17.
「兄様、お待たせいたしました」
「いいや、父上から聞いたけれど専属の侍女をつけるようになったんだね。……まさかグロリアとは思わなかったけれど」
「兄様は彼女をご存じだったのですか?」
「ああ、母上のお気に入りだ。……怒らせると怖いんだよ」
「シグルド様、何か仰いましたか」
「いや、なにも」
王妃付き侍女だったんだ……てっきり国王付きかと思っていたけれど。
どちらにせよ、とても優秀でなければ無理な話なのだから、きっとお父様たちは私の願いをきちんと受け止めて精査してくださったんだ。
少し、嬉しくなった。
「ところでクリスティナ、お前が練兵場に足を運ぶなんて珍しい。どうしたんだ? 僕に会いに来てくれたのかな?」
「あっ、いいえ……あの、兄様がこちらにいらっしゃることは知らなかったのです、すみません。後日お時間をいただきたいとは思っておりましたけれど」
「それは勿論! クリスティナのためならいくらでも時間を取ろう。なんなら今日これから――」
「王太子殿下、本日は訓練にご参加の後、陛下との謁見がお待ちでしょう。そろそろお時間のはずですが」
「くっ、少しくらいいいじゃないかレイジェス……!!」
「なりません」
「……仕方がない、僕も王太子として勤めを果たそう。クリスティナ、いつでも良いから僕に会いたいときは直ぐに知らせておくれ。なるべくすぐに空けるからね」
「ありがとうございます、兄様」
「それじゃあ僕は行くけれど、レイジェス。……あまり、困らせてくれるなよ」
兄様はレイジェスにそう告げると、私の頭をそっと撫でて行ってしまった。
二人は、マールヴァールの元で学んだ兄弟のようなものだってそういえば言っていたっけ……兄様を見送って、ふっと視線を戻して私は慌ててその視線を足元に落とした。
だって、レイジェスの目が、こっちを見ていたから。
それも、絶対……あれは不機嫌だ!
(いや、見つかった段階であのしかめっ面だったんだもの、わかってたけど……!!)
「……本日のご用向きはどういったものでございましょうか、王女殿下」
「い、いえ……」
冷たいまなざしと、その声に。
ぎゅぅっと心臓が、掴まれたような気がした。
ああ、だめだ、こんなんじゃ、早く、早くごめんなさいって謝って、すぐにでも部屋に戻らないと――
「おいおい、隊長。折角王女殿下が、婚約者の雄姿を眺めに来てくれたんだろう? もう少し愛想良く振舞えないのか?」
「……ドラグノフ」
「クリスティナ王女殿下、お久しゅうございます。かの一件以来でございますな」
ひゅっと喉を、空気が通ったような気がする。
ああ、私ったら。またいつもの『残念姫君』に戻ってしまうところだった!!
レイジェスの視線と声に、過剰に反応してしまったと反省するのは後でもできる。
今は、そう今は私は、彼らの前で醜態を晒すわけにはいかない……!
「ジェリック・ドラグノフ。お久しぶりですね。お元気そうで何よりです」
「お優しいお言葉、この老骨には何よりもありがたく。……グロリアは、よく仕えておりますかな?」
「とても頼りにしているわ! ……グロリアを通じてお礼を言ったけれど、あの日の夜、本当に感謝しています。貴方たち夫妻に支えてもらえて、私は幸せ者ですね」
「それは良かった、身に余る光栄でございますが我ら共に王国に忠誠を誓う身でございますれば、王女殿下のお心に添えるよう今後とも精進いたしたく思います」
あの日よりも和らいだ表情で話しかけてきてくれたジェリック・ドラグノフは、きっと……私とレイジェスの間で流れた、この変な空気を払拭しようと気を使ってくれたんだわ。
私の後ろでグロリアが溜息をついた気がするけれど、私に対してじゃないと思いたい。
いや、明らかに私が逃げようとしたのも、委縮したのもバレてるよね。
レイジェスにも、みんなにも。
(どうしよう、またがっかりされたら……!)
「それで、本日はどのようなご理由でこちらに? うちの隊を見に来てくれたのならば若い連中が喜びますな。なにせ『ゼロ姫』の異名を持ったクリスティナ王女殿下は、我らの勝利の女神でございますから」
「……え?」
勝利の女神、と言ったのか。
彼の言葉に思わず顔をあげると、レイジェスがまた眉間に皺を寄せている姿も見えたのと同時にジェリックが優しい笑みを浮かべている姿があって。
そしてその後方、親衛隊の人たちが私の方を見ていて……私が、思っていたよりも、友好的なまなざし……?
(私がまた勝手に、勘違いしていたの?)
いいえ、だって。
でも、そうかもしれない。
私の中で納得するには少しばかり複雑な感情がせめぎ合う中、ようやく少しだけ、本当に僅かで小さな余裕が生まれて。
「あの、……レイジェス」
「……なんでしょう」
「お、お父様から私の護衛武官の話が来ていると思うのだけれど……」
「はい」
「……忙しいところに、お願いするのは、心苦しいのだけど。よろしく、お願いします……」
「……」
うぅ、どんどんと語尾に向けて声が小さくなってしまう……!!
視線も、レイジェスと合わせていられなくて、ついつい右に左に逸らしてしまうし。
それでも、うん。なんとか俯くことなく、言えた。
ついほっとして息を吐き出したけど、そんな大げさじゃないからきっと誰も気づいてないと思うんだ。
ちゃんと、……できたかな。
「……俺が、守ると……」
「えっ?」
「いや。確かに、承りました。ちょうど適任者に心当たりがございますので、近日中に向かわせることといたします」
「ありがとう、レイジェス! ……あっ、えっと……。忙しいのに、こうして、時間を割いていただきありがとうございました」
「いえ」
「……ファール隊長と、呼んだ方が、やはりいいですか?」
レイジェスは名前を呼べとは言ってくれたけど。
婚約者だからってあんまり名前を連呼するのも嬉しくないかもしれないし……他の、特に部下の前では嫌かもしれない。
そう思ったんだけど、余計にしかめっ面になったレイジェスに、私は質問したことを後悔した。あの眉間の皺! コイン挟めるよ絶対……!!
「名前で呼んで欲しいと、お伝えしたはずですが」
「えっ、いえ、あの」
「……後ほど、お部屋に伺います。我々はやはりまだ話し合いが必要なようです」
「いえ! レイジェス、貴方はお役目があってお忙しいでしょうから!! 大丈夫です。私も婚約者としての立ち居振る舞いで少し考えていただけで……ごめんなさい、忙しいところを。私たちはもう行くから訓練を続けてください」
これ以上心臓に悪いのはちょっとまだ無理……!
レイジェスに会いに来たっていうだけで、私の中では大進歩なんだから!!
そのまま早くここを立ち去りたいと思ったけれど、レイジェスの向こう側にいる訓練中だった親衛隊の人たちに視線が行った。
彼らは私たちが到着した時には姿勢を正し、綺麗に整列していたから早く訓練を再開したいのかもしれない。
私たちのやり取りを、どこまで聴き取っていたのかとか見ていたのかとかはよくわからないけれど、このまま邪魔をするだけして去るというのは良い王女のすることだろうか?
(……挨拶、しなきゃ)
じゃあどうすれば良い王女なのか。
色々な考えが一瞬で頭を過ったけれど、私の中で“立派な王女”はやはりディアティナ姉様だった。
「……訓練を邪魔して申し訳ありません。親衛隊のみながいてくれるおかげで、陛下も心強いと常日頃から申しておられました。私からの感謝では、とても足りませんが……これからもどうぞ、ターミナルを守る兵として努めてくださいますよう」
本音を、王女らしさに乗せて。
どうか、お父様たちを守ってくれて、生き残れる、そんな強さを持っている親衛隊であって欲しい。
私には、どう願っても手に入らない、強い力を持つ人たちに。
その気持ちを込めて、淑女の礼を小さく一つ。
「グロリア、行きましょう」
「かしこまりました、クリスティナ様」
ああ、でも本当に、本当に!
ちょっと出てみるつもりが、大冒険になった……!!
その後急いで自分の部屋に戻った私に、グロリアがそっとお茶を淹れてくれたのを飲み干す。
ちょっと無理をしていたとグロリアは気づいていたはずだけど、何も言わないでいてくれた。
……まだまだ、私は頑張らなくっちゃ駄目だなぁ……!