99.
「クリスティナ様、準備がすべて整いましてございます」
その声に、私は閉じた目をあけて、ゆっくりと前を見る。
ああ、とうとう、この日が来たのだ。
そう思うと鏡の自分が見慣れない。
「……グロリア……」
「緊張しておられますか?」
グロリアに問われて、私は何も返せない。
それが答えだとわかっているのだろう、グロリアが優しく笑った。
「一生にそう何度とない慶事にございますから、当然のことだと思います」
「グロリアも、そうだった?」
「はい」
今日は、私とレイジェスの結婚式なのだと思うと緊張してどうしようもなかった。
王族からの降嫁ということで準備には当然時間がかかったものであったし、レイジェスも外戚となるのだから色々とすり寄ってくる人が増えて大変な日々だった。
それらに対応してくれるグロリアは、今後も私の侍女として仕えてくれるというから夫婦ともにお世話になりますと思わず頭を下げて叱られたものだ。
私は、私の王位継承権を放棄する宣言を出したり、王女としていられる間にできることを、兄様の協力を得て少しずつ広げ、今では国全体に青空教室から始まる教育への意識を人々に理解してもらえるようになった。
まだ、これは始まりなのだと思う。
それでも、人々の可能性を広げ、選択肢を広げ、新しい考えを導く人物がいつか現れたら良いなと願う。
(私たち王族が、より良い暮らしを目指して治世を続けていくのと同じように)
人々の、目を背けていた感覚を、正していけるように。
魔力のない人間が、権力が、ありとあらゆるものが互いをつぶし合うのではなく生かし合う世界にする為に。
それは、途方もない問題で、私なんて解決の糸口一つ、見つけられないままだ。
結果、誰かが見つけてくれたらいいなと思うから、その『誰か』が学びの機会を失して現れないなんてオチにならないようにしただけだ。
「さあ、参りましょう」
「……ええ」
ゼロ姫なんて大層な呼び名は、今やターミナル国内だけでなく世界各国に広まった。
曰く、知性を隠し各国の陰謀を見張る頭脳である。
曰く、月の女神と呼ばれるがゆえに王宮という雲に隠れている。
曰く、傷を隠しもしない強き心の女性であり、軍人たちの憧れである。
曰く、なにも持たぬ者の味方である……なんて。
まったくもって、誤解も良いところじゃないかなと思うけれど、独り歩きし始めた噂を止める術はない。
増してや、良い噂ばかりなのだから潰す必要もないだろうというのが兄様の見解だった。
「きっとその装いを目にしたファール隊長、大喜びしますよ」
立ち上がった私のために、ドアを開けるラニーが笑う。
結婚しても私には護衛武官が必要だと志願してくれた。
「そうかしら」
「当然、です」
サーラがつんと澄ましながら私を見て嬉しそうに笑う。
残念ながら、彼女は私の侍女を辞めることになっている。
なんとヴァッカスといつの間にか恋仲になったから、今後は彼の研究について行くんだそうだ。
なんでも放っておいたら彼は簡単に死にそうだから、と……。
それでも私に呼ばれたならいつでも戻るからと約束してくれた。
「く、クリスティナ様、お、お綺麗、です……!!」
キャーラは私について来てくれると言ってくれた。
秘密にしているようだけれど、ヴァッカスの兄であるサッカスが彼女を口説きに来ているのでいつかはカエルムに行ってしまうのかもと思うと寂しいけれど、今はそれでもいいかなって思う。
ウェディングドレスは、ヴィンスが作り上げた最高傑作だという。
このドレスが完成したときに、彼は工房を弟子に譲って引退を決めてしまった。
ヴェールはアルガンシアが作ったものだという。
今後も私に仕えたいと平伏してきたときには驚いた。
彼らは部屋の片隅で、自分たちの作品を着る私を見て涙ぐんでいた。
「……」
廊下で膝をついているアノスに目をやる。
彼は、下を向いたままだった。
私の奴隷という身分だから、当然私にそのまま仕えることになる彼に、私はこの良き日になんと声をかけるべきなのか。
「アノス」
「……」
「聖堂まで、ベールをお前が持ってください」
「!?」
長い長いベールはレースで出来ているとはいえ、それなりの厚さを持っているから私の表情は彼には見えないのだろう。
本来神聖なる花嫁の衣装の一部、それを奴隷が持つなんてマギーアでは考えられないに違いない。
「……私には、奴隷を解放する方法はわからないけれど、貴方を軽んじるつもりはないのです」
ただ、私に仕えざるをえなかった経緯があるとしても、私は私に仕える者を大切にしたい。甘いと言われようが何だろうが、レイジェスに叱られようが、そこは変えるつもりはない。
王城ではなく大聖堂、それは私が一人の貴族になるからであり、多くの民の前に出るためでもある。
だから聖堂の内部で私は身支度をしていたわけだけれど、それでも破格の扱いなことは自覚している。
(この扉の先に、レイジェスがいる)
私の夫、配偶者、大好きな人。
恋焦がれて、諦めれずに幸せにしたいと思った人。
「それではクリスティナ様、わたくしどもはこれより先、足を踏み入れることができません」
「……ええ。アノス、ありがとう」
「……」
扉が開かれて、聖堂の中に導かれる。
お父さまやお兄さまがいて、各国からの客人がいて。
その中には姉様の姿もあって、私の姿を見て泣いているのが見えた。
それから国内の貴族たちがいて。
ああ、と私の口からため息にも似た声が小さく漏れた。
(間違いなく、これは現実なんだわ)
幸せな結婚をするなんて、なんて不思議なのだろう!
「クリスティナ」
扉の先で待っていたレイジェスが、私の名を呼んだ。
この国の作法に則って、花嫁の手を引く。
だけれど、彼の目は驚きに満ちていた。
「……想像以上に、綺麗だ」
「まあ」
礼装とはいえ軍服姿のレイジェス。
私に対して素直な賛辞をする彼に、思わず笑ってしまった。
「このまま私の手を引いて、あの祭壇で誓いの言葉を発したならばもう後戻りはできないわ」
「……望むところだ」
夫婦になる者が誓いの言葉を述べると、祭祀が魔法を唱えて誓約と成る。
それを参列者が証人となって晴れて夫婦となるのだけれど。
「レイジェス」
「なんだ」
「幸せ」
「……そうか」
小さな声で先に告げておく。
これからだって、たくさんの幸せがあるに違いない。
だけれど、今ドレスを身に纏い、愛する人に支えられ、妻となるこの瞬間。
それは、今この瞬間の、幸せだから。
ちゃんと伝えておきたかった。
(そして、これからも伝えていこう)
思えば、私は不幸な方だった。けれどその中でも恵まれていた。
残念、なんて呼ばせてしまうことが残念なのだと知って抗った結果、自分に足りないものがあまりにも多いことを知った。
それでも、それ故に私を支えてくれる人々との縁をこれ以上ない幸せだと思った。
(そう、私は――幸せだわ)
そしてこれから、もっと幸せになるに違いない。
この人の隣で。
「これより、ターミナル王国第二王女クリスティナ殿下と親衛隊隊長であり国の英雄と認められたレイジェス・アルバ・ファールとの神聖なる婚姻の儀を執り行う。異議ある者は手を上げ神に宣誓をした後、意見を述べよ――」
鐘が鳴る。
朗々と響く祭祀の声に、異議を唱える者はいない。
粛々と続く儀式はとてもじゃないけれど面倒なことが多くて参ってしまうし、この後だって客人へのご挨拶だのなんだのとゆっくり感傷に浸る時間もないのだろうけれど。
それでも、やっぱり。
(私は、幸せなんだ)