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亡国の剣姫  作者: きー子
20/34

弐拾、王都騒乱

 八槍岳(はっそうだけ)の峠を越えて。

 メア・リィとの戦いから、すでに数日が経っていた。

 八槍岳は峻険な山谷が続く過酷な連峰である。

 道無き道を無理やりに進む必要が出てくることも往々にしてあった。

 ファルという規格外な移動手段があったにせよ、平坦な道のりでは全くない。

 その行程をなんとか乗り越えたのだ──シオンが思わず気を抜いてしまったのも、決して無理からぬことだろう。

 折よく滝壺が見つかったため、シオンたちはここで野営することに決めた。

 釣り糸を垂らせば新鮮な魚が穫れる。もちろん水にも事欠かない。

 ファリアスいわく、ここは六水湖(ろくすいこ)に通じる源流であるという。

 本当かはわからないが、滝壺に見える魚影は大物が多かった。湖から流れを遡って帰ってきたのかもしれない。

 そのままシオンはマシな足場を探して天幕を張る。

 焚き木を組み、火を熾す。

 そうこうしているうちに夕日はとっくに沈んでいた。

 ファリアスが手にした釣果をお供に、ふたりと一匹は篝火を囲む。

「見えるもんなんだねぇ。こんなところからさ」

 ファリアスは地平線の向こう側を見てぽつりと呟く。

 それはシオンにもよく見えた。

 ファーライト王国・華陵帝国の国境線付近にある辺境都市。

 遠く山上から見ればまるで猫の額のようだが、夜でも灯りが絶えない様子は不夜城と呼ぶに相応しかろう。

「……行くことはないだろうけど」

「無論、さね」

 シオンは今や指名手配中の身の上だ。

 確証はないが、おそらく間違いは無いだろう。

 そんな状態で都市なんてものに顔を出せばたちまち厄介なことになる。

 厄介事に巻きこまれるか、あるいは厄介な輩に絡まれるか。

 いずれにしてもまだ良いほうだ。悪ければ獄中から処刑台まで一直線。

 だから当然、シオンは辺境都市を避けてその向こう側──国境線に直接向かうことになる。

 新生王国の魔の手から逃れること。

 そのためには、華陵帝国への亡命が必要不可欠だ。いくらなんでも、国外まで追跡の手を伸ばすのは難しいだろうから。

 シオンはそう思っていた。

「で。どうするつもりなんだい、その後は」

 まるでシオンの考えを見透かしたように。

 鮎の串焼きを頭から噛みちぎりながら、ファリアスの金眼がシオンをじっと見た。

「……私は、生きる。逃げ切る。なんとしてでも、生きのびる」

 確かめるように繰り返しながら、シオンは鮎の腹にかじりつく。

 塩がよく効いている。脂もしっかり乗っている。肉厚な身にはいい感じの歯ごたえがある。

 にも関わらず、シオンにはどこかもさもさした味に感じられた。

「ま、あんたなら市井の堅気に混じってもなんなりと生きていけそうではあるよ。ちょいと想像できないけどね」

 骨ごとばりばりと豪快に噛み砕きながらファリアスは言う。

「……言葉ができないんだけど、できそうなこと、あるかな」

「用心棒なんかどうだい」

「堅気じゃないと思う」

「似合いではあるさ、ね」

 冗談とも本気とも付かない笑み。

 とはいえ実際、シオンの一番の取り柄は剣術を置いて他になかった。

 貴族としての礼儀作法は一通り習ったが、それもあくまでファーライト王国のものだ。

 異国では何の役にも立たないだろう。

「……ううん」

 無心に焼き鮎を齧りながらシオンはちいさく唸る。

 結局のところ、あまりいい考えは浮かばなかった。

 それも当然のことだろう。今の今まで、シオンはただ生きたいという一心で走り続けてきた。

 生きたい。生きる。浅ましいまでにひたむきな生の渇望。それだけがシオンを衝き動かしてきた。

 それだけで良かった。他のことなど考える必要はなかったし、そんな暇もなかった。

 けれども、その先がある。

 どれだけ逃げても、どこまで逃げても、そこで全てが円満に終わったりはしないのだ。

「シオン」

 無言で唇についた脂を舐めていると、不意にファリアスが口を開いた。

「あたしに面白い考えがある。あんたが気に入るかどうかは別にしてね」

「……なに?」

 シオンはかんばせを上げ、目を細める。

「華陵の(みかど)に伝手をつくる。で、言ってやるのさ──自分こそが正当な王国の後継者だ、ってね」

「冗談」

 シオンはちいさく首を振る。

 だが、ファリアスの眼の色は本気だった。

 鋭く細められた金色の瞳がシオンを射抜く。

「あたしは悪くない博打と見るよ。恐らく、帝国は力を貸すさね。正当な王権樹立のための支援。利益も正当性も十分すぎるほどにある」

「それじゃあ、事実上の属国になる」

 そもそも王位に興味はないが。

 例え取り戻したとしても──そのやり方では、悲惨だろう。

 内政干渉、数多の便宜、あるいは通商上の優遇協定。いずれ劣らぬ厄介事を次々に招き寄せるはずだ。

 いっそ現状のほうがまだしも良いと思えるほどに。

「その時はあたしも協力を惜しまない。もしあんたが立つのなら、シオン、あたしは──人狼族は、立つよ。今は独立の機運が相当高まってるから」

「……第三戦力としての参戦」

「そういうことさね」

 華陵帝国のみに貸しをつくるならばまだしも、人狼族が加わるならば話は別か。

 帝国からの干渉はかなり抑制されるはず。地理的には、人狼族のほうが王国と緊密な関係にあるのだから。

 ────とはいえ、それは隣国との火種を生むことにもなりかねないだろう。

 あまり気乗りする話ではなかった。

「……そもそも」

 と、シオンは首をふる。

 そう、そもそもの話だ。

「私は、王位につきたいとは思わない」

 ファリアスは一瞬目を丸くする。

 その後すぐに落ち着きを取り戻して頷く。

 さほど意外な言葉ではなかったのだろう。

「私にはたぶん向いていない──というか、私は何も知らない」

 多くの女性がそうであるように。

 シオンも国政については全くの無知同然だった。

 血統上は王族であるものの、上に立つものとしての教育を受けた経験は皆無。

 とても王座につくことができる人間ではない。

 シオンは素直にそう思う。

「私は王にはなりえない」

 静かに断じる。

 ぱちぱちと弾ける火花をじっと睨める。

 ファリアスはにわかに息を呑む。

 ファルのつぶらな黒い瞳だけが、らんらんと闇の中で輝いている。

「……これはあたし個人の意見だけどさ。シオン、あんたのほうが余程いいと思っている。ふさわしいと思っている。王としての器があると思っている────今の王よりは、ずっとね」

「剣の腕では、王はやれないから」

「知識や知恵なんてのはそれが得意なやつを使えばいいのさ。他人を使うのが長の仕事なんだよ」

 ファリアスは諭すように言った。

 勿論、それは彼女自身の利得のためでもあるのだろう。

 人狼族の悲願。独立の機運。

 シオンが旗揚げすれば、それらが達成される可能性は爆発的に高まる。

 そしてそれは一概に、シオンの利害と対立するわけではないのかもしれない。

 それでも。

 それでもシオンは、首を縦に振らなかった。

「この国を取ったって、仕方がない」

「自分の国じゃないかい。あんたの生まれ育った国だよ」

 ファリアスは一瞬、怪訝そうに眉根を寄せる。

 シオンはじっと、海のように深い蒼色の瞳で、まばゆい篝火を見つめている。

「私の国は、もう、()いよ。ファリアス」

 それに、シオンが本当に正当な後継者として見込まれていたならば。

 剣などではなく、帝王学のひとつでも仕込んだことだろう。

 ──それに関しては、前王陛下も自信がなかったのかもしれないけれど。

 そんなことを思って、シオンはちいさく笑う。

 ファリアスはそれ以上なにもいわなかった。

 沈黙。

 ぱちぱちと燃え続ける火を見守っていると、先に休むようファリアスに勧められる。

 それもいつも通りのこと。

 いつも通りだけれど、今日ばかりは少し気が引けた。

 そのままじっと篝火に向き合っていると、不意に声。

「寝れないってんなら一緒に寝てやろうかい」

「いい。寝る」

「そうしときな」

 まるでからかうような声だった。

 ファルをそっと撫でたあと、天幕にもぐりこむ。

 黒馬も脚を折りたたんですっかりくつろいでいる。

 彼にならって、シオンも大人しく休むことにした。

 身を横たえる。その間、ファリアスの言葉が何度ともなく反芻される。

 正直、心惹かれる提案ではあった。

 王になりたくなんてないし、なれる気もしない。その言葉に偽りは全くない。

 けれども────"敵"に一矢報いれるならば、やる価値はある。

「……は」

 呼息とともに恩讐の想いを呑みこんだ。

 そんなことのために、後世へ禍根を残すつもりはない。

 少なくとも、他国に縋ったりするのは絶対に無しだ。

 他に全てが上手くいく道筋があればいい。けれども今のシオンには見当もつかなかった。

 目を閉じて、漠然と考えをめぐらせる。

 五分もしないうちに、シオンの意識は眠りに落ちた。



 王都ファルクス。

 とある屋敷の広々とした執務室に、五人の男が集まっていた。

 五人はそれぞれ等間隔で円卓を囲み、互いに簡単な挨拶を交わしている。

 この屋敷は貴族のものではない。戦中から頭角を表していた有力商人の所有物だ。

 果たして、それゆえか。男たちの顔ぶれは様々なものであった。

「それで、本当に盗聴の心配はないのだな」

 男のひとりが声をひそめて言った。

 彼は徴兵されて戦場の最前線で勇敢に戦った、元王国軍人だった。

 かつては小隊を率いたこともあったが、片腕を失い本国に送還された。

 いわゆる傷痍軍人であり、今は一介の市民に過ぎない。

「心配ない。ここは使用人も含めて最小限のものにしか知らせていない。置くように決めた人間も、十分に精査した。信頼がおけるものばかりだ」

 応じたのはこの屋敷の所有者。王都の有力商人のひとりである。

 宰相バルザックの図らいによる関税の調整。その他諸々の細かな規制や規則の緩和。

 多くの商人を迎え入れるべく執り行われた政策は、狙い通り王都の商業活動を活発化させた。

 市民が絶対に必要とする食糧などについては部分的に価格統制を実行。

 その他は市場原理に委任し、競争の原則が働くに任せる。

 結果として、彼のような有力商人が市井に生まれることとなった。

「ですが、彼は本当に信頼できるのですかな」

 そういって怪訝そうに瞳を伏せる線の細い男。

 その隣に座る恰幅のいい男も同調する。

 彼らはそれぞれ、商業組合と工業組合の代表者に相当する立場である。

 ふたりが一様に不信の視線を送ったのは、やはりひとりの壮年の男だった。

「私は今日、ひとりの私人としてこちらを訪れた。是非、忌憚ない意見を聞かせて頂きたいと考えております」

 スラル少将。

 新生ファーライト王国政権下に属する、高級武官のひとり。

 かつて新王トラスが提言したシオン・ファーライトの捕縛に対し、強硬に反対した男でもある。

「とはいえ、私が信頼の置けないものであることは百も承知。ゆえに、私が現王権に対してどのような考えを持っているか、知っていただければ話が早いと思われるのだが、いかがでしょう」

 そう続けたスラル少将に異論を挟む声はなかった。

 有力商人が全員を代表して彼の発言を促す。

 スラル少将は一度咳払いして、言った。

「まずここに集まられている方々は、ここ新生ファーライト王国にて、国政への参加を要求する市民運動、その中核をなす方々だと理解しております」

 それぞれがそれぞれ、頷く。

 やはり異論はない。

 ──市民運動の元をたどれば、原因は銃という武器にあった。

 銃はあらゆる市民を兵士に変えることができる。王都の市民の中にも、徴兵されて銃を手に戦場へ向かった退役軍人が少なくなかった。

 彼らには国を護るために戦った、という自負があった。事実、彼らは騎士に勝るとも劣らない勇敢さで敵兵と戦ったのだ。

 自分たちにも、国の舵取りに関わる権利がある。

 市民たちがそう考えたとて、一体どれほどの不思議があるだろう。

 バルザックを代表とする文官たちは、この事態を全く予想していなかった。

 民衆感情を慰撫するべく娯楽(サーカス)の提供を画策しているようだが、対策効果は思わしくない。

 当然のことだろう、とスラル少将は結論付ける。

 現実の前線を知る武官のひとりとして、このような市民の動向は十分に予想がつくものであった。

「私は大枠ではあなたがたの運動に賛意を表明する。そして、現王権の体たらくは全くもってどうしようもない」

 政権側の人間が発するものとは思われない言葉だった。

 他の四人がにわかに目を剥く。

 出るところに出れば叛逆罪を言い渡されてもおかしくないだろう。

 スラル少将は構わず続けた。

「────そもそも、王権などというものがもう、甚だしく時代遅れなのです」

 ルクス・ファーライトの確保直後に降伏し、新王トラスの政権下に取り入ったスラル少将。

 新生王国発足後は、前役職を引き継いで新王トラスに忠誠を誓った。

 それが許されたのは、ひとえに新生王国の人材不足のためであろう。

 しかし彼の思想は、圧倒的に前王ルクス寄りだ。

 数多の戦場を経験した"武断王"ルクス・ファーライト。彼ならば、市民が政治参加を求める動きなど容易に予測できたはずだ。

 ひるがえって、新王トラスの至らなさと来たらどうだ。

 いかんともしがたい臆病さ加減と、その裏返しである癇癪持ち。

 決断力に著しく欠け、今となってはほとんど宰相の言いなりという有り様である。

 第一、トラス・ファーライトの王権の正当性を担保するものは全くない。

 彼は確かに王族だ。だが、正式に王位を譲位されたわけではない。格別に民衆の支持を得ていたわけでもない。

 新王トラス・ファーライトは、結局のところ、クーデターによる王位の簒奪者に過ぎないのだ。

 民衆の支持を得ることができていたなら話は違っただろう。正当性は後からついてくる。

 宰相バルザックなどはそう考えていたし、実際それほど間違った考えではない。

「なかなか……少将殿は……我らに負けず劣らず、革新的な考えをお持ちのようですな」

「だが、一理ある。なんでもトラス王は"前王の忘れ形見"の報復を恐れて臥せりがちというではないか」

「ただの噂ではあるまいか」

「いずれにせよ、呆れた話だ。とても王の器があるとは思えませんな」

 だが、結果はご覧の有様だ。

 何が悪かったわけでもない。しいて言うならば、新生王国側は時流を読み違えた。

 銃火器の台頭や商業活動の活発化により、市民の地位は相対的に向上した。そう簡単には無視できないほどの勢力を形成していた。

 圧倒的に強大な権力を有する王、ないし貴族が無知蒙昧な民衆を善導する────

 そのようなやり方は、刻一刻と時代遅れなものになっているのだった。

 こうなると、新生王国の王権の正当性は全く心もとない。

 先のクーデターも、民意を全く無視した、頭越しの王位の簒奪と見なされる。

「このような言葉のみで信頼に足るとは夢にも思いませんが。ともあれ、私は心からそのように思うのです。そのためにも、あなたがたのような勢力の台頭も、必要なものであると考えます」

「いえ、新たな知見を得られました。こちらから感謝を申し上げたいほどです」

 果たして、スラル少将の宣言は市民らに一定の信頼を得た。

 なんとなれば、彼らにとって王とはあって当然のものだったからだ。

 全ての前提。神のごとき存在。

 それが市民にとっての王というもの。

 参政権を要求する市民たちにしても、王を排することなどよもや考えもしなかった。

「王を排除すべきとまでは私も思いませぬ。ですが、ひとりの王に強権が集中する現在の状況は時代に見合っていない。いささか、不健全と言わざるをえない」

 バルザックを代表とする主流派による専横。

 その打破を目指すのがスラル少将のような武官を主とする反対派である。

 権勢の不均衡を解決するためにも、市民の参政権獲得を支援することは反対派にとって有意義。

 スラル少将はそのように考えていた。

 彼は他の四人にすっかり溶けこみ、運動の落とし所や今後の展望を意見として戦わせる。

 現在、運動は平和的なものに留まっている。これを継続する方針で五人の意見は一致した。

 武力はあくまで最後の手段とする。

 幸い、現在の王都の情勢は比較的落ち着いている。

 解決すべき喫緊の課題はないのだ。急ぐことはない。

 新生王国側が武力に訴える可能性はある。だが、それにも限界があるだろう。

 労働者が一斉にサボタージュを決めこめば、兵站の生産はすっかり止まってしまうのだ。

 例え武力に頼らずとも、市民たちには王権と戦う手段が十分にある。

 ゆえにスラル少将は、市民運動の行く末に、希望的な展望を持っていた。

 おまけに主流派は、内部にも大きな問題を抱えている。

 ────前王ルクス・ファーライトの末姫、シオン・ファーライト。

 その処刑を強硬に主張したバルザックは、いまだに彼女を捕らえることができていない。

 不確かな情報によれば、多大な戦力を払いながらその大部分を喪失。

 宰相バルザックは不正規作戦を実行する秘密部隊を抱えているという黒い噂もある。

 叩けば埃はいくらでも出てきそうだった。

 間違いなく時流は我らにある。そう思えばこそ、スラル少将とて楽観的にもなるというもの。

 かくして長きに渡る会議は円満に終了した。

 有意義な会談であった、と自信をもって言えるだろう。

 近いうちの再会を約束し、四人は時間をずらして屋敷を出る。

 スラル少将は有力商人に案内され、特別の裏口から屋敷を辞した。

 外に出ると、すっかり夜が更けていた。

 王都の夜はほの暗い。

 まばらに立ち並ぶ"灯火(トーチ)"を頼りに、スラル少将は待たせていた馬車の元に向かう。

 道の途中、尾行などには十分に気をつける。

 ここに出向くことはほとんど誰にも知らせていない。それでも、念には念を入れて警戒しながら通りを進んだ。

 やがて無事に馬車を見つけ、一息つく。

 "灯火"の近くに停めてあった馬車に乗りこみ、スラル少将は命じた。

「今日は戻る。屋敷にやってくれ」

「ハイ」

 応じる御者の声に、スラル少将は一瞬違和感を覚えた。

 聞き覚えがないわけではない。だが、妙に訛りのある声のような気がしたのだ。

 だが、スラル少将はその違和感を受け流した。

 少し疲れているのだろう。なにせ会談は半日近くに及んでいた。

 低い嘶きとともに馬車が緩やかに走り出す。

 響く馬蹄の音。立ち並ぶ"灯火"の景色が後方に流れるのをスラル少将は横目に見る。

 疲労感からか革張りの席に深く腰を下ろす。だが、緊張は決して解いていない。

 なにせ今日は、秘密裏の訪問だったのだ。護衛のひとりすらいないこの状況、どれだけ警戒しても警戒し過ぎることはない。

 怪しげな追跡者などはいないか。スラル少将は絶えず周囲に視線を張り巡らせる。

 しかし、幸いというべきか。王都の外縁部まで来ると、他の馬車どころか人影さえほとんど見当たらなかった。

 大過なく屋敷に戻れそうだ。

 ──そう思った瞬間、スラル少将は席から弾かれるように跳ね起きた。

 扉の隙間から外を見る。

 襲撃者の類は、確かにない。

 だが────いつもと見える風景が違ってはいないだろうか?

「おかしいぞ。道を間違えているのではないか」

 御者に言いさして、気づく。

 この御者は、本当に、スラルに仕えるものなのか?

 瞬間、スラル少将の頭の中で警鐘がかき鳴らされる。今すぐ外に飛び出せと全神経が一斉に叫ぶ。

 手遅れだった。

「合っていますヨ。問題ありませン────」

 御者はそういって、真っ直ぐ馬車を走らせる。

 馬首は王都の外壁部──堅固な城壁のほうを向いていた。

 巨大な金属と石の塊が目と鼻の先にある。馬車は全力で突っこんでいく。もう間に合わない。

 激突。

 凄まじい衝撃が馬車全体を揺さぶり、スラル少将は箱の中でめちゃくちゃに跳ね回った。

 その手は扉にかかっていたが、一歩遅かった。頭を思いきり屋根にぶつけたせいで、彼はまだ身動きが取れないでいる。

 それを見逃す彼らではない。

 黒い外套にすっぽり隠れた集団がいつの間にか馬車を包囲していた。

 どこに隠れていた、と考える暇もない。

 ひとりは先ほどまで馬車を運転していた御者であった。

 スラル少将が会談に出席している間に、誰かがすり替わっていたのだろう。

 迂闊だった。悔やんでも悔やみきれるものではない。

 彼らは強引に馬車に押し入り、スラル少将を荷車から引きずりだした。

「き、貴様ら────」

 誰の差金だ、一体なんのつもりだ、そのような言葉が彼の脳裏に浮かぶ。

 口に出されることはなかった。すぐに轡を噛まされ、そのまま地べたに放り捨てられる。

 なにも聞くことはないと言わんばかりに。

「反乱分子には死んでもらう」

 集団のひとりが手短に言い、彼らは彼らの任務を実行した。

 スラル少将の頭部を狙い、脚甲に覆われた脚を叩きつける。

 まるで果実のように弾ける頭。

 スラル少将は死んだ。彼は石畳のきたならしい染みと化した。

 最後に思い浮かべたのは、宰相バルザック。この襲撃を企てたであろう男のことであった。

「撤収スル」

 集団の中には、内側に紫紺色のローブをまとったものも紛れている。

 "僵葬会(きょうそうかい)"の面々。

 メア・リィ・シェルリィが遺していった彼らは、今もバルザックの元で暗躍を続けていた。

 集団は速やかにその場から立ち去る。方向もてんでバラバラに散り、証拠はなにひとつ残さない。


 ────突然のスラル少将の死。

 翌日に発見された死体から、この件は不幸な事故として処理された。

 御者が馬車の操縦を誤り、壁に激突。その勢いで席から投げ出されたスラル少将は頭から地面に叩きつけられ死亡。

 事故の経緯についてはそのような絵が描かれた。

 違和感を覚えるものも当然いたが、なにものかの関与を示す証拠は何ひとつない。

 御者が見つからないのは奇妙であったが、後日、彼は自殺死体で発見された。

 責任を問われることを恐れて事故現場から逃げ出したが、罪悪感から自死を選ぶ。そういった物語が描かれ、全ては丸く収まった。

 このような不審死は、その後、奇妙にも相次いだ。

 死者の多くは王権に反対的な立場を取るものであった。政権下のみならず、市井からも犠牲者が出た。

 しかし市民たちは止まらなかった。運動は過熱化の一途を辿ることになる。

 結果的に市民運動の沈静化は見事に失敗した。彼らは、またも市民の熱量を見誤った。

 相次ぐ不審死に対して宰相バルザックには疑惑の目が向けられたが、

「私どもの関与を示す証拠は何ひとつ無いというのに。大方、内部抗争の類でありましょう。あるいは、運動を過激化させるための自作自演やも知れませんぞ。ことに及んで、市民の参政権などというもののために命を無駄にするなど、全く馬鹿げた話ですな」

 と、彼は一向に取り合わなかった。

 結局のところ。

 彼を代表とする主流派にとって、民衆とは、"善導"の対象でしか無かったのである。

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