。貴族として生まれ、教育を受けた彼女にはそれが痛いほどに理解できていたからだ。
しかし身分ではなく愛し愛され夫婦となった今、夫が自分以外をということにこうまで心がかき乱されるとは彼女もわかっていなかった。覚悟できると思っていたからだ。
けれど、けれど、それはあくまで『王妃』としてであって、『妻』としてではなかったのだと痛感し彼女は心も体も摩耗していったのだ。
そんな彼女の様子に、国王である夫は「すでに世継ぎはいる以上必要以上に妻を娶るのは諸外国に対しても付け入る隙を与えるだけだ」と断ってくれていた。
それでも諸侯は諦めない。
キャサリンは、納得できない。納得できない自分が辛い。その繰り返しだった。
そんな彼女に、名乗りを上げた人物がいた。自分が国王の子供を産むから、心を痛めてくれるなと。
名もない侍女、その程度の存在。ただ唯一誇れるのは、キャサリンの乳母であった女性の娘、つまり乳兄弟。下級貴族の出身で、爵位などないほどに地位の低い娘であった。
普段のキャサリンであれば姉妹同然のその侍女の申し出を、未来を自分のために捨てることはないのだと笑い飛ばすこともできただろう。
だけれどその時の彼女は、その強さを持てなかった。他の女に嫉妬をするくらいならば、己の姉妹同然の存在の方がまだ互いに手を取り合っていくだけの余裕が生まれるかもしれない、と。そう考えてしまったのだ。
その結果、王女が生まれる。クリスティナと名付けられた、銀髪の赤ん坊。
王の血筋と王妃の心を守った侍女は、信頼はされても女性として愛され子を慈しむことなくこの世を去った。
この事実に、王妃キャサリンはただただ嘆く。
「ああ、どうして己はこんなにも心が弱かったのであろう」
国王は妻の嘆きを受け止めて、それでも愛する人はただ一人と言い切った。
差し出された乙女を抱いて、それが妻の妹同然の存在と聞いてもそこに感謝はあれども愛はなかった。
せめて、娘を愛していこう。
それが、国王夫妻が心に決めたことだった。
我が子同然に愛し、慈しむ。
だけれどその月光を集めたような銀の髪を見るたびに、そのあどけない面差しの中に残る彼女の姿に、キャサリンの心は罪悪感で苛まれる。
周囲は周囲で身分が低い娘が地位を狙って立候補した挙句に命を落としたのだから、きっとこれは分不相応の報いだなどと嗤うのだ。
それをどうして幼い娘に教えることができようか。
「許してちょうだいクリスティナ。お前の母親の真実を告げることは、お前の母親の名誉を傷つけるようで苦しかった。わたくしにとって大切な、妹同然だというのに守ってあげられなかった、むしろわたくしのせいで失ってしまった」
魔力がないと断ぜられた娘が、追いやられていく姿に憤慨しないわけがない。
妹のような存在が命を懸けて生んでくれた可愛い娘。自分のように政略結婚の材料にさせてなるものか、せめて幸せな生き方をと願っていたのにこの仕打ち。
神が与えた試練だというならば、一体愛娘にどれほど身勝手な期待を寄せていることか。
国王に向かい何度となくクリスティナに対し無礼を働くものを全て罰するべきだと訴えるキャサリンであったが、それが現実的でないことくらい彼女にもわかっていた。
「わたくしたちにできることは、ただお前を信じて待つことだと。親として、愛しているといつでもクリスティナを抱き留める準備をしておくことなのだと陛下にも諭されました」
「……お母様」
「何が完璧な王妃なものですか。こんなにもわたくしが弱く、そして何もできないがゆえに妹のようなあの子は愛される道を無くしたままに、いなくなってしまった。その血を繋ぐお前を愛していくと決めたというのに、王妃という身分と貴族社会の柵が邪魔をして堂々と抱きしめることすら許されない」
王妃の役目として地方の視察に出ているその時に起こった謀反。
知らされた時にはすでに遅く、急いで戻って何があったのかを事細かに聞いた時には意識が遠のくかと思ったものだ。
「クリスティナ、わたくしの可愛い娘。立派におなりだこと……わたくしよりも、ずっと立派よ。あの子もきっと喜んでくれることでしょう」
「お母様は、私のお母様でいてくださいますか?」
「勿論ですよ! ああ、けれど、けれど。わたくしが母で良いのかと、いつもいつも、思っていたのです」
いくら覚えていなかろうが、クリスティナの実母がこうなったのも己の弱さ故であると王妃はいつでも心を痛める。
それはいくら時間が経とうとも癒えぬ傷となっていた。
吐露することも許されず、抱えた時間が長すぎたのだ。
だけれど、謀反の一件を機に自らの殻に閉じこもっているばかりなのだと思っていたクリスティナと歩み寄る機会を得た王妃は、ようやくそれらの心を僅かずつ、娘に伝えることができたのだ。
「私にとってお母様は、本当のお母様と同じように大切な人です。本当のお母様について私が何も知らなかったのは、お母様が私たちを守ろうと思ってくれたのだと、今日お話を聞いて思いました」
「クリスティナ」
「私は未熟な娘です。ターミナル王家の末席として、相応しくないのかもしれません」
実母の身分は低く、魔力もないし武勇もない。
ただの市井の女として生きるならば、それでも十分愛されるであろう優しさを持って育った娘。
その優しさだけを、愛でるわけにはいかない『王妃』の立場が恨めしい。
そう思っても声に出せないキャサリンは、ぐっと唇を噛み締める。
王妃になれたからこそ、愛すべき人に会えた。
王妃になったからこそ、愛した妹を亡くした。
王妃という身分だから、娘を自由にできない。
様々な葛藤が渦巻く中で、キャサリンは躊躇いがちに手を伸ばす。
そっくりではない。けれども、やはり似ている。
クリスティナを抱きしめて、抱き返されて、許されたなどとは思わない。
許して欲しいとも思わない。
王妃として許されることではないのだろう、あらゆる意味で。
だけれど、それで良いのだとキャサリンは思うのだ。
「グロリア、どうかわたくしの娘を頼みます」
「かしこまりました、キャサリン様。どうかお任せくださいませ」
「本当に、本当に、お願いね?」
「大丈夫でございます。わたくしの他にも仕える者もおりますので、どうぞご心配なさいませんよう」
「……ええ、ええ、そうね。あの子は、あの子はこれからを生きていくのだものね」
クリスティナという娘が、生きていて。
王族として、これからも生きていき、そして己を母と呼んでくれるのだということは嬉しくも悲しくもあり、誇らしかった。
キャサリンは、思う。
重ねるわけではないけれど、今度こそは守っていこう。
姫として立派になりたいのだと言った娘を、王妃として守っていこう。
それが許される立場なのだから。
ようやく、この地位がただ重いものではなくなった、そう思える日が来たのだ。
それは、甘やかで、切なくて、ただただ愛しかったのだ。