93.
あの誘拐事件からさらに数日経って、私はようやく部屋の中を歩けるようになった。
思った以上に怪我は重く、グロリアを始めとした侍女たちは私のことを本当に壊れ物のように扱うものだから参ってしまったのは内緒だ。
ラニーでさえも私の姿を見るたびに泣きそうな顔をするものだから、逆にいたたまれないっていうか。
それでもそんな彼女たちも少しずつ落ち着いてくれたのか、室内であれば活動しても良いと医師から許可が下りた時にはいつものようにお茶を用意してくれたり、外の話をしてくれる。
(……でも、レイジェスは来ない)
勿論、残務処理なのだってことは理解している。そう簡単な問題じゃない以上、顔を見せるのだって惜しいのかもしれない。
(それとも傷だらけの私がいやになってしまった?)
悪い考えが、ちらりと頭を掠めてしまう。
そんなことはない、レイジェスはそんなことを言わない。
だけど、じゃあどうして?
(そんな風に考えが悪い方向に向かうのは、きっと暇を持て余しているせいだわ)
兄様がお見舞いだと来てくれた際に、ベッドに横になっているだけでは退屈だろうから簡単な政務をやるかと聞いてくれたのだけれど、グロリアと医師に叱られてしまったものね。
でも兄様の仰る通り、退屈……とは違うけれど、少し別のことに意識を向けたいのは正直、ある。
(ディミトリエ皇子はどうするのだろう。カイマール殿下も、……キャンペスも、この事態をどう捉えているのかしら)
クリスティナはただの駒に過ぎないけれど、私がきっかけで起きたこの騒動は、きっと大陸の歴史の一つに大きく関わっているのだと思う。
不名誉だとは思うけれど。
「く、クリスティナ様、お、お客様です」
「まあ。どなた?」
「カ、カ、カイマール殿下が、お、お越し、です」
「……カイマール殿下が」
「な、なんでも、帰国、なさる、ん、だそうで……」
それまでのらりくらりと帰国せずにいた方が、急に来るだなんて。
本来であればご挨拶を受けるべきだろうけれど、この包帯だらけの姿で人前に出るのは失礼にあたらないだろうか。
お客様をおもてなしできる状態にないことはあちらも承知の上で来られているのだろうけれど、少しだけ躊躇った。
だけど、私は……知りたくもあった。
「応接室へ」
「か、か、かしこまり、ました」
「グロリア」
「はい」
「……着替えるのは傷に障るから、上に羽織るものを」
「かしこまりました」
本当は着替えたかったけれど、室内を自由に歩き回っても良いと言われただけで傷が塞がったわけではない。
お客様を出迎えるような衣服は、傷に優しくないことくらい私だって知っている。見栄をはらねばならない場面ではそんなことも言っていられないだろうけれど、今はそうじゃないと思った。
グロリアも、何も言わなかったから恐らく正しい選択だったんだと思う。
まあ歩き回ると言ってもグロリアに支えてもらってだしね。
応接室に入ると、カイマール殿下がすでに座って私を待っていた。
彼は私の姿を見ると、痛ましいものを見るように顔を顰めたけれど、すぐに立ち上がって私のために椅子を引いてくれた。
「ありがとうございます、カイマール殿下」
「いや、なに。おれにできるのはこの程度だ」
「なんでも、ご帰国なされるとか」
「ああ、それ故に月の女神にもう一度会っておきたくてな」
「……さようですか」
この人もブレないなあ。
そう思うと少しおかしくて、笑ってしまう。
「白の月の下、塔の上に立つそなたはさぞかし美しかったであろうな」
「……え?」
「おれは捜索に携われなかった。他国の王族ゆえな。だが部下は参加させた」
カイマール殿下によれば、ディミトリエ皇子は部下の責任を取って魔術的な協力と称し捜索隊に参加していた。
だけれど、同時期に城に滞在していたカイマール殿下は与えられた部屋から出ないようにと告げられて大人しくしているしかなかったらしい。
それでは世話になっている身としては心苦しいからと部下の方が捜索隊に参加したんだとか。
「まあ……ありがとうございました」
「いや、なに。嫋やかな知恵者と思ったがなかなかに剛毅なところも持っているのだな。……改めて、月の女神がレイジェスのものでなければおれが名乗りを上げるところだ」
「相変わらずお上手ですこと」
「本音だ。キャンペスに戻り、ターミナルは盤石であると兄王には伝えよう。……我が国へ足を向ける際はくれぐれも結婚を済ませてからにしてくれ、兄王までそなたに惚れれば面倒にもなろうさ」
「そのようなことはないとは思いますが、覚えておきます」
半ば呆れつつも真面目な顔をしたカイマール殿下は、私の反応に鼻を鳴らす。
彼はかなり本気で言っているようだったから、気を悪くしたのかもしれない。
「民にも好かれているのだな、おれの月の女神は」
「……そうであれば、嬉しい話です」
あえて『おれの』発言はスルーする。
何度も月の女神と呼ぶことは止めてくれとお願いしても止めてくれないし、この発言も突っつけばただレイジェスが自分の親戚に違いないから、その妻となる私も親戚だ……なんて言い方で誤魔化されることが目に見えている。
悪い人じゃないんだけどね。
「民の声がその国を知るのに最も適している。おれは少なくともそう思い、この国に来てから何度となく町へ降りた。そなたが救出された後、外出ができるようになってからも、な」
「……」
「多くの民、その中でも子供たちが自国の王女殿下の安否を気にしていた」
カイマール殿下の言葉に、私は目を伏せる。
医療制度は私には難しすぎて、前世の知識にある保険制度なんてものは施行できそうにないからと民の識字率について普及させるべく努力はしてきた。
その中で各宗派の教会から助力を得て、子供たちに少しずつ字を教えるというそれはだいぶ、城下では根付いてきたらしい。
(私も、何度か……少しだけ、子供たちと一緒にいられた。それが、繋がっている?)
子供たちは屈託なく、ありがとう、と言ってくれた。
勉強できて嬉しい。
本を読むのが楽しい。
家族に聖書の読み聞かせができるようになった。
商売の手伝いもできるようになった。
そんな風に色々と声をかけてくれる彼らが、ああ、そうだ彼らは確かに育っているのだ。
「クリスティナ殿は、まことに民を導く目線を持った人間なのだろうな。王たる孤独な道を歩む者は、そなたを疎んじ、また欲するのだろう」
「……え?」
「王は、孤独だ」
カイマール殿下がそれだけを告げて口を噤む。
それは私も、お父様に対して思ったことがあるから、わかる。
これは王族に連なる、近しい存在にある人間ならわかる話なんだと思う。……わからない人も、勿論いるだろうけれど。
王は、孤独だ。
国の長として、家族を持とうがそれも国のためであったり、国のためであればなにをも犠牲にし、それを苦渋の決断としても顔に出すことを許されず。
それでいて民のために尽くし、それを返されるが故に贅を尽くした玉座に座る。
それを成す者こそ、王たる王だ。その重圧は、王にしかわからない。
察することや、案ずることは許されたとしてもその重圧だけは変われない。
(……だけど、どうして)
どうして、それ故に私が欲され、そして疎まれるのか。
首を傾げた私に、カイマール殿下が答えることはない。
それどころか面白そうに笑みを浮かべたかと思うと、さっさと出口に向かってしまう。
「月の女神にも会えたのだ、あまり疲れさせても良くないだろう。……レイジェスを見限った日にはいつでもおれを頼ってくれて良いぞ」
「一応覚えておきますね、彼にも伝えておきましょう」
私の答えにも快活に笑って去って行くカイマール殿下は、ただ、私に疑念を落としただけだ。
ああ、いえ。
ターミナルとキャンペスは、きっと問題ないとしてくれるのだろうという安心はあったけれど。