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亡国の剣姫  作者: きー子
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漆、暗躍

 森はすっかり夜の闇に包まれていた。

 シオンは荒い息を吐きながら、小川のせせらぎに誘われ、どさりと地べたに座りこむ。

 ねぐらは昨日とほとんど変わりない地点。グラークらの死体から離れただけである。

 あまり近くにいたら、死体と一緒にシオンも獣の餌にされてしまいそうだったのだ。

 できれば移動を続けたかったが、そのための体力がない。傷の手当も必要だ。こんな状態で歩いていたらいつ倒れてもおかしくはなかった。

「……っ、ふ……」

 血が滲んだ革の服を脱ぎ捨てる。これはもうだめだった。血の臭いが染み付いてしまっている。

 衣服は数に限りがあるが、仕方がない。ばらしてただの布にしてしまおうと考える──それならいくらでも使いようはあった。

 下着の白いシュミーズがあらわになる。これも汗と血が染み付いているが、薄手なのでよく洗えば少しはマシになるかもしれない。

 シオンはなんとか焚き木を組んで火をつけたあと、真っ先に短剣の手入れをする。放っておいたら剣はすぐ駄目になる。

 脂をこそぎ落とし、血を拭い、肉を払う。刃を焼いて清め、手際よく処理を済ませたあと、シオンは小川のほうに歩み出した。

 音からしてそう遠くはない。少し進んでいけばたどり着く。シオンは小川のほとりに腰掛け、白い肌をむき出しにして、脇腹の傷口をよく洗っていく。

 血はまだ一向に止まらなかった。濡らした布で綺麗に拭いたあと、しっかりとボロ布で縛っておく。すぐにまた血が滲んでしまうが仕方が無い──鬱血しないように時おり緩めてやる必要がある。

 たったそれだけのことに、シオンはひどく長い時間を費やした。痛みと息苦しさに耐えながらの作業である。たまに意識が飛びそうになったので、冷たい水で顔を洗う。そして最低限の水を汲んだあと、ほとんど這うように寝床に戻る。

 当然その間、周囲への警戒も欠かさない。作業中以外、短剣から手を離すことは一瞬もない。神経を極限にまで集中する。襲撃を受けたら一巻の終わりだ。国からの刺客どころか、熊や狼に襲われただけで今のシオンはたやすく死ぬ。

「……は、ぁ……」

 月明かりすら届かない森深く、頼れるものはささやかな焚き火だけ。

 休めるだろうか、とシオンは自問自答。

 休めなければ死ぬ。気を抜きすぎても死ぬ。二律背反というやつだった。

 死なない程度に休む。死なない程度に気を抜く。どれだけ考えたところで、結局、その程度のことしかシオンにはできない。

 最低限の手当てはもうやった。あとはなんでもいいから食べる。そして寝る。後は完璧な運頼みだ。

 運が良ければ生きのびられる。運が悪ければ骸をさらす。実にわかりやすいことである。

「……ぅ、く」

 痛みを堪えつつ、背負い袋を漁る。中には最低限の衣類と食料。今はどちらも必要だ。

 シオンの身体にあった布の服を着て、上からいつもの黒外套を羽織る。

 食料は残り物のバケット。それに先日狩った鹿肉を焼くことにする。

 鍋というのもお粗末な鉄板を火にかける。これは殺した兵の鎧から拝借したものである。

 十分に熱したあと、柔軟な樹皮に包んでいた鹿肉をのせていく。少し血の臭いがきついのは、解体するときに心臓をやってしまったからだ。胃や膀胱を破るよりはずっとずっとマシだが、貴族育ちのシオンにはなかなかつらいものがある。

 肉が焼けるのを待ちながら、シオンは無心に固いパンをかじった。血の味がするような気がした。

 鹿肉は少しだけ野趣が強かったが、おいしかった。心臓から遠いもも肉なのがよかったのだろう。血の味はしたが構わなかった。少しでも流れた血を取り戻したかった。

 食事を終え、後は寝るだけになったあと、シオンはようやく残された問題に目を向けた。

 魔剣である。グラーク・メルクリウスを主とした魔剣────"奇剣・毒操手"。

 主の意を汲むという離れ業を見せつけたその剣は、今に至るまで完全に沈黙していた。真の姿である蛇腹剣でなく、長剣の姿を偽装し続けている。亡き主の心までは読めない、ということなのだろう。

 念のため目の届くところに置いておいたが、不審な動きは全くなかった。

 いったいどうしたものか。シオンは考える。

 まず最初に壊そうとしたのだが、これはシオンでは難しそうだった。魔剣はかなり頑丈で、大岩や巨木に叩きつける程度では壊れそうにない。

 使ってみてはどうかとも考えたが、存外に重いのでこれも難しい。変形機構が組み込まれているせいか重心も偏っている。異様に使いづらいのである。

 捨てるか。

 捨ててしまおうか。

 頭の中を幾度もめぐったその考えがちらつく。

 埋めるか、川に流すか。

 いざどう捨てるか考えると、どちらもあまりよくない気がした。埋めるにしても流すにしても、もし土地に悪影響が出たら困る。

 機能停止しているにしても"魔剣"なのである。しかも毒を撒き散らすような魔剣。用心するに越したことはない。

 それで結局、野晒しにしておくことにした。近くに深い沼があったので人はあまり近づかないはず。風通しはいいから空気が淀むこともないだろう。素人考えなりにそう思った。

 魔剣をぽい捨てして帰ってきた途端、急激に眠気が押し寄せてくる。厄介事が片付いて、緊張の糸が切れてしまったようだった。

 考えなければならないことはまだまだ多い。けれどもそれは今でなくてもいい。今はただただ眠りたい。

 ぱちぱちと火花が爆ぜる焚き火を前に、シオンは膝を丸める。白いかんばせを膝に埋める。泥のような眠りに沈んでいく。

 シオン・ファーライトの永い一日が、ようやく終わりを告げた。



 一台の馬車が、王都中央にある十字通りを駆け抜けていく。

 王都ファルクスの町並みは少しずつ落ち着きを取り戻しはじめていた。

 新王トラスの即位に反対する抵抗勢力はのきなみ制圧済み。散発的な決起が相次いだため、新生ファーライト王国首脳陣はそれを首尾よく鎮圧することに成功した。

 反旗をひるがえした逆賊は一人残らず処刑された。ここ数日は晒された首や吊られたままの死体などが絶えなかったが、今日に至ってはそれも見当たらない。

 万事うまくいっている。馬車から見える王都大通りの光景をうかがいつつ、宰相バルザックは深く頷く。

 まだ日も高いというのに城下は死んだように静まり返っている。だがそれは一時のことに過ぎない。新生王国のお膝元である王都を無事に平定した以上、じきに滞っていた物流も復活することだろう。そうなれば市場にはまた賑わいが戻ってくる。

 その時こそ文官の面目躍如。先の王の時代のような終わりの見えない軍拡は打ち切り、内治と経済的な発展に力を入れるべきである。その目的のためならば、バルザックはなんでもやるつもりだった。

 ────だがバルザックの野望の前には、その障害となる邪魔な雌犬が一匹いる。

「止めてくれ」

 御者に命じて馬車を停めさせる。

 そしてバルザックは王都の西区画に降り立った。この区画に居を構えるものは富裕層が多く、立派な装いの屋敷がいくつも立ち並んでいる。

 バルザックが目の前にしているのも、そのような屋敷のひとつである。西区画の中では質素なほうだが、使用人がいなければ維持管理にも苦労するような規模。白亜の石造りはいっそ眩しいほどだった。

 バルザックは迷うこと無く屋敷のほうに歩いていく。その後ろから四人、護衛の騎士がついてくる。王都の安全は確保されたが、万が一ということもある。

 なにせバルザックは、新王トラス・ファーライトの懐刀。もしものことがあっては王国の行く末に支障が出る。今、王国は彼を失うわけにはいかないのだ。

 屋敷の番兵に招き入れられ、バルザックは邸内に踏み入った。

 前もって約束があることを女の使用人に伝える。

 連絡は問題なく行き届いていたようだ。使用人はすぐに了解したようで、バルザックたちを主人のもとに案内する。

 ここに足を運んだのにはわけがあった。この屋敷の主人に頼みたい用があるのだ。それも火急の要件である。

 ────それは王にもたらされた『グラーク・メルクリウス、逆賊に敗れり』という凶報と決して無関係ではない。

「入ってもらいたまえ」

 使用人が扉越しに来客の旨を伝えると、室内から男の声が返ってくる。

 老いと渇きに満ちた声色だった。今にも干からびそうな喉を震わせる光景が容易に想像できる。間違いなく老人のそれである。

 それを聞き、バルザックは遠慮なく主の部屋に入室する。四人の護衛をともなったままだ。失礼としか言いようのない振る舞いだが、バルザックにしてみればこれはこの程度は当然の備えだと考えている。

 ──この屋敷の主とは、それでも警戒し足りないほどの人物なのだから。

「久しゅうございますな」

 バルザックが姿を見せた途端、さえざえとした視線が向けられる。

 まるで刃のように剣呑な目付き。鋭く細められた眼がバルザックを一瞥したあと、彼は杖をついてゆっくりと立ち上がる。

「いやなに、このたびは突然の来訪を迎え入れていただき、まことにありがたく存じます。なにぶん急ぎのことでしてな、これはジムカ殿を差し置いて任を果たせるものは他にないと、馳せ参じた次第でありますぞ」

 バルザックは機先を制して恭しい口調で頭を下げてみせる。護衛こそ下げてはいないが、礼を失するつもりもない。

 ジムカ。そう呼ばれた男は、小柄で痩せ細った肉体が目立つ、ひとりの老人であった。

 年の頃は七〇を下るまい。頭はすっかり禿げ上がり、顎下に絡み合う糸のような白ひげたくわえられている。肌身にはくっきりと、まるで大樹の年輪のような深いシワが刻まれていた。

「ほ、ほ。この老骨を引きずり出すことが今になってあろうとは、まさか思いませなんだ。長う生きても、全く、世のよしなしごとはわからぬものですなあ」

 ジムカは老体らしからず背筋をぴんと伸ばし、しわくちゃの細面(ほそおもて)に好々爺めいた笑みを浮かべる。

 ただの見せかけであることは間違いなかった。薄く細められた目付きが異常なまでに鋭いのである。今にもバルザックを射抜かんかというほどに。

 それというのも無理はない。バルザックには身に覚えが大いにある。

 かつては旧ファーライト王国内において将の地位にあった男。現在は一線を退いているが、類稀なる剣の遣い手ゆえに"魔剣守護"の任と屋敷を丸々与えられた。多大なる王国への献身と貢献に報いて──そしてなにより、死ぬその時まで戦いの場に身を置くためにも特殊な立ち位置にある。

 同時に、武断王と世に知られるルクス・ファーライトの剣の師であることはあまりに有名だった。

 人呼んで"剣魔"ジムカ。ジムカ・ベルスクス。

「おかけくだされ。なにゆえに私は駆り出されねばならないか、任務は引き受けとうございますが、今ある役目をないがしろにするわけにはまいりません。まずはお話をうかがいましょう」

 そういってバルザックに椅子を勧めるジムカ。声には拭いがたく皮肉の色がある。

 王都攻略後、バルザックはジムカに蟄居の令を発していたからだ。それにも構わず向こうから用があるとは、なるほど笑い話もいいところだろう。

 ジムカは派閥でいえば確実に先代国王ルクス寄りになる。ことによっては兵を率いて反旗をひるがえす可能性もある、とバルザックは読んだのだ。

 それに釘を刺すかたちでバルザックは令を発した。簒奪した王位とはいえ王位には違いない。新王トラスが下知した令を破ったとなれば、ジムカを叛逆者として討つ正当性が生じる。古参の将兵たちの人望篤く、数々の軍功を成し遂げたジムカであってもそれは変わらない。

 だが予想に反して、ジムカは立たなかった。命じられるがままに蟄居に応じ、まるで何事もなかったように屋敷で日々を過ごしていた。使用人を介して内乱で住屋を失った民衆らに寝床や食料を提供するなど、秩序を維持する方向には努めていたようだが、それだけだった。

 それがバルザックには不気味だった。残される家族を(おもんばか)ったという見方が支配的だが、あまりに剣客らしくない。

「そうですな。あいにくなことですが、あまり長く時間を費やせるほど暇はしておりませんので」

「ほほ。なるほど。それでも宰相殿が直々においでなさることを鑑みるに、破格と申しますか、それなりにお困りのようで」

「ははぁ、これは。ジムカ殿にはお見通しのようでしたな。一本取られましたぞ」

 表面上こそなごやかに会談は続く。その実は腹の探りあいにほかならない。

 本音をいえばバルザックは蟄居などで済ましたくはなかった。目の前の老人は真っ先に断頭台に送り込みたい人間のひとりである。

 現王権が敵視する軍閥の出身、かつ人望には極めて篤い────こんな人間を放っておくのは、火種をわざわざ抱え込むも同然だろう。

 交わす言葉はまるで老いた妖鬼の化かし合い。このような場に慣れていないせいか、護衛の騎士たちは完全に浮き足立っている。

 途中、茶を淹れにきた使用人は用が済むやいなやそそくさと退室した。

「この際、率直に申し上げますぞ────"魔剣遣い"グラーク・メルクリウス臨時少佐が、逆賊の娘に敗北を喫したのです」

「ほお……」

 ジムカは眉を釣り上げ、目を見開いた。興味深げに顎髭をさすり、首を傾げる。

 心底驚いているようにも、すでに知っていたようにも見える。その心底を決してうかがわせない表情だった。

「それは(まこと)ですかな。にわかには信じかねますなあ。万にひとつ心得があったとして──時の流れがめっきり早う感じられるようになりましたが、シオン嬢はまだ子どもであったはず」

 もっともらしい言葉を口にするジムカの真意は全くわからない。

 全てを知ったうえで、バルザックに問うているのではないか。ひょっとすれば、シオンを鍛え上げたのもこの老爺なのではあるまいか。彼はルクス・ファーライトの剣の師なのである。いかにもありそうな話ではないだろうか。

 疑心暗鬼に陥りそうになる心を抑え、バルザックは用件だけを口にする。

 この依頼は、いうなれば試金石のようなものだ。ジムカの真意をはかるための、試金石。

「現場を見たわけではありませぬ。しかし配下のものが動かぬ証拠────グラークの首を持ち帰ってきておりましてね。身体のほうはズタズタにされ、両手首から先は失われていたとうかがっております。まず獣のたぐいではないでしょうな。逆賊の娘に誰かが化けておる可能性までは否定しかねますが、いずれにせよ相当の手練が彼女の近くにいる、ということです」

「しかるに、誰にせよ」

 ジムカは聞くだけ聞いて、興味はなさそうに首を振った。カップを持ち上げ、湯気を立てる黒茶を口に含む。

「グラーク殺しの仕手を私に始末せよ、と」

「話がお早い」

 まさに、とバルザックは首肯。

 同時に、その物分かりの良さに不審感を覚える。

 不肖の娘とはいえ、愛弟子の実娘。前王の忘れ形見を苦々しく思うところも無いではなかろうが、その手にかけるとなればどうか。

「なにせ"魔剣遣い"がひとりやられておるのです。この際、生死を問うてはおられますまい。できれば生け捕りが最善ですがな。彼奴は処刑台に上らせてやらねばなりますまい、というのが私の正直な気持ちですぞ」

 言葉とは裏腹に淡々と述べながら、バルザックはジムカをじっと見る。

 これといって感情をあらわにする様子は見受けられない。考えをめぐらせるように、枯れた指先がこつこつと杖の柄尻を叩いている。

「一向に、構いませんな。強いていうならば、私のような老体を引っぱり出さずとも適任がおるのではないか、とは思いますが」

「これは異なことを。ジムカ殿は我が国随一の剣士にして、"魔剣遣い"の中でも一二を競う遣い手でございましょう。これは確実を期さねばならぬこと、是非にもジムカ殿にお頼み申し上げたく」

「それは王の命ですかな」

「トラス新王は今すぐにも逆賊の娘を引っ立ててるよう仰っておいでです。この命を果たすためにも、ジムカ殿の力添えは必要なこと。功がなったあかつきには必ずや新王のお耳に入れ、よいように取り計らってみせますぞ。これは私の胸に誓ってのことです」

 バルザックは威勢よく恰幅のいい胸を叩き、断じる。

 その言葉は真実であると同時に嘘でもある。ジムカの剣腕を必要としているのは本当だった。

 なにせシオン・ファーライトの剣術はいまだ未知数。それも"魔剣遣い"を葬り去るほどの業前ともなれば、"剣魔"ジムカをあてがいたくなるのが人情というもの。

「ほ。……委細承知。しからば、"魔剣(あれ)"を抜いても構わんのですな」

 ジムカは部屋の壁に目をくれる。

 そこには一振りの剣が立てかけられていた。

 黒一色の持ち手と柄。丸鍔の中心から伸びる刃は漆塗りの鉄鞘にぴったりと包まれている。

 刃は曲刀めいて湾曲していたが、そのくせ奇妙に細く、薄かった。これでは簡単に折れてしまうのではないか、と危惧してしまうほど。

 武器というよりも芸術品めいた美しさを思わせる魔性の一本が、そこにはあった。

「勿論ですぞ。新王陛下はなんとしてでも、なにを使ってでも、との仰せ。駿馬を私どものほうで用意いたしましょう。娘はつい先日、レーヌ──穀倉地帯の中央部に見られたようでしてな、近いうちに発てばおそらく、六水(ろくすい)湖の辺りで追いつくはず。──よろしいですかな」

 六水湖は王国・帝国間をまたぐ死骸山脈から王国側に流れこむ水源の行き着く先である。六水湖から配された支流は途中でいくつも枝分かれして、穀倉地帯のあちこちに細かな小川を流している。

「うむ。では、支度をせねばなりますまい。本日はこれで手仕舞いといたしましょう。メリエッタ、宰相殿を案内してやってくれたまえ」

 ジムカが卓上のちいさなベルを鳴らすと、すぐに使用人が姿を現した。

 話が無事まとまりそうな気配に護衛の騎士たちも胸を撫で下ろす。ジムカが一足飛びで斬り込める範囲の中に彼らはずっといたのである。味わわされた緊張感たるや相当なものであろう。

 バルザックは使用人に先導されながら、一度、ジムカを振り返った。

「ジムカ殿」

「うむ」

「我らの手中にあるもの、ゆめゆめ忘れなさるな」

 念のため、それとなく脅しをかける。万が一、ジムカとシオンが共謀するようなことがあってはならない。

 すでにバルザックは、ジムカの親類縁者を自らの手の届くところに収めていた。

 もしジムカが反旗を翻すようなことがあれば、犠牲になるのは彼自身ではなく彼の家族なのである。

 瞬間、凄まじく鋭い目付きがバルザックを見据えた。

「……ッ!」

 否応もなく威圧される。喉が詰まったように声が出ない。バルザックの額に冷や汗がにじむ。

 ほんの一瞬のことだった。他の誰もが気づきもしない。バルザックの護衛の騎士たちさえも。

 まるで何事もなかったように、ジムカは杖をついて立ち上がる。

「ほほ、勿論、承知しておりますよ。仰せられるまでもなく、しかと」

 こつ、こつ、こつ。

 ジムカはゆっくりと壁のほうに歩み寄り、立てかけてある剣を手に取った。

 とても健在のようには見えない老いさらばえた立ち姿。剣を持てるかも危ぶまれるほど、その身はひどく痩せ細っている。

 しかしわずかに刃を抜いた刹那、枯れ枝のようだったジムカの痩身に芯が入る。

 狭間にかいま見える、"魔剣"の美しくも妖しげな輝き。その光を目に焼き付け、老いた剣客はまるで水を得た魚のように生気を漲らせる。

 ごくり、とバルザックは息を呑んだ。

 その刃は、いつか必ず己に向けられることだろう。そう確信させるほどの熾烈な剣気が、ジムカの身体から発せられているのだ。これで動じぬほどバルザックは呑気なたちではない。

 やはり、この男はいつか除かねばならない。今は武官や軍部の根強い反対があるために難しいが、必ず時宜は訪れるはずだ。

「誠心誠意、やり果せるようにつとめますゆえ。宰相殿も、ご自愛なされよ。私と違い、そなたはこの国に必要とされているのです」

 刀身の根本だけをあらためると、ジムカは再び"魔剣"の刃を鞘に納めた。

 老爺はにこやかな笑みすら浮かべ、見送りの代わりにとバルザックに深く礼を落とす。

「……馬のほうは、明日にもご用意させていただきますぞ。仰って下されれば、いつでも遣いのものをやりますのでそのつもりで。これにて私は失礼させていただく」

「なれば、明日に連絡をやりましょう。急ぎのほうがよいでしょうからなあ」

「それはまことに結構。では」

 バルザックは背を向け、足早に主の部屋を退室する。

 使用人に案内されて屋敷を辞するまで、ずっとあの鋭い目付きがバルザックの脳裏から離れることはなかった。


 待たせておいた馬車に乗り込み、バルザックは御者に命ずる。

「城のほうへ。急ぎだ」

「──は」

 よどみなく走りだす馬車に揺られながら、バルザックは考えをめぐらせる。

 ジムカの移動手段の手配。そんなものは後回しでいい。それよりバルザックには率先してやるべきことがある。

 ほとんど強引に駆り出したジムカの監視。バルザックはこれを子飼いの諜報隊にやらせようとしていた。グラークが率いていたのは諜報員のほんの一部で、まだまだ替えがきく人材である。

 だが、いざ"剣魔"ジムカ・ベルスクスを前にして考えが変わった。並大抵の兵ではあれを見張ることすら不可能だ。是が非でも、より練度の高い部隊をつけなければならない。

 そして彼らに替わるものの存在に、バルザックは心当たりがあった。

 穀倉地帯の辺境部に根を張る国内の少数部族。かつて王国に仇なした彼らは即位以前のルクスに打ち負かされ、ファーライト王国の領地に併合されていた。

 当地の自治権は原住民に完全に委任されている。きわめて寛大な処置といえるだろう。それというのも、時の王が"彼らはあまりに我々と違いすぎる"と認識したからだった。

 ただし兵役は課せられている。一種の人質のようなものだが、兵として極めて優秀でもあるからだ。

 かの部族のものは概して人より優れた身体能力を有し、人を遥かに逸脱した感覚器官を持つ。斥候兵にはうってつけである。

「人ならざるものの手を借りようとは、私も焼きが回ったものですな」

 自嘲するような声に応答はない。本気でそう思っているわけではないから構わなかった。使えるものは、なんであろうとも使うべきだ。それがまさに人外、あるいは怪物と呼ばれるものであろうとも。

 ────人狼族。

 "魔剣遣い"のひとりを擁する、かの部族で構成された遊撃部隊。

 いざとなれば、彼らにジムカを襲撃させるのも悪くはない。彼らは"剣魔"に相当数の同族を殺されていたはず。決して悪い顔はしないだろう。

 見事逆賊の娘を討ち取るも、戦の中で負った傷により不幸にも命を落とす──剣の道に生きた狂人にすれば本望だろう。ベッドの上での老衰でなく、戦場の刃傷で死ねるのだ。

 そんな筋書きを頭の中に描きながら、ひとりバルザックはほくそ笑んだ。

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