90.
「さあ王女殿下」
男が再び私に促す。
私は一歩前に踏み出し、目を凝らした。
そうだ、これは西の大森林。危険な魔獣が多く棲む故に人は足を踏み入れられず、空から行くにもあまりの風の強さ。
それゆえに国境警備も常々頭を悩まされる土地の一つであり、魔道具を使っても被害が多すぎるがために森の境に結界用の魔道具を埋め込むことで人員を引かせた経緯があったはず。
とはいえ、丸々放置するのではなく近くに駐屯地もあったはずだ。
十分な距離をとってはいるとはいえ、魔獣がいつ森から出てきて近隣住民を襲うとも限らないのだから。
(どうやって、そこを抜けてきた?)
内通者がいるのか、あるいはマギーアが持つ魔術の粋というやつか。
私たちが知らないような魔術を彼らが知っていてもなんら不思議ではない、私たちが魔道具の秘密、その多くを他国に漏らさないのと同じこと。
(あれは、巨大な陣……?)
明るいのは野営と見て間違いないのだろうけれど、規模が違いすぎる。
下手をしたらこちらに攻め入る軍勢がいるのではないかと危惧されてもおかしくないというのに、どうして国内で騒がれている気配がしないのだろう?
私の疑問を察したのだろう、代表者の男がにやにやといやらしい笑みをその顔に浮かべた。
「なに、検知系を妨害する魔法などもこの世には存在しましてな。一定の魔力の強さがあれば、魔道具の効果を鈍らせたり惑わせたりすることもできるのですよ……ああ、畏き御身であれば当然ご存知のことと思いますが」
私は驚いた。
勿論、男が言っていることは知っているしその理屈も理解している。
だけれど、この国の防衛機能の一つである警告のためのものや、そのほか含めその規模たるや一人の魔術師が有能だからどうこうだなんて問題ではないのだ。
ということは、相当な人間が命を削る勢いでその力を注がなければ、そんなことはできないのだ。
「なんてこと……魔術師たちをこのためだけに酷使しているのですか!?」
「酷使とは心外ですな」
私の言葉に少しだけ怯んだ代表の男は、それでもにやにやとまだ笑みを浮かべている。
「奴隷を含め我らが国民が、未来の国母を迎えるために道を切り拓く……なんと美しい話ではございませんか」
「……」
なにが美談だと、男の言い分に吐き気を覚える。
要するに、彼らは……ターミナルが保有している増幅の魔石と同じ効果を、他人の魔力を使って得ているということ。
そして、それを提供しているのは奴隷と国民だと彼は言った。
規模が大きい、距離がある。
これだけでも相当な負担があるに違いない。
どんな術式かはわからない、遠隔でそんなことができる魔法があるらしい……というのは書物で読んだ程度だ。
だから、これはマギーアの秘匿している技術には違いないのだろうけれど、それを私の誘拐に使われたというのが悔しくてたまらない。
(何が未来の国母を迎えるためよ)
「あの陣の大きさをご覧ください、我らが主は貴女様を歓迎するために不安定な情勢にも関わらずあのように巨大な陣を指揮し、出迎えに来てくださったのですぞ」
「……」
「生憎と夜明けに出発をするつもりでありましたが」
「……夜明け」
「残念ながら、ターミナルの軍というのは優秀のようで。闇に乗じて往くよりございませぬ」
「なんですって?」
「この場に足をお運びいただきましたのも、主の威光を直接見ていただきたかったのは勿論でございますが」
勿体ぶった口調で男がばっと両手を広げた。
その視線が何かを捉えているのだと気づいて、私もその先を追えばこちらに近づいてくる物体が、見える。
「……飛空艇」
「さようにございます、流石博識でございますな」
飛空艇はあまりにも魔力を食う代物だと、お父様がターミナル国内で使うことを制限した代物だ。
元々はマギーアの地下にあるという古代施設から発掘され、今現在でも使えるように研究されて生み出されたものなのだろうけれど。
(飛空艇に、風を防ぐ魔法を張り巡らせて飛んできている?)
普通に考えれば燃費の悪いそれをしてまで手に入れたいのか。
ターミナルの軍事力、それを持つ王女を。
国を、民を疲弊させても今手にするべき玉座、それに手をかけるための布石としての存在だとでもいうのだろうか。
ふつふつと沸いてくる怒りと共に、あの飛空艇に乗せられてしまっては私はもう逃げ場が無くなってしまうのだと絶望感を覚えざるを得なかった。
(いいえ、あの飛空艇がここに到着するまでに何とかするのよ)
でもどうやって?
この高さある場所で、この狭い場所で大人の男性を複数相手取ることができるような武力は私にあるわけがない。
同時に、それを覆すだけの魔力もない。
知恵だけで乗り切れと言われても無理難題だとしか言いようがない。
(じゃあ諦める? いいえ、そんなことは絶対にしたくない)
こうしている間にも近づいてくる飛空艇の姿に、私はいっそ空を駆ける魔獣でもやってきて落としてくれはしないだろうかとありもしない空想すらしてしまった。
現実逃避にもほどがあるし、今はそんな奇跡みたいなものに縋っている場合でもないのに!!
(待って、軍部が思っていたよりも優秀だから急いで出発するのよね?)
初め、あの部屋で『本日はゆるりと』なんて言っていた気がする。
ということは、攫った当日強行軍で行くよりはあちらと連携を取って国内を混乱させつつ私を連れて脱出するという計画だったのではないだろうか?
あれほどの魔法が使えるのだから、できないとは思わない。
ただやるには相当の魔法力が必要であり、これは一種の侵攻としか思えないけれど。
(……それに)
ハリルにとって、ここで私をディミトリエ皇子が救い出さねば、彼の計画が崩れてしまう。
ということはここはもうすでに知られていて、私を救い出すための軍が向かっていると考えるべきだ。
飛空艇とは逆の方、国内の方へと移動する。
代表者の男は私の行動に驚いたようだけれど、まだ自分の優位を信じて疑わないのだろう。笑みを浮かべたままだ。
(レイジェス)
きっと私を迎えに来るならば、ディミトリエ皇子ではなくレイジェスがやってくる。
知らせがあったのがディミトリエ皇子だろうと。
どうしてそう思ったのかはわからない。
いいえ、いつだってレイジェスが見つけてくれたからだ。
「レイジェス」
ほかの人に聞こえないくらい小さな声で彼を呼ぶ。
物語みたいになんでもかんでも上手くいくだなんて、思っちゃいない。
呼んだらタイミングよく現れて颯爽と敵を倒して私の手を取ってくれるなんて思ってない。
でも。
来てくれるって、信じている。
ただそれだけで、それだけしか私の中にないんだと改めて気が付いた。
「王女殿下、さあ飛空艇が参りますぞ」
代表者の男が差し出す手から逃れるように、私は壁際に身を寄せる。
まだ飛空艇は、こない。
彼らがやろうと思えば私を拘束できるのだと私はちゃんと、知っている。
(なら)
拘束なんてされてたまるものか。
そんな思いから、宥めるような声を出す男たちを無視して私は壁際の、狭間となっているところからよじ登る。
今にも身投げする人間となった私はその不安定さに自分でも血の気が引いていることを理解するけれど、私以上に男たちの方が慌てていた。
「なっ、なっ、王女殿下なにをなさっておられるのです!?」
「そ、そのようなところにお立ちになっては危のうございます! すぐに! すぐに下りてください!!」
慌てる男たちをよそに、私は肩越しに国内を見る。
ああ、土煙が見える。厚い雲に覆われていた空が、いつの間にか風で切れ間ができて月光が降り注いでいるからだろうか?
あれは、救出のための部隊だろうか。
いくら私の視力が良くても、この暗がりではそれが精いっぱい。
だけれど、こちらに向かっている。それに男たちも気が付いて焦っているのが見て取れる。
あれやこれやと言葉を尽くし、挙句には「このじゃじゃ馬が!」と言われた時には思わず笑ってしまいそうだった。
「私は、英雄スライと忘れられた王女フィライラの末裔。誰かに囚われ、自由を奪われる者ではありません」
私は、私の意志で死ぬことを選んだ。
私は、私の意志で立派に生きようと決めた。
私は、私の意志で、あの人を選んだ。
「ハリル! 何をしている、早く王女を……ええいお前もだ、さっさと捕まえろ!!」
雲が、晴れた。白い月が見える。
ああ、ああ、攫われてすぐだと思っていたけれど違ったのね?
あれから一日は経っていたのか、それなら彼らの焦りようだって理解できるというもの。
(気が付かないなんて、私ったら馬鹿ね)
聞けばよかったんだろうに。
そう思うけれど、私はもうこれ以上時間は引き延ばせないと土煙の方へと視線を向ける。
そしてその先頭に、愛しい人の姿を見つけた時。
私は泣きそうな気持ちに、なったのだった。