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『 YUE 』  作者: 徳次郎
1/2

【上】

かなり抽象的な流れで進む話です。

深く考えずにお読みください…【上】編

 黄褐色に劣化した古い畳は、所々がほつれてささくれ、擦り切れている。

 床板が傷んでいるのか、継ぎ目のチリも合わず所々ヘコんで歪んでいる。

 それでも横になった時に香る、干し草の匂いは変わらないのが不思議だ。

 ボクは毎晩自分の布団の隣にもうひとつ小さな布団を敷く。

 自分の布団より明らかに二周りほどちいさい子供用の布団。

 かけ布団にはデフォルメされたハムスターの絵柄がたくさんプリントされている。

 妹の為の寝床だ。

 押入れから出した布団は、どれもひんやりと冷たく気持ちいい。

 ボクは冷たい敷布に頬を着けるのが好きだ。

 妹は毎晩遅くに帰ってきて、日中は家にいない。

 幼い妹が昼間どこで何をしているのか判らず、どうして夜しか家に帰ってこないのか、小学生に入ったばかりの僕には判らなかった。

 それでもボクは毎晩幼い妹の為に布団を敷く。

 いつから自分が妹の布団を敷いているのか、それさえも覚えていないのだ。

 話しはほとんどしない。

 彼女が幼いせいもあるし、帰りが遅いせいもあるだろう。

 何度か会話を交わしたが、何を話したかあまり覚えていない。会話にならない会話だったのだと思う。

 妹の布団は、ボクとは違う匂いがする。

 ミルクのようなイチゴのような穂のかに甘い香気かおりは、彼女の匂いだ。



 父は今時珍しい下駄職人をしている。

 家屋と繋がる仕事場で、毎日来る日も来る日も下駄を造る。

 下駄はひとつの木片からノミとカンナだけでその姿へ変わってゆく。

 ボクはその光景が好きで、何の変哲も無い木片が履きモノへ変わる様子は、青虫が蝶に変化へんげする様子に似ていると思った。

 厳格な父は、ボクと言葉を交わす事はなかった。

 物心がついて交わした会話もほとんど覚えていない。

 茶の間から様子を覗うボクに気付いても、父は笑顔を零したりしない。

 チラリと見た視線を直ぐに手元へ戻す。カンナの削る音はリズミカルに留まる事はなかった。

 母は毎日掃除と洗濯をして、三食の食事を作るだけの存在だった。

 もちろん、ボクが幼児の頃は手を掛けてくれたのだろう。

 でもボクにはその記憶は無くて、気付いた時には無言でただご飯をよそってくれるのが母親だ。

 友達の家の母親のように子供を叱る声もないし、頭をクシャクシャと撫でる事も無い。

 ボクにとってはそれが普通で、寧ろ友達の母親を気味悪く感じたものだ。



 離れにある部屋は、去年亡くなったばあちゃんの部屋だ。

 今は仏間になって、彼岸だったせいかここ数日は一際線香の臭いが漂う。

 今朝学校へ出ようとしたら、玄関先に菊の花と線香が用意してあった。きっとひと山向こうのお寺に在る墓地へ、お墓参りに行ったのだろう。

 ボクはお墓が好きではない。

 あまりあの場所が好きな人もいないと思うが、どうしてかあの場所は落ち着かないのだ。

 背中がゾワゾワして、周囲に人の気配をたくさん感じてしまう。

 辺りを見回すと、墓石以外は鬱蒼と茂る草木が風で揺れているだけなのに……

 だからボクは、ばあちゃんの墓参りにも行った事はない。四十九日に行ったのが最後だ。

 ボクは今日も二組の布団を古い畳の上に敷く。

 部屋の窓ガラスに大きな蛾が止まっている。

 止まっているのは外側だが、ガラスからグロテスクな丸々とした腹が丸見えで、なお気持ち悪い。

 ボクが窓ガラスを何度か叩くと、蛾は鬱陶しいようなそぶりでバサバサと不器用に飛び立っていなくなった。

 妹は今夜も遅い。

 いったい何処で何をしているのだろう……

 ボクが朝目覚めると、彼女は既に布団の中にいない。温もりも残さずに何処かへ行ってしまうのだ。

 穂のかに甘い残り香だけが、微かに布団に染み付いている。

 古くて懐かしい香りだ。

 妹が何処へ行くのか見届けてやろうと夜通し起きていたことも在る。

 小さな布団で寝息をたてる気配だけが、ひたすら夜気に染み渡る。

 愛おしく懐かしい気配だ。

 しかし、朝陽が昇る頃になるとボクはウトウトして深い眠りに誘い込まれてしまう。

 けっきょく何度か試みたが、妹が部屋を出るまで起きている事はできなかった。

 父と母は知っているのだろう。

 何も言わないが、何も言わないところを見るとやっぱり知っているに違いない。

 ボクより幼い妹が日中ずっといない事を、心配しないのもおかしい。

 おかしいから尚の事、ボクは両親に問う事は出来なかった。



 * * *



 細い雨が静かに降り注ぎ、山の景色を霞ませた。

「アイス食べたい」

 彼女は小さな赤い傘の下で言った。子供用の小さな傘に、妹はすっぽりと納まる。

「今日は雨だし、少し肌寒いよ。風邪ひくぞ」

「ひかんよ」

 三つ編みのお下げを振る。

「また今度な」

 ボクは傘を持つ手を取り替えると、赤い傘の下に向って手を伸ばす。

 小さな丸い指が、ボクの指先を掴む。

「今度な。ゼッタイな」

 赤い傘を少しだけ傾けて、彼女はボクを見上げる。

 新鮮で、潤いのある白桃のような頬で笑う。

「ああ」

 ボクは目を細めて見下ろし、笑い返す。

 糸のような雨は、音も無く傘を叩いていた。

 深い緑が雨の糸に溶け込んで、微かなもやが木々に絡みつき静けさを縛り付ける。

 道端に咲いた彼岸花が、赤色に水を滴らせていた。それは、小さな赤い傘をさす妹の姿に重なった。

 雨の中を妹と歩いた記憶は無いのに、何故か思い出す。

 どこか懐かしい。

 それは勝手にボクの頭の中へ運ばれて、勝手に再生される解読不能な光景だ。





 満月の光が煌々と部屋を照らす夜。

 ボクはこんな日はカーテンを半分だけ開けて、月影を部屋に招き入れる。

 妹の顔がはっきり見えるのはこんな時だけだ。

 ボクは布団に入って彼女の帰りを待つ。

 静かな気配と共に、彼女は布団の傍らに立った。

 いつの間に部屋の戸を開けたのか判らない。

「お月さん、綺麗だよ」

「ああ……そうだな」

 ボクは布団から顔だけを出して、妹を見上げた。

 月光を半身に浴びた彼女の肌が白く輝く。

 大きな向日葵の絵がプリントされたワンピースは彼女のお気に入りだった。

 黒目がちな大きな目はクリクリとボクを見下ろして笑う。

 無邪気で、純粋な笑みだ。

 彼女はそんな笑みから、眉をフニャリとしかめる。

「飴食べたい……」

「飴?」

 妹はコクリと頷く。

 短い首に小さなシワが入って、三つ編みを解いた黒髪が頬の横で揺れる。

 ボクは布団から起き上がって肩をすくめた。

 両親が起きないようにそっと部屋を出ると、台所にある飴をひとつ取って来る。

 メロンの絵柄が包み紙に描いてあるから、きっとメロン味なのだろう。

「虫歯になっちゃうぞ」

 ボクはそう言って、妹の小さな手に飴を渡す。

 開いた指がムクムクとして関節などないような、小さな手だった。

 柔らかい……

「大丈夫。ウチ、虫歯にならんよ」

 彼女はニッと歯を見せて笑う。白くて綺麗な乳歯が小さく並んでいた。

「食べたら、歯磨きしてから寝ろ」

「うん」

 彼女は再びコクリと頷いて笑った。

 楽しそうに、嬉しそうに包み紙を解いて、飴玉を口へ放り込む。

 小さいはずの飴玉が、彼女の柔らかい右頬をプクリと膨らませた。

 月影が白く輝いて、凸凹の在る古びた畳の上に浮かぶ陰影は、まるで月面のようだ。



 そうだ……そう言えば、以前言葉を交わしたのも満月の夜だった気がする。

 妹は満月の夜だけボクに話しかけてくるのだ。

 それ以外の日は、黙って静かに布団へはいると直ぐに寝息をたてる。

 ボクはまどろみの中で、彼女の微かな寝息を聞く。

 それが何故なのか、ボクは不思議には思わなかった。

 そんな事以上に、妹が日中何をしてなんの為に家にいないのかが謎だったから。

 ボクとは幾つ違うのだっけ……?

 最近ボクは混乱する。

 ボクは既に小学四年生になったと言うのに、妹の風貌は変わっていない気もする。

 それとも、自分と同じだけ歳をとるから、ボクから見た妹の姿というのは何時までも変わらないものなのだろうか……

 そんな事を考えている間に、ボクは深く心地よい眠りに落ちてゆく。

 何時の間にか妹は布団へ入っている。後ろ髪が枕に柔らかく落ちてたわんでいた。

 明日も学校だ…………





お読み頂き有難う御座います。

次回【下】編です。

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