ひどいひとの小話
「解せない」
解せない。
「なにが?」
「解せない解せない解せない解せない解せない解せない解せない解せない解せ」
「うるさい」
「解せないよ、母さん」
「だから、なにが解せないのよ」
母さんはこちらに顔も向けずに淡々と雑草を引っこ抜いてる。
「なんで。なんで、お嬢様はあんな男と婚約してるの」
私がそう言うと、ぴたりと動きを止めギギギ…とロボットのような動きで振り返った。
「あんた…なんてこと言うの、やめなさい」
母さんはそう言って、辺りを見回す。こんなこと誰かに聞かれたら大変なことになる。クビは免れないだろう。そのぐらい私にだってわかる。でも、もやもやして仕方ないのだ。愚痴ぐらい聞いてほしい。
「だって……やだもん、認めない」
母さんは、呆れたような顔をしてからひとつため息を吐いた。
「あんたが認めるとか認めないとか関係ないのよ」
そうかもしれない。そうかもしれないけど。でも。
「お嬢様には幸せになってほしいんだもん。母さんだってそうでしょ?」
母さんは、なにも言わない。けれどその瞳はどこか寂しげに揺れた。
お嬢様は優しい。優しくて、強くて、美しくて、なんでもできて、それで、やっぱり……優しいのだ。そんなお嬢様があんな男と結婚なんて。
「ジョルジュ様が、お嬢様の婚約者だったらよかったのに」
「やめなさい」
母さんは固い声でそう言った。さっき揺れていた瞳が今度は強い色を持って私を見ている。その声に、視線に、カッとなる。
「だって、あんな男と結婚するより、ジョルジュ様と結婚したほうが絶対幸せになれるのに!」
「……あんたが、ノアール様の幸せを決めるんじゃないわ」
「誰がどう考えたってそうでしょう!?」
「……あんたには、まだわからないこともあるのよ」
母さんが、なにかを哀れむような顔をした。
なによ。なによ!
「……どうせ、私は恋もしたことないちんちくりんですよ!」
「違うわよ、そうじゃない。お嬢様は、私たちとは違う世界で生きているということよ」
「違う世界ってなに」
「あんたも……ここで働いていけばきっといつかわかるわ」
なに。なによ。わからない。わからない、わかるわけない。ううん、わからなくていい。あんな男の事を好きになる理由なんて、わかりたくもない。
「わかんないもん、あんな男大っ嫌い」
「……大体あんた、レオンパルト様と話したことなんてないでしょう。なにがそんなに嫌なのよ。少し浅慮なところはあるけれど、悪い方じゃないわよ」
「悪い方じゃない!?母さん正気!?」
「確かに昔から誤解されやすい方ではあるけれど……あんたは、なにがそんなに気に入らないの」
「私、知ってるもん」
そうだ、私は聞いた。
ハッキリと、この耳で。
「あの男、ここへ来た時お嬢様の部屋でお嬢様になんて言ったと思う?」
あの、雨の日。ひどい、雨の日。
「あんた……まさか盗み聞きしたの?」
「……だって、私知らなかったもの。お嬢様に婚約者がいるなんて知らなかった。ここで2年働いたけれど、あの男が訪ねてきたことなんて一度もないじゃない」
お嬢様の泣き顔を、初めて見たのだ。あの男がこの屋敷に来る前日。今まで、どんなに悲しいことがあっても涙を見せることのなかったお嬢様が、泣いていたのを私は見た。いつもテキパキと動くお嬢様がまるで抜け殻のようにぼーっと窓を眺めている様を私は見た。その次の日に、今まで訪ねて来たことのない婚約者とやらが訪ねてきたのだ。
そりゃあ盗み聞きぐらいする!当然でしょう!?
「あんた、なんてこと……」
「母さんが誰にも言わなきゃバレないもん」
「そういう問題じゃないわ……嗚呼、私一体どこで育て方を間違えたのかしら……」
「なあ、あいつ、ノアール嬢になんて言ったの?」
突然背後から聞こえた、ひんやりとした声にバッと振り返る。
「ジョルジュ……様……」
「こんにちは。俺は母のお茶会の付き添いで一緒に来たんだけど、奥様が人手が足りないって嘆いていたよ。行ってあげて」
ジョルジュ様はそう言って母の背を優しく叩く。母は不安げな顔で私を一瞥した後、それでも言われるままに戻っていった。
「とりあえず…レオンパルトがなにを言ったのか教えてくれたら、盗み聞きをしていたって事は黙っておいてあげるよ」
いつものように笑みを浮かべているけれど、どこかギスギスした空気にゆっくりと息を吸ってから、またゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……お嬢様じゃない女の名前を呼んで。それで、好きだって」
気温が一気に下がってしまったような感覚だった。空気が、痛い。
「へぇ……それはそれは。それで、ノアール嬢は?」
「私がずっと、そばにいるって……」
お嬢様の声は、震えていた。震えていたのだ。いつも凛として、どこまでも響くような、あの声が、まるで迷子の子供のように震えていたのだ。
「ふぅん……」
ジョルジュ様の顔からは、なんの感情も読み取れない。
「ジョルジュ様……ジョルジュ様は、お嬢様の事がお好きなのではないですか?」
お母様の付き添いだとよくこの屋敷にいらっしゃるけれど、けして一人でいらっしゃる事はないけれど、お嬢様と話すよりも使用人と話していることのほうが多いけれど、けれど、常にお嬢様を気遣っているということに使用人は多分全員気が付いている。
「ノアール嬢には、レオンパルトが必要なんだよ」
ジョルジュ様は質問には答えなかった。代わりに忌々しい言葉を口にした。
「ジョルジュ様まで、そんなことをおっしゃるんですか!?」
「事実だからね」
「どうして……。どうして、お嬢様はあんな男が好きなの……」
無意識に言葉が零れ落ちた。理解できないと思った。だって、婚約しているのに他の女の名前を呼んで、好きだなんて言うのだ。私だったらと考えたら、そんなもの、100年の恋も冷めると思う。絶対冷める。
「レオンパルトの母は厳しい人でね。だから、もちろん自分の息子の婚約者にも容赦のない人で…まあ、そんな彼女にノアール嬢自身懐いていたようだったけど、それでもやっぱりまだ幼い頃は、隠れて泣いている事もあったんだよ」
「なんの、話ですか……」
「泣いてる彼女に、聞いた事がある。そんなにレオンパルトが好きなの?って」
「……お嬢様は、頷いたんですか」
やさぐれたような気持ちで尋ねたけれど、ジョルジュ様はなにも答えず、どこか遠くを見ていた。ずっと、遠くを見ていた。
「ジョルジュ様……?」
「彼女は……彼女はね、なにも言わなかったよ。否定も肯定もしなかった」
「え……?」
「彼女の本当の気持ちは、彼女にしかわからない。けれど、俺はあの時の彼女の顔が忘れられない」
「どんな顔をされていたんですか」
「どんな顔、ねえ……秘密。誰にも教えない。だけど、そうだな……美しい顔だった。この世のものとは思えないほど。美しい、顔だった。」
そう言ってどこか遠くを見ながら僅かに目尻を下げたジョルジュ様の顔は、それこそ、この世のものとは思えないほどに美しかった。
そして私は気付く。好きだなんて、生易しいものじゃない。ジョルジュ様の、お嬢様に対する想いは、恋だの好きだのというような、生易しいものではなかったのだ。ぞくり、と背筋をなにかが駆け巡って、震えそうになる脚をすんでのところで抑えつけた。
「でも……そうだな、攫ってしまおうか」
ぼそりとジョルジュ様が呟いた。
その言葉にびくりと、肩が跳ねる。
私はもしかしたら、とんでもない人を焚きつけてしまったんじゃないかって。
「さっきまでの、きみはそれを望んでいたんじゃないの?……そんなに怯えなくても、無体な真似はしないさ。俺は彼女が幸せになってくれればそれでいいし、その為にレオンパルトが必要だという事はきっと変わることはないだろうから」
「自分が……幸せにしたいとか、思わないんですか」
「彼女と一緒にいたら、俺が幸せになる自信はあるけどね。彼女はレオンパルト以外とじゃ多分幸せにはなれないんじゃないかな」
「なんで、なんでそこまで…あの男にこだわるの…」
「きみには、きっとわからないんだろうね」
まただ。私にはわからない、なんて。ひどい言葉だ。ひどい、ひどい。
「まあ、わからないほうが幸せだと俺は思うけど…」
そう言ってジョルジュ様は、気のせいだろうか、どこか悲しそうに笑った。
「俺は、わかるよ。俺はね、この世で一番彼女の事を知っているという自信がある」
ジョルジュ様らしくない、言い方だった。人当たりの良いジョルジュ様の中にひっそりと息を潜めていた激情のようなものがゆっくりと息を吐いたようで、私はそれがとても恐ろしかった。
「それだけは、譲れない。レオンパルトにも、誰にも」
口元は弧を描いている。けれど目が、笑っていない。
「そんなにお嬢様を想っていて、なぜあの男の存在を認めることが、できるの…」
ぽとりと零れた言葉に、ジョルジュ様は今度は愉快そうに笑った。
「俺はね、彼女を自分のものにしたいなんて思ったことはないよ。彼女は誰にも縛られない、そういう生き物だからね」
「誰にも……縛られない」
私もそう思っていた。確かにそう思っていたのだ。あの男といるお嬢様を見るまでは。
「彼女は、彼女だけのものだよ。今も、昔も、ずっとね」
ジョルジュ様は笑った。本当に愛おしそうに。目を細めて、まるでなにかに焦がれるように、笑った。
「それは、どういう……」
「まあそうは言っても、やっぱりあの能天気男には個人的に腹が立つところもあるからな。少しお灸を据えて泣かせてやろうと思うんだけど協力してくれるよね?」
「え……」
「え……ってきみね、なんでこんなに色々ベラベラ話したと思う?そんなの、協力してもらうために決まってる。大丈夫、もしクビになっても働く場所は後で探してあげるから、安心して協力するといい」
「ええ…!?」
「とりあえず、ノアール嬢をレオンパルトにバレないように、この屋敷から連れ出したいんだけど……」
「ええ!?」
「レオンパルトの泣き顔、きみも見てみたいだろ?まあ、きみが見たくなくても関係ないけどね」
ジョルジュ様はそう言って、楽しそうに楽しそうに笑った。
さて、これがレオンパルト様、そして使用人たちにとっての悪夢の1週間の始まりであった。