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『 YUE 』  作者: 徳次郎
2/2

【下】

 夏休みが迫っていた。

 それだけでボクたち子供の心は浮ついて、夏空に追い立てられるように高揚する。

 父の作業場からは、今日もノミを叩く音が聞こえる。

 庭の物干しには、暑い陽差に洗濯物がはためいていた。

 縁側には古びた金魚鉢が置いてある。

 夏空から注ぐ陽差が、丸いガラスに反射して光の玉を取り込んでいるようだ。

 確かあの水槽は、妹と一緒に出かけた縁日ですくって来た金魚を飼う為に用意したものだ。

 と言う事は、ボクは彼女と出かけている。

 その頃は妹も寝る以外の時間に家にいたと言う事だ。

 それとも、その日に限って家にいたのかもしれない。

 ただ、それが去年の事か、三年前の事なのか……それとももっと昔の事なのか思い出せない。

 ボクは金魚鉢に水をたっぷりと注ぎ込んだ。

 揺れる水面に、小さなボクが映る。眩しい太陽の陽と一緒に揺れていた。

 この中で元気に泳いでいた金魚はどうしたのだろう。どうせ一週間くらいで死んでしまったに違いない。

 生ぬるい風を受けた庭木が音を立てた。山茶花の木から注ぐ木洩れ日が揺れている。

 視線を足元に戻すと、ふとボクの目に停まったのは縁側の下にある小さな木箱だ。

 古いリンゴ箱のようで、しっかりした造りだが黒く角が朽ちている。

 引っ張り出してみると、そこには紅い小さなバケツや緑色のプラスチックのシャベルが在った。

 色あせと土で汚れている。

 そして、くすんだピンク色の小さなサンダルが奥に押し込まれていた。

 これは妹のものだ。

 プラスチックの小さなバケツもシャベルも、そしてサンダルも。

 昔は陽の光の下で遊んでいたに違いない。

 そう言えば、ボクも一緒に遊んだかも知れない。でもボクはそれを思い出せない。

 陽差がボクの首筋を容赦なく焼いた。

 熱い。

 垣根の外から章太が呼んでいる。夕方まで近くの河原で遊ぼうと言うのだ。

 日曜日の午後、ボクは玄関に廻って運動靴を履くと、そのまま外へ飛び出した。

 夏休みを待ちきれず、ボクらは駆ける。

 蒼く澄んだ夏の大氣に追い立てられて。





 家から畑の間を縫うように自転車で少し行くと、狭い国道に出る。国道沿いのカーブを四つぬけると少し落ちた土手の下に河原が在る。

 河原の上にはコンクリートの橋がかけられ、向こうの林へ抜けている。

 車道から一段降りたその場所は歩行者専用で車は通らない。

 夏になるとその橋から川へ飛び込むのが恒例の遊びなのだが、ここ数年は橋が壊れて立ち入り禁止になっていた。

 数年前台風が直撃し、川は氾濫、土砂崩れが起き、その土砂と濁流が橋げたを破損させたのだ。

 数年ぶりにそれが修復されて、子供たちは夏の暑い陽差を待ちわびていた。

 どうして橋の修復が遅れたのか、子供のボクたちには判らない。クラスメイトの昌彦の父親が言う話では、市の公共事業費が足りなくて予算が廻らなかったらしい。

 そして、数年前に水難事故を起こしたこの場所は、このまま取り壊してしまおうかと言う議論にもなったそうだ。

 悪い噂はあった。

 コンクリートの橋は修復されても、もう上から飛び込む事が出来ないんじゃないか。

 子供は立ち入り禁止になるのではないか……

 しかし橋にはそんな立て札は無かった。

 でも噂は当たっていた。

 新しい橋には両側に鉄の柵が設けられて、飛び込めなくしている。

 ボクらは別に、自殺志願者ではない。

 水に飛び込むスリルを純粋に楽しんでいるだけだし、多少の危険は子供だって判っている。

 子供はこういう遊びの中で、自分の出来る事と出来ない事。向き不向きなどを得とくするのだと思う。

 そして、些細な勇気も。

 章太とボクは手すりに掴まって、流れる川の水を眺めた。

 橋の上には、少し前に来た連中が同じように川を見下ろしていた。

 河原で残念そうに水遊びする連中もいる。

 広い河原に対して水の流れはそれほど広くは無い。中流のここは川下と川上にある小さなせきのおかげで流れも緩く、中央は意外と深い。

 もちろん、ある程度の深さがあるから飛び込めるのだが、もちろん河原の浅瀬で水遊びする連中も多い。

 この橋が使えなくなってから久しぶりにここへ来た。透き通る緩い流れは以前と変わらず陽光に煌いていた。

 あちらこちらで魚が跳ねる。

 そんな水面を見下ろしていると、ボクの頭の中に何かが入り込んでくる。

 それは、実体を捉える間も無く一瞬で薄れて消える。

 河原の周囲に茂った雑木林から、セミが鳴き始めていた。

 いつかの夏の日々が薄靄うすもやに埋もれて蘇える。薄靄は何を覆い隠しているか解らない。

 セミの声……流れる水の風景……

「久しぶりだよな」

 章太が川の流れを見つめたまま言う。何故か無表情だった。

「ああ……」

「誘っていいのか迷ったけどさ……」

 何故迷うのだろう。章太は何に迷うのだろうか。

 確かに友達とここへ来たのは、かなり久しぶりな気がする。

「なんでだよ」

「何でって……由江ゆえちゃんの事がさ……」

 由江? 聞いた名前だった……誰だっけ?

 白い靄の中にその言葉の響きだけが何度も響き渡る。

 だれだ……?

「由江って?」

「お前、覚えてないのか?」

 章太は顔を上げると、驚いてボクを見つめた。

 不可解さの染み出る、困惑の笑み。

「あの頃の記憶を無くしたって、本当だったんだ……」





「帰りにアイス買おうな」

 暑い陽差のなかで、大きな向日葵のプリント柄ワンピースを揺らして彼女が言った。

「ああ、今日は暑いしな」

 小さな手がボクの指先を掴んだ。

 ギラギラした陽差と緑の木々から、セミの喧騒がさざなみとなって蘇える。

 幼い妹の汗に混じる、ミルクのようなイチゴのような甘い香気かおり

 あれは何時だったのか?

 焼きつくような陽差の下で、妹と歩いていた。

 ボクは何時、彼女と一緒に出かけたのだろう。





 章太はボクの中でもやに包まれた全てを、静かに語ってくれた。

 どうして両親は説明してくれなかったのか? 説明されたけど、忘れてしまったのかもしれない。

 由江はボクの二歳違いの妹だ。

 四年前、一緒に河原へ来た。

 太陽が照りつける夏空は何処までも蒼く、透き通るように輝いていた。

 山の向こうから大きな入道雲が、とぐろを巻いた龍のように雄々しく虚空に立ち昇る。

 止め処ないセミの声は、暑さに浸食されて景色に同化していた。

 ボクは由江に橋の上で待っているように言い聞かせる。

 その頃のボクだって、頑張ってなんとか橋の上から川へ飛び込むのに精一杯だっただろう。

 章太は河原の水辺から、飛び込むボクを見上げていたらしい。

 何かあれば周囲にいる上級生が助けるのがここのルールだ。

 しかし由江には気がいかなかった。誰も五歳の彼女が飛び込むなんて思わなかったのだ。

 数人が同時に飛び込めば水音は喧騒となって周囲を湧かせる。

 喝采の間も無く、次々に飛び込む飛沫が上がる。

 その中に由江の姿があった事など誰も気付かなかった。

 彼女はボクを追いかけたのだろうか?

 気付くと妹は何処にもいない。

 ボクは夕暮れまで彼女を探した。

 直ぐに役場の連中や消防署、警察の人たちが来て一緒に探した。

 一週間経っても由江の姿は見つからなかった。

 下流のせきで、ピンクのサンダルだけが唯一見つかったそうだ。

 その夏の終わり、大型台風が直撃して五十年振りの災害をこの川とその周囲にもたらした。

 土砂は崩れ、川は氾濫し、橋げたは半壊する。

 それでも由江の姿は見つからなかった。

 時間だけが、月日だけが無常に過ぎて周囲の姿形を変えてゆく。

 彼女は死んでしまったのだろうか。

 それとも、今も何処かで家族が見つけてくれるのを待っているのだろうか。

 それが解らないからきっと、ボクの家には由江の仏壇がないのだ。

 両親はいつまでも妹の生還に望みを紡いでいるのかもしれない。

 その頃の記憶はボクの中から綺麗にぽっかりと抜け落ちているらしい。

 話しを聞いても朧に霞む記憶は戻らなかった。

 丸い指先……白桃のような笑顔……

 薄靄うすもやに包まれた妹の記憶。

「この事、話しちゃいかんって言われてるから、俺が言った事は内緒な」

 章太は鉄柵に寄りかかって、ボクの肩に手を置く。

 友達も気を使ってその話題にはずっと触れなかったし、父兄会でそう子供たちへ指導するよう取り決めがあったそうだ。

 おそらくボクの父も母も……

 凪いだ風が蒼穹そらに浮かぶ雲を留めている。まるで時間が止まったようだ。

 遠くでトンビの声が響くと、ボクは止まった時間から抜け出す。

 眠りから目覚めた時のように、陽差が眩しくて目を細める。



 でも、だとしたら……

 ボクはいつも誰の為に布団を敷いているのか?

 毎晩帰って来てボクの隣で小さな寝息を立てる彼女は、誰なのだろう。






            ―了―






最後までお読みいただき有難う御座いました。


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