閑話 つきのひかり
アノス。
伝説に出てくる人間の名前。
だがそれは英雄の名前ではないし、その英雄を救う名前ではない。
ただの、愚か者の名前。
それをわたしに与えた王女の眼差しが、慈愛に満ちていることに吐き気に似たなにかを覚える。
ああ、ああ、数ある名前からどうしてそのようなものをつけたのか!
罵ることも悪態をつくことも、声を奪われた今できない。
ただそれではないほかのなにかに変えてくれと願いを込めて、新たに主となった女性を見るしかできない。
だけれどそれは微笑みで一蹴された。
ああ、ああ、彼女を守るように側に控える侍女たちのような蔑みの目だったら、どれほどに楽だっただろうか!
彼女たちが言うようにまぬけでもいぬっころでも、侮蔑を込めた意味で名をつけてくれたなら、どれほどわたしが救われたか!!
わたしだって、知らぬわけではない。
マギーアとこの国で、月の意味が違うように。
あの伝説も、登場人物も同じでも意味がまるで変わってくるということくらい知っている。
それでもわたしにとって『アノス』は愚か者だ。
故国への忠誠よりも個人への忠誠と情愛を取った挙句に何もできなかった愚か者だ。
ああ、ああ、わかっている。わかっているとも。
それは本当に、まさに、わたしそのものじゃないか!!
それを揶揄してつけたというのか、それを教訓とせよというのか、枷として持つのが罰だというのか。
「アノス」
侍女の一人がわたしを呼ぶ。呼ばれたくない名ではあるが、それがわたしであると理解していないわけではないから、顔を上げないわけにはいかなかった。
「わたくしの名はグロリア、クリスティナ様にお仕えする者たちの統括と考えていただければよろしい」
そんなこと、知っている。
だけれど、わたしは知らない。奴隷なのだから。
かつての名を持っていた時に、王女のことは調べてあった。
母国の貴族たちが悪戯に仕掛けた内乱の種が芽吹いた後、それを内側から収めたのは無能なる姫と囁かれていた少女と知り、密偵を放ったのはそう昔の話ではない。
それまでまるで注目されない彼女は、ただただ穏やかで物静かで、虐げられても俯いてばかりで、本を読んで過ごすような憐れな少女だとわたしは思っていた。
きっと、それは間違いではなかったと思う。
実際に目の前にした王女は、いつだって倒れてしまわないのかとこちらが心配してしまいそうなほどに細く、頼りない。
こんな存在が孤独に、虐げられていたのかと思うとターミナルという国の、魔力至上主義というのは恐ろしいものだと思ったものだ。
魔法を使うマギーアと、魔力を使うターミナル。
似て異なる国のありようで、彼女はマギーアであれば幸せだったろうと思う。
大人しく、夫に付き従うことが望ましいとされる風習もあるからきっと彼女がマギーアの民であれば引く手数多で、手にした男は溺愛し真綿でくるむように慈しむに違いないと思ったものだ。
けれど、主に付き従いやってきたこの国で見かけた彼女はその印象そのままに、ああ、ああ、わたしは間違っていたのだと知る。
(民を想い、身を削る、それができる女性だった)
それは王と同じもの。王と同じ孤独を知る者。
ああ、この人が主の妃となってくれたならば、どれほど国は栄えるであろう。どれほど民が熱狂するであろう。
黒い時代を終えて白き月が新しい時代をもたらし照らすのだとわたしは信じていたのだ!
けれど、主に言われたのはただひとつ。
『お前は、間違えたんだよ』
そうしてすべてを失った。
わたしが持つものは、もう自由の利かないわたしの身体ただ一つ。
「あなたの経歴をクリスティナ様はお赦しになられるでしょう」
「……!?」
「お立ちなさい。あなたのための服を用意させましょう。ターミナルのデザインを基調に、マギーアが恋しければそれも要素として加えてくれるでしょう」
「……」
「彼らはクリスティナ様が望まれるのであれば、叶えてくれます。そしてあなたが望むのであれば、クリスティナ様が叶えてくださいます」
穏やかな月の光は、万人に降り注ぐ。
白い月が、わたしは好きだった。
新しい何かが始まるのだと、いつも白い月を見上げては思ったのだ。
太陽のように輝く主を支えたかった。
その傍らには、白き月のようなひとこそが相応しいと思ったのだ。
「さあアノス、行きましょう」
傷だらけになってなお輝きを失わない、それがわたしの新しい主。
太陽をより輝かせようとして失った愚か者を受け入れた白い月。
「クリスティナ様の従僕として、相応しい姿になりなさい。あなたの新しい姿を見れば、あの方はまた微笑んでくださるでしょう」
ああ、そうだ。
わたしは王女の笑みを見ていない。
くたびれたように、困ったように、誤魔化すように。
そんな風に笑うあの人は、ここではきっと違う笑みを見せるに違いない。
月が、次々と姿を変えるのと同じだ。
愚かな男にも降り注ぐ月光と同じように、わたしにあの方は微笑むのだろうか。
義務ではなく、信頼される従僕として。
ああ、縋るものがないと立ってもいられないほどに弱ったわたしが、主に見捨てられたわたしが、裏切って裏切られたわたしが。
(愚か者のアノスを、あの方は受け入れてくださるというのか)
矜持も、守るべきものも、心の支えにしていたものも、己が研鑽し積み上げてきたものすべてが『間違えた』ことによって失われた。
自分でありながら自分の物にならない、わたしはそれでも地べたに這いつくばってでも生きたいと願ってしまった。
潔くなど言葉にもならなかった。
だって見たかったのだ。
あの方が玉座に着き、その太陽の輝きを放つところを。できれば間近で、己が支えた御方なのだと誇りを抱いて、共に故国を見渡したかった。
だけれどそれが果たせぬ夢だというならば、せめて、せめて、あの方の治世をこの目にこの耳に、脳内に焼き付けたいと願ったのだ。
そのためならば、虫けらにだってなろうと決めた。
(ああ、ああ、それなのに)
詰ってくれればよかった、悪態をついてくれればよかった、それならばわたしは変わらずわたしのままでいられたであろうに。
慈愛の心を示されて、温かい想いを向けられて、腐って落ちたわたしの心がまるでそれを待っていたかのように求めてしまうのはどうしてだ。
「さあ、アノス」
促されるままに立ち上がる。
今のわたしにはそれ以外道はない。
心が誰かに縋りたいのは、ただの弱さなのかそれとも別の理由なのか。
じゃらりと手首につけられた枷が、重く重く罪を示す。
呼ばれる名前に、心が沈む。
アノス、アノス。
それがわたしに与えられた、新しい名前。新しい生き方。
忠義な愚か者である過去があるのならば、愚かな忠義者として新たに生きよと言われることに、いつかは心動かされるのであろうか。
魔法も使えず、手枷を嵌められ、声もない。
ああ、愚かなアノスには、あの物語のように誰かを庇うくらいしかできないだろう。
そしてそんな機会が二度とあるようには思えない。
(だとすれば、わたしはどうすればよいのだろう)
遠くに太陽を見上げて、呼ばれるままに足を引きずるようにして歩く。
明るい外の日差しに反し、心の中は、いまだ闇に包まれているようだ。
だけれど、そう。
ふと見上げた窓に、白い月がいたから。
こちらをどこか心配そうに見やる彼女が、暗闇の中で救いの月光になるのだろうか、だなんて。
(わたしの思い上がりだ)
この身勝手で、傷つけてしまった人よ。
この身をもって庇うことすら許されないであろう人よ。
いつか太陽があの国を照らす中、月が許してくれるなら――かの地を闇夜の一瞬で構わない。
淡き光で、照らしてほしい。
心から、そう、願った。