94.
カイマール殿下が私の元を訪れた翌日、今度はディミトリエ皇子が現れた。
警戒心を強めるサーラとキャーラを宥め、私は彼を出迎える。
柔和な笑みをそのままに、どこか仮面の一つを捨てたような印象を受けた。
「ようこそ、ディミトリエ皇子。お見苦しい姿で申し訳ございません」
「いいえ、療養中だというのにお時間をいただけて嬉しい限りです。……この度は、私の従者が大変失礼をいたしました。いえ、元従者、ですね」
「……」
「今日ここに来たのはほかでもありません。貴女が知りたいであろうことを、お伝えしようかなと思ったんです」
「……私が、知りたいことを?」
「ええ」
笑みを深めた彼の姿は、どこか泰然としていて恐ろしい。
私はそれでもその恐怖を見せないようにして彼の言葉の続きを待った。
「貴女を巻き込むつもりはなかった。まずそれが私の意志ではなかったということは、申し上げておく」
はっきりと告げられた内容に、はいそうですかと私は答えない。
だけれどそうだろうなとは思った。
あれは、ハリルの独断だった。
動かないディミトリエ皇子に焦れた結果、こういうことになった。それだけの話なんだろうと思う。
それだけというのもおかしな話なんだけれど。
「ターミナルに留学すれば、兄上たちがなにかを仕掛けてくることはわかっていたよ。それが私に対しての暗殺であれば、私にも大義名分ができるという考えだったのだけれどね」
大国ターミナルに身を寄せたディミトリエ皇子は、母国に残る皇子たちからすれば目の上のタンコブだった。
血筋の面と、後ろ盾。この二つで彼らは勝っていても、民心は手に入らなかった。
手持ちの駒で勝負するには、同等の状況にある同士で戦えばディミトリエ皇子に漁夫の利となりえたし、かといって放っておいて民が彼を祭り上げることも良しとはできない。
だからこそ、ディミトリエ皇子はさっさとマギーアから国外へと脱出した。
少なくとも、国内で暗殺騒ぎになるよりもずっと有利にことが運べるから。
「……随分と、考えておいででしたのね」
「ええ。私も玉座を諦めたことはないんですよ。衰退の一途を辿ると言われる我が国ですが、それは統治者の力不足だ。……私ならば何かができると大言壮語を吐くつもりはありませんがね」
自嘲気味に笑うディミトリエ皇子は、どこか疲れた様子だ。
それは勿論、あの件で随分咎められたことに違いない。私が無事に救出されたとはいえ、こんな大怪我を負ってしまったのだから。
「貴女に傷を負わせたのだから責任を取るべきだという声があがったことは耳にしましたか?」
「……いいえ」
ああ、でもやっぱり。
そう思った。
そういう意見は、少なからず出るだろうなって予想はしていたからショックとかは、なかった。
(それに、私には婚約者がいるのだし)
妻に娶れという意味合いでいう人もいれば、皇位継承権争いを勝ち抜いてターミナルの国益になるよう賠償金を支払えという考えの人もいるのだろう。
流石に恭順しろ、なんてことを言い出す非常識な臣民はいないと信じたい。
「それらを受けて、ターミナル国王と話をした結果」
「……」
「皇位継承争いに終止符を打ち、改めてターミナル王国より公爵家令嬢マルヴィナ殿を妻に迎えるという形に決まりましたよ」
「えっ」
マルヴィナ? まさかそんな。
だって叔父上はマルヴィナは皇妃には向かない性質だと反対意見だったはず。
勿論、それらが押し切られた可能性はあるけれど、それでも無理に嫁がせなくても今回彼は我が国に対して譲歩せざる得ない状況なのだから……。
驚く私をよそに、彼はおかしそうに笑った。
「そう、賠償金で済ませても良いのです。マギーアが秘匿していた魔法に関しての情報でも十分貴女への慰謝料となる」
そうだ、その通りだ。
わざわざ責任をどうの、なんて理由で他国から皇妃を迎え入れて干渉を受け入れるなど、皇位継承権争いで疲弊した国には歓迎できない話のはずだ。
(いいえ、それとも疲弊しているからこそ?)
ターミナルの支援を期待しているという意味なのか。
そう探るように彼を見れば、ディミトリエ皇子は肩を竦めた。
「貴女を妻にという声もありましたけれどね。私は王の資質を持つ女性を妻に迎える気はないんですよ。孤独を互いに理解できたとしても、疲れる相手ですからね」
「え?」
「今だってそうだ、貴女は私のやりようが国にとってどのような影響を持つのか、それを知ろうとしている。相棒としてはとても心強いでしょうね、きっと」
「……」
「だからこそ、私は妻にそれを求めない」
目を瞬かせる私に、彼は笑った。
その笑顔は、年相応の青年の笑顔で、だけれどその目は王族のそれだった。
「貴女は穏やかで理知的で、共に歩むに素晴らしい女性なのだろうと思うよ。だからこそハリルたちは母国の兄にそれを伝え誘拐なんて乱暴な手に出たのだろうからね」
「ディミトリエ皇子……?」
「まあ、兄上たちには貴女の価値はターミナルの王女という地位しか見えていなかったかもしれないけれど」
私に、他の価値がある。
そう言いたげな彼の言葉に、私はなんとも言えない顔をするしかできない。
だって私は、まだ何も成し遂げていない。
「貴女が満点の皇妃だとすれば、マルヴィナ殿は及第点の皇妃だろうね。だが彼女の心映えはきっと私の心を温めてくれると思うよ」
「いつの間に、マルヴィナと親しくなられたのです?」
「王城内で何度か顔を合わせる機会があってね。まあ彼女の気持ちがこちらを向いていないことは承知の上さ」
「……」
「近日中に、ここを発つ」
ディミトリエ皇子はそういうと、席を立つ。
その宣言は、マギーアに戻るということなのだろうとすぐに理解できた。
彼の部下を篭絡し、ターミナルの第二王女を拉致しようとした王子がどちらかわからないから戦争を止めるためにも両方捕縛する。
大義名分は、今、ディミトリエ皇子にあるのだ。
私は良いようにやはり駒として扱われたんだなあと思うと少しばかり悔しいけれど、物事はこれで丸く収まったということなのかもしれなかった。
「そうそう、今回のお詫びを個人的にしたいと思って。国と国でのお詫びはそのうちね」
「え?」
「マギーアでは今も奴隷制度があるって知っている? その奴隷を貴女に一人、譲ろうと思ってね」
「私は、奴隷は……」
すっと彼が窓の外を示す。
そこには一人の鎖につながれた青年の姿があった。
(ハリル)
目立った傷はないし、俯き気味のその姿はあの日、記憶にある彼に比べれば随分と痩せているようだ。
私の視線に気が付いたのか、ハリルは泣きそうな顔をして、それから顔を背けた。
「あれは名もなき奴隷。魔力もあるしお役に立つことをお約束しよう。勿論、奴隷の制約という魔法をもって貴女に従うようすでに手配済みだ」
「ディミトリエ皇子」
「……今回の犯人である首謀者の男は自害し、誰の手の者かは不明になった。その男に従っていた私の従者たちは、首謀者に従うよう故国の長老に言われただけで何も知らない」
「ディミトリエ皇子!」
「兄は部族の責任ある立場として、私が罪人として連れ戻し説得に当たらせ、それでも従わぬなら……その時は、実力行使も辞さないつもりだ」
どうしてこの人は、こんなにも淡々と話すのだろう。
こんなにも辛そうな眼差しでハリルを見つめながら。
「弟の方は残念ながら死亡した。……マギーアに遺体を連れ帰るには無理があるので、ターミナルの共同墓地にその名を刻んだ」
彼は、自由だ。
そう言葉にならない声が聞こえる。
ディミトリエ皇子を神聖視していたハリルを、彼はどんな風に見ていたのだろう。
少なくとも、自由にしてあげたいと思う程度には大事にしていたのだろうか?
私には、わからない。
それが、本当に『自由』なのか。
私が受け取るかどうかを言葉にするよりも前に、ディミトリエ皇子は背を向けた。
「あの奴隷に関しては、貴女のお好きになさるがいい。わが国ではもはや手放したものだから」
その背も声も、決然としていた。
ただ私は、それを見送るしかできなかった。