91.
塔の上から彼の姿を見る。
けれどこのままでは彼がここに着く前に私が捕まって、飛空艇に連れ込まれるのが目に見えてわかっている。
そうなれば、マギーアとターミナルが戦争になるのはほぼ間違いないだろう。
遠くからやってくる一軍が彼らの味方でないからこそ、これほどまでに焦っているのだから。
そして我が国のものではない飛空艇が、打ち捨てられていたはずの古い塔に向かっているのを侵略行為と咎めることになんの不都合があるだろう?
(誰も彼も、そんなことは望んでいないはずなのに)
これは、きっと誰が見ても最悪のシナリオへのルート。
本来はこうじゃなかったはずだ。
もっとスマートに囚われの王女を助け出す王子様がいて、大団円……それが望まれたシナリオだったに違いない。
その面白くないシナリオに書かれてしまった憐れな演者の一人が私なら、ヒーロー役であるレイジェスのほかにディミトリエ皇子も来ているのだろうか?
(もしそうなら、万が一にも私を取り戻せるとハリルは思っているの?)
そう思ってちらりと視線をハリルに向けてみるけれど、彼は恐ろしいほど顔色を白くしていた。どうやら予想していた展開と違うらしい。
(そうね)
自分が思い描いていた計画が上手くいかないと、ひどく心配になるものよね。
それを私も経験したからよく知っている。
なぜだか、それを思い出して笑みを浮かべてしまった。
その私の笑みを彼らがどう受け取ったのかは知らないが、何やらそれぞれに奇妙な顔をしていた。
恐ろしいものを見たかのような、そんな顔だった。
だけれど私にはもう関係のない話。
私がこの目に焼き付けておきたいのは、ただ一人。
(……レイジェス)
今にして思えば、なんて滑稽な空回り方をしたのだろう。
そしてどこまでも私は愚直なまでに、レイジェスを想い続けていたんだと思うと今では誇らしい。
「王女殿下……!?」
ハリルの焦った声が聞こえる。
私が、縋るように捕まっていた外壁から手を離して塔の外に体を向けたから。
きっと、こちらに向かう一団は、私を見つけたに違いない。
少しだけ先程と動きが違う気がしたから。気のせいだろうか、私の希望がそう見せているだけだろうか?
塔の上に立つ女の姿を、白い月が照らしてくれる。
隠すもののない中で、私をレイジェスが見た気がする。
「くそっ、無傷でとお望みであったが――」
「兄上! おやめください!!」
小さな詠唱の文句は私に聞き取れるものではなく、ぱっと見た時に男の手に魔力が塊となって具現化された瞬間が見えた程度だ。
そしてそれは小さな風の刃となって、私の体すれすれに掠めていく。
そのせいで体のあちこちに切り傷が付いた。熱い痛みと、身体を濡らす血の感触に思わず足下がぐらつく。
(ああ。魔力の攻撃……これは傷が残るかもしれない)
普通の刃物の傷よりも、魔力で影響を受けた傷跡は残りやすいのにと思う。
特に私のような魔力なしは魔法が効かない分その跡が残りやすいという残念な体質なのだ。
それを知ってか知らずか、いいえ、恐らくは取り返しのつかない失態だと思ったのだろう。
ハリルが「なんてことを」とうわ言のように繰り返すのを気にも留めず、彼の兄は私をぎらぎらとした目で睨みつける。
「次は当てても良いのですよ、貴女程度攫うのに苦労はなかった。一人で逃げられやしない、この状況でそれがわからないなんてことはないでしょう」
「……愚かな人」
「なに?」
「私は、確かに弱い人間に過ぎません。魔力もありませんから、ここから逃げる手立てがあるわけでもない」
それは自分がよく知っている。
体も、心も、ありとあらゆる意味で強者たちを知っている分、己の弱さを知っている。
それを恐れ、敬い、憧れ、そして落胆する。
繰り返してきたそれは私にとって慣れ親しんだ劣等感。
だけれど、それは同時に私の強みでもあったと知ったのはつい最近のこと。
「それでも、私が恐れるべきことは、……本当に恐ろしいのはただ一つ」
私は、まっすぐに彼を見る。
なんの感情もなかった。怒りも、悔しさも、憐れむ気持ちも、何もかも。
「私が、あの人以外に囚われることを、私が許せるはずもない――」
だから私が選ぶのだ。
私が、すべてを選ぶのだ。
「王女殿下っ……!」
ハリルが私に手を伸ばす。
私の意図を察したからか、それは必死な顔だった。
(ごめんなさいね)
謝る必要はないのだろうけれど。きっと気持ちの良いものではないだろうから。
彼の中でこんな結末はなかったはずだから。
最悪のシナリオを、最悪の形で彩るのが最善なのか?
そう問われたら馬鹿らしいと答えるだろう。
だけれどこれが私の答えだった。
(救いを待って彼を危険にさらすのはイヤ。だからと言って待って攫われるだけの自分もイヤ)
あれもいや、これもいやでは何事も成り立たない。
それがわかっているのに選びきれない私のわがままだ。
塔の上から身を投げた私を、きっとこちらに向かう彼にも見えていたはずだ。
きっと怒るのでしょうね、そう思って私は塔の下に目を向ける。
(でも、レイジェス、あなたなら)
私と同じくらいわがままな貴方なら。
きっと私の意図を察してくれるのでしょう?
落ちる私が目にしたのは、鬼気迫るレイジェスの姿だ。
手を伸ばす彼が、驚いたことに壁を蹴って空中で私を受け止めたのは想定外も良いところ。
だけれど落下した人間を受け止めるのは衝撃が大きかったのだと思う。
私を抱き込んだレイジェスが、着地と同時に小さくうめく。
「……とんだおてんばめ、やっぱりお前は間違いなくあの女の妹だ」
「レイジェス……」
「無理をする」
ああ、幻なんかじゃない彼だ。
そう思った瞬間に体中が震えた。
彼にしがみつこうとするのに指が、手が、すべてが震える。
「迎えが遅くなった」
「に、げられ、ちゃう」
「ああ、無理だろう」
「でも」
「逃げるのは」
レイジェスの言葉に、私がその意味を図りかねた所で咆哮があがった。
それは馬の嘶きよりも遥かに大きく、低く、恐ろしい怒りに満ちた声だった。
「……アニー?」
「ラニーも一緒にお冠だ。俺も参加したいところだが……お前を誰かに任せるのは癪だ。あちらをくれてやることにした」
彼が何を言っているのか理解できない。
だけれど、聞こえてくる怒声と悲鳴は段々と大きくなって、レイジェスが私を受け止めるためだけに前に出たのだと理解した。
「レイジェス」
「ああ」
「レイジェス」
「ここにいる」
名前を呼べば応えてくれる。
無茶をした私を叱るでもなく、震えが収まるのを待つかのようにただ抱き留めてくれている。
それがこんなにも、嬉しい。
私が、私でいられる場所は、この腕の中なのだと自惚れたい。
「こわかった」
「ああ」
強がらずに伝えれば、レイジェスがそれを肯定してくれる。
王女としてでなくていい、クリスティナを許してくれる。
「ごめんなさい」
「謝るな。お前は、俺の元に戻ってきた。遅くなってすまなかった」
レイジェスの声が、優しくて。
私を抱きしめる手が優しくて。
赤い瞳が、白い月の光を受けてきらきらしていて、ああ、彼がいるんだって安心したら、私は情けないことに、あっさりと意識を手放してしまったのだった。