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亡国の剣姫  作者: きー子
16/34

拾陸、蠢動

 王都ファルクスには闇がある。

 上下水道の整備当初、等間隔で設置されていた灯籠のために灯火通り(トーチウェイ)と呼ばれていたのも今は昔。

 そこは経済状況の悪化から、食うや食わずの浮浪者や、職を失った食い詰め者、都市上層を追われた犯罪者などで溢れかえった。

 王都の地下を走る下水路の治安と衛生は瞬く間に劣悪化。誰が言ったか羽蟲通り(ローチウェイ)と、人々はそう呼び忌み嫌った。

 しかし現在、羽蟲通りは完璧な静寂に包まれている。人影は一切見当たらない。

 ────新生王国の樹立とともに、都市計画の一環として、"大清掃"が実行されたからだ。

 計画を主導したのは宰相バルザック。

 一掃された中でも優秀な能力を持った盗賊のたぐいは、彼の配下──諜報部隊に引き入れられている。

 宰相の右腕。陰謀屋の実行部隊。そう囁かれる諜報部隊を数人引き連れ、バルザックは薄暗い下水道を歩んでいた。

 都市の広範にわたって張り巡らされた下水路は、きわめて複雑に入り組んでいる。

 まるで迷宮のようだった。

 じめじめと湿った環境には羽蟲やどぶねずみが絶えずはびこり、堪えがたい腐臭が立ちこめる。

 当然のことながら、好んで足を踏み入れたい場所では全くない。

「全く。このような場所を選ぶ輩の気が知れませんな」 

 ましてや、国の頂点に立つ宰相ともあろうものがどうして足を運ぼうか──

 しかし現実にバルザックは、しばしばこの地を訪れていた。

 正確には地下水道のさらに奥。羽蟲通りの吹き溜まりローチウェイ・ドリフトとでもいうべき最果ての地。

 それこそがバルザックの目的地である。

 諜報部隊もすでに心得たもの。主を案内するのはすでに一度や二度のことではない。

 腐臭に文句ひとつ零すこともなく、彼らはたいまつを片手にバルザックを先導する。

 いくつもの曲がり角を過ぎ、迷路のように入り組んだ道を進み、汚水に足を浸してようやく辿り着く。

 そこはもはや、下水路ではない。

 下水道から地続きに繋がっている大広間。

 あるいは洞穴とでも言うべきか。

 壁には等間隔でたいまつがかけられ、陽が届かない地の獄を明るみに照らし出している。

 暗がりに潜んだ悪徳の地。

 そこでは、何人もの人々がせわしなく動き回っていた。

 人数にして十数人は下らないだろう。彼らはひとりの例外もなく、紫紺色のローブを身に着けている。

 誰も彼も、バルザックの姿を目にしても意に介さない。会釈すると、またすぐ設置されている作業台のほうに向き直る。

 作業台の上には、彼らの私物が置かれていた。どぶねずみ、こうもり、見たこともない鉱石、羽蟲、設計図、ヒル──あるいは人間の死体。

「宰相殿ぉ」

 バルザックが大いに辟易していたその時、場違いなまでに暢気な声を聞く。

 にこやかな笑顔を浮かべる二〇そこそこの若い女。

 彼女もまた、妖しげな紫紺色のローブを身に着けている。

 身長は5フィートほど。肉付きは悪くないが、肌の色は白を通り越して青白かった。

 髪は繭糸めいて真っ白。瞳は落ち窪んだ(うろ)のように黒く、暗い。

 身の丈ほどもあろうかという黒い棺桶を背負ったまま、彼女はバルザックに近づいてくる。

 狂人であった。

 バルザックは彼女の姿を認めると、諜報部隊の面々にしばらく待機するよう命じる。

「構わないのですか」

「不快ではあれ、害はありませんからな」

 そういって、バルザックは自ら女のほうに歩いていった。

 狂ってはいるが、知った顔だ。

 羽蟲通りの吹き溜まりローチウェイ・ドリフトに危険はない。

 危険な人間がダース単位でいるだけだ。

 バルザックに累が及ぶことはない。なぜなら、バルザックこそは彼らの庇護者なのだから。

「ご無沙汰しておりますぞ、メア・リィ殿。息災にしておられましたかな」

 バルザックはいつもの調子で声をかける。

 異常な場所でもそれは変わらなかった。

「もちろんですよゥ。以前お会いしたとき、とてもステキなものを下さったじゃないですカ。宰相殿も、その進捗を見にきてくださったのでしょう?」

 メア・リィ。

 そう呼ばれた女はクスクスと笑い、長過ぎる袖に包まれた手を振ってバルザックを手招きする。

 狂った女だが話は早い。用件はひとつだけではないが、おおむね彼女の言うとおりであった。

 バルザックは彼女の後についてさらに奥へと進んでいく。

 道中、(あなぐら)にいくつも設置されている作業台を目の当たりにする。

 その上で行われているのは、"実験"と称した神をも恐れぬ冒涜的所業。

 実験材料には事欠かない。どぶねずみから人間の死体まで選り取りみどり。飢えた痩せ犬もしばしば迷いこむ。

 きわめて濃密な瘴気が渦巻く地下水道。このような土地では、魔術などの神秘がことさら顕在化しやすい。

 なればこそ彼らは、好きこのんでこのような場所に身を置いているのだった。

 ある作業台の上では、動物の部位を継ぎ接ぎにされた奇形的な物体がびくびくと痙攣していた。

 合成生物(キメラ)の創造実験というが、まともに実現するとは思えない。

 これも初期投資というものか。バルザックはひそかに嘆息する。

 愉快そうに実験内容を解説する若者もまた、メア・リィと同じ紫紺色のローブを身にまとっている。

 その理由はきわめて単純。彼らは同じ組織に属する集団のひとりであるからだ。

 華陵帝国で動乱を引き起こし、邪教として排された魔術組織の一派。

 その名は魔術集団"僵葬会(きょうそうかい)"。

 バルザックは彼らを保護する代わりに、クーデター以前、反体制勢力の魔術師戦力として組みこんだのだ。

 彼らは実質的にバルザックの管轄下にあるため、宰相の左腕とも囁かれている。

 しかし噂になりながらも実態が明るみに出ることは決してない。

 それこそは、新生ファーライト王国の最も深い暗部であった。

「こちらでス。宰相殿ぉ。ぜひ、ごらんあれ。きっと驚かれるに違いありませんヨ」

 メアはにこにこと瞳を糸のように細めて笑みを絶やさず、バルザックを自らの作業場に案内する。

 果たして、彼女が扱っていたものは小動物などではない。

 人体だ。

 成人男性の死体である。

 首から上は切り離されており、胴体しかない。だが、筋肉の付き方からして相当鍛えていたことがうかがえる。

 死んでから相当の日数が経っているようだが、不思議と腐敗している様子はない。

 死体のかたわらには、一本の剣が置かれている。

 それは一見すればただの長剣に見えた。

 しかしたいまつで照らしてみれば、いくつもの部位に分かたれているということがわかる。

 多節剣。

 否。

「これは……」

 と、バルザックは思わず、目を見張った。

 それはまさに、自らが知る"魔剣"に瓜二つだったのだ。

 しかし原型(オリジナル)ではない。原型はバルザックが彼女に贈ったのだが、細部が微妙に異なっている。  

「"魔剣"の複製に、成功したのですかな。メア・リィ殿」

「完全に成功してはいないヨ。どうやって毒霧を発生させていたのか、その仕組みがわからないとキた。不思議ですよこれハ。術式はわかっているんですケド──でもでもっ、蛇腹剣としての性質はばっちりですネー! 強度も、柔軟性も、射程距離もぜーんぶ解決しましたから。既存の冶金では絶対にできなかったことでス。能力の再現性はありませんけど、基本性能は原型より向上しているかもしれませんヨ」

 死体を眼前にしても全く気にせず、クスクスと笑って語るメア・リィ。

 彼女は多節剣を手に取り、おもむろに素振りをしてみせる。

 熟練の剣捌きであった。

 なんのことはない。メア・リィを筆頭とする魔術集団"僵葬会(きょうそうかい)"は、反体制過激派の極北にして武闘派の極地だったのだ。

 魔術師といえど剣の心得はあって当然。メアもまた、帝国辺境で名を馳せた邪剣士のひとりである。

「これは……素晴らしいですな。予想以上の成果と申し上げさせていただきますぞ」

「ふふーふ! ボクはこんなもんじゃないですよゥ宰相殿。実地試験もさせてくれたら、もっともーっといいものをつくれると思いまス!」

 隣ではしゃぐメアをよそに、バルザックは冷静に分析する。

 彼の目の前にあるものは、まさに魔剣────"奇剣・毒操手"の模造品にほかならない。

 これまで、一般的に人間の手では再現不可能とされていた"魔剣"の模造。それが一振りとはいえ実現したのである。まさに快挙と言えるだろう。

 だがそれは、決して戦場を変革することを意味しない。

 "奇剣・毒操手"は遠距離攻撃を可能とする魔剣だ。良くも悪しくもそう見られる。小銃との比較は避けられない。

 そして多くの面では小銃に軍配があがるだろう。最大の問題は"奇剣・毒操手"が熟練を要する兵器である点だ。

 正直なところ、バルザックは落胆していた。

 おそらく、これでは────シオン・ファーライトを追い詰めるのは難しいだろう。

 命からがら帰還した人狼の報告によれば、彼女は"剣魔"ジムカ・ベルスクスを打倒して"妖剣・月白"を奪取。

 破竹の勢いで"人狼遊撃隊長"ディエトリィ・ヴォルフまでも撃破し、なおも逃亡を続けているという。

 すでに相当の重傷を負わせたことは間違いがない。

 だが、ここまで被害が拡大するとはバルザックは思いもしなかった。

 特にジムカが討たれたのは痛かった。武官らからかなりの反感を招いたため、それらを抑えこむのに骨が折れた。

 そして同時に、バルザックは後に引けなくなった。ここで引けば責任問題に発展する。

 権力の座を狙うものがここぞとばかりにバルザックを糾弾することだろう。

 新王トラスがそれを許さない可能性は高い。しかし強行的な政治は王権に不和を生む。下手を踏めばそのまま内戦に発展しかねない。

 なればこそ、バルザックは確実な手札を欲していた。

 叛逆者の末姫を屠ることができる、確実な手札を。

「実地試験と仰られますがな、メア・リィ殿。これは少々、難しい問題ですぞ。もはやグラーク殿は亡く、満足にこれを使えるものは限られておりましょう。メア・リィ殿とて完璧とは言えないのではありませんかな?」

「そう。そこですヨ」

 まさにそれを考えていた、と言わんばかり。

 メア・リィはバルザックに指先を突きつけ、断言する。

「確かにこの魔剣を扱えるようになるのは難しい。だからボクは考えたわけサ。訓練するのにも時間がかかるというのなら、扱うことができる人間を創ればいいんですよゥ」

「あまり無理難題をいうものではありませんぞ。そのようなことは──」

 と、バルザックが彼女をたしなめる間に。

 メア・リィは背負っていた棺桶をごとりと地面に落とす。

「これを見てくださイ。それからでも是非を言うのは遅くないでス!」

 溌剌として言い切りながら、彼女は棺桶を蹴り飛ばすような勢いで開けてみせる。

 そしてバルザックは、その中にあるものを確かに見た。

「なんと──まさか」

「ふふゥン。ボクの屍術と、"魔剣"があれば、これしきは朝飯前でス。よく似てるでしょう。性能のほうも試験済み。ちゃーんと首もつけておきましたヨ」

 これならば、とバルザックは確信する。

 そもそもシオンは手負いの身。今の彼女に最も有効な戦術は、数を活かした消耗戦だろう。

 所詮は身体もできあがっていない少女ひとり。多対一で戦うことを強いられ続ければ、そう遠くなく力尽きるに違いない。

 問題は、大人数を動員するのが難しいということ。

 当然だ。少女ひとりに軍をぶつけるような真似ができるはずもない。

 ぶつける前に逃げられるのが落ちである。

 だが、メア・リィならば。

 魔術集団"僵葬会"大首領。

 "屍術師"メア・リィ・シェルリィ。

 彼女ならば────たった一人の軍隊たりえる。

「メア・リィ様。まさに、その件でございましてな。うってつけの相手でもあり、私としても最優先で始末してもらいたいものがおるのです」

「噂はかねがね聞いてまス。ボクとしては全く構わないナ。ぜひとも────ボクの手でイジくりまわしたいものですよゥ」

 クスクスと笑いながらメア・リィはあっけらかんと言い切る。

 大罪人シオン・ファーライトの確保。あるいは殺害。

 もはや生死は問わなかった。バルザックの依頼を、メア・リィは一も二もなく了承する。

 彼女としては是非とも生け捕りにしたいようだった。

 果たしてどうするつもりなのか。

 知ったことではない。晒し者にする首が残るならバルザックは一向に構わなかった。

 しかしメア・リィが刺客として出向くには、大きな問題がひとつ残されている。

「脚を用意してもらいたいのは当然だけド。ボクが今から追いつけるものかナ?」

「無論ですぞ。こちらも手は打っておりますからな────」

 すでに各地には諜報部隊の斥候兵が派遣されている。

 シオンの所在が確認できれば、すぐにでも早馬で情報が伝わる手筈である。

 現在、新しい情報は入ってきていない。つまり彼女はどこかで足を止めているということだ。

 となれば、先回りすることはさして難しくもないだろう。

 そして、さらにバルザックは手を進めることにする。

 前々から準備していた策を、実行に移す時が来たのだ。

「────各地での指名手配。正式に奴の首に賞金をかけることが決定しておりますぞ。足止めは勿論のこと。もはや彼の者に、気が休まるときは一時たりともありますまい」

 バルザックの顔にひどく後ろ暗い笑みが浮かぶ。

 手を焼かされた獲物を追い詰める時の、暗い歓喜の表情だった。



 結局、シオンは怪我の完治を待たずに小屋を発った。

 巨体を誇る黒馬──ファルを駆り、一路目指すは丘陵地帯。

 シオンは馬体の前に跨がり、後座ではファリアスが手綱を取る。

 ファルはいささか不満気であったが、シオンたっての希望である。

 主の望みには逆らえない、ということだろう。

 反りの合わない人狼を振り落とすようなこともせず、黒馬はゆっくりと歩み出す。

 現在地から丘陵地帯を目指すにあたって、彼らが取るべき経路はふたつあった。

 六水湖(ろくすいこ)まで引き返して街道沿いを西進するか。

 あるいは、このまま森を北西に突っ切るか。

 ふたつにひとつの選択である。

 速度を取るならば、断然、一度引き返すべきだろう。整備された道の恩恵は計り知れないものがある。

 ファルの負担もはるかに少なく、丘陵地帯に出ることができるはずだ。

 一方、森を抜けるとなればそれなりの面倒がつきまとう。

 虫や獣が厄介なのはいわずもがな。足場は悪く、沼地と化している場所もある。

 ファルの負担のみならず、馬体に伝わる震動は騎乗者にも響く。手負いのシオンにはあまりありがたくない話である。

 しかしシオンは、後者の道を選んだ。

 ファリアスにも異論はなかった。

 六水湖周辺──あるいは街道には間違いなく、新生王国の間諜が張っているだろうから。

 監視の目を逃れるためにも、道無き道を進むのが最善とふたりは判断した。

 そもそも彼女らふたりと一頭は、いささか目立ちすぎるのだ。

 帯刀している一〇代前半の少女。銃剣を携えた妙齢の女人狼。そして彼女らを乗せる巨大な黒馬。

 まず他には見られないだろう組み合わせだった。ファリアスは隠匿のために外套を羽織っていたが、目につかないほうがどうかしている。  

 さいわい、食料と水は十分に補給した。医療品には不安が残るが、シオンの傷は少しずつ快方に向かっている。

 無理に急ぐことはない。実際、脇腹の傷はすでにほとんど完治していた。

 胸の傷も同様である。こちらは痕が残ってしまいそうだったが、胸骨に届くほど肉を斬られたのである。

 傷が残ったとしてなんら不思議なこともない。

 残るは肩口の傷。こちらにはまだ痛みがあるが、往時のように頻繁に包帯を替える必要もない。

 黒馬に揺られる痛みもなく、シオンたちは平穏無事に歩を進めた。

 いたって順調な旅路であった。

「のんきなもんだねぇ。追っ手もかかりゃしない。寝てたっていいくらいさね」

「森を抜けてからが、本番かな」

「せいぜい距離を稼いでおこうかい────寝ててもいいんだよ」

「寝ない」

 ちいさな頭をファリアスの胸元に預けながら──そんなやり取りもそこそこに。

 実際、無事に進めているのはファルの寄与するところが大きいだろう。

 黒馬の立派な蹄は多少の足場の悪さなどものともしない。柔らかい土を突き刺すように踏みしめて、森の泥土を自らの足で均していく。

 並大抵の馬ではない。連日の悪路にも全く疲れを見せることなく、悠然たる足取りで彼は歩みを進めていく。

 シオンの傷に響かない程度に揺れが抑えられているのは、ファルの巨体のおかげに違いあるまい。

 そのまま二日間、なにごともなく。

 一行はついに森を抜けた。

 昼間さえ薄暗いような森から遠ざかり、道を遮るもののない丘陵地帯に躍り出る。

 丘陵地帯は緩やかな坂道になっているが、高低差は大したものではない。

 黒馬は森の中での憂さを晴らすように地を蹴り、風を切り、軽快に街道沿いを駆けていく。

「後で、大変だから」

 と、たしなめたのはシオンだった。丘陵地帯を抜けたあとは、峻険(しゅんけん)な山岳地帯が彼女たちを待っている。

 シオンが首の毛並みをそっと撫でるようにして言い聞かせると、ファルは立ちどころに大人しくなった。

 これにはファリアスも驚嘆したものだ。

 まるで馬の言葉を解するかのようだったが、もちろんシオンにそんな力は全くない。

 手綱は引き続きファリアスが取り、そこからできるだけ道の外れを進むようにする。

 数日のうちにいくつかの宿場を素通りし、目指すは西に連なる山岳地帯────八槍岳(はっそうだけ)

 それこそはファーライト王国と華陵帝国を決定的に隔てる、重要な自然の要害であった。

 山さえ越えれば華陵帝国との国境線は間近。

 だがその道のりは険しく、狭い。足場も悪いため、馬で進むには不適切だろう。

 避けて通ることもできなくはないが、シオンたちの場合はそうもいかない。

 山の代わりにいくつもの領地を渡りついでいかねばならず、かえって危険が増してしまうのだ。

 道のりは大回りになり、各領地に属する兵の足止めを受けることは想像に難くない。

 もしもその間に追手がかかれば泥沼だ。やがてシオンが逃げ延びる望みは潰えよう。

 なればこそ、やはり行くべきは八槍岳の他はなかった。

「見えたよ、シオン」

「……見えない」

「肩車でもしてあげようかい」

 おどけて言うファリアスの申し出をしめやかに辞し、シオンは馬首のほうに目を凝らす。

 八槍岳はとうに見えている。天に突き立つようにそそり立った山岳はよもや見紛えようもない。

 問題は、そのふもとにある宿場町だった。

 町というのもおこがましいか──規模はさして大きくもない。その守備は意外に固く、城壁こそないが、周囲には柵が張り巡らされている。

 道中で耳に入れるところによれば、そこはあまり治安が良くない土地だという。

 国境線近くという立地のために、国を渡り歩く傭兵など柄の悪いものが集まる都合上──というばかりでは決してない。

 なんでも、宿場自体が山賊の類によって運営されているというのだ。

 元々は山岳を通る馬車や旅商などを襲っていたようだが、いつからか方針を転換。

 山の湧き水を生かして宿場を形成、旅人自ら金を落としてもらうようにしたのが事の起こりであるという。

 それだけならば良かったのだが、そこで止まらないのが賊というもの。

 宿場の守備を固めることで八槍岳の入り口を支配下に置き、いわば通行料を徴収するようになったのだ。

 賊徒として討伐されても全く文句が言えない所業である。

 しかしそうはならなかった。

 彼らは徴収について、慎重に相手を見てやったのだ。

 国の軍隊などは口出しすることなく素通りさせ。

 旅の商人などからはここぞとばかりに金を取る。

 宿場自体は健全に経営されていることも大きかった。

 潰したら潰したで取って代わるものが現れようが、そのために自ら兵を出すという貧乏くじを引くのは誰しもごめんである。

 かくして賊の宿場は放置され、現在にまで至っていた。

「厄介なこったねぇ」

「相手を、見てくれるといいけれど」

「期待しないほうがいいさね」

 一目で訳ありと知れるようなシオンとその一行。

 金を持っているようには見えなかろうが、ファルほどの馬は一財産だ。

 そこらの平民がやすやすと手に入るものではない。目をつけられる可能性は高かった。

 人狼のファリアスを恐れ、手を引いてくれたら良いのだけれど。

「期待するなら相手の警戒心かねぇ。小銭のためにたたっ斬られたくはないだろうさ────と」

 ファルは真っ直ぐふもとに向かって歩んでいく。

 次第にシオンにも例の宿場が見えてくる。

 かねての噂通り、周囲はくまなく柵に覆われていた。

 宿場の規模に比べれば明らかに過剰な防備だろう。

 入り口には門こそないが、馬防柵が等間隔で並べられている。砦もかくやという守備体制であった。

 一見した限り見張りはいない。来訪者を拒みはしない、ということだろうか。

「行こうか」

 沈みかけの夕焼けが丘陵の原を赤々と鮮やかに染め上げている。時はすでに夕刻にさしかかっていた。

「油断しないように、さね」

「ん」

 そういうことになった。

 遮るものもなく歩を進め、宿場の手前に差しかかった瞬間、ファルが低くいななく。シオンに警戒をうながすかのように。

 脚を緩めさせて馬防柵の隙間を抜け、宿場の中に入っていく。

 ────瞬間、身の毛もよだつような悪寒がシオンを襲った。

 包帯を巻かれたきゃしゃな肩が震える。

 指先がそっと腰の魔剣(もの)に触れた。

「シオン」

「うん」

 気づいたかい、と言わんばかりにファリアスが周囲を一瞥。

 通りに人影はあまり多くない。国境沿いが緊張状態であるため、旅人自体が少ないのだろう。

 だが、シオンの全神経は間違いなくそれを感じていた。

 無数の視線。

 あらゆる方向から注がれる監視の目。

 まるでシオンを待ち受けていたかのように、どこからか数多の眼光が向けられている。

 間違いはない。決して錯覚ではありえない。

 それらの目には、あからさまなまでに──欲望の色が滲んでいたのだから。

「こいつは、もしかすると」

 ファリアスが声をひそめていう。

「賞金でもかかってるのかもしれないねえ」

「……私に」

「他に誰がいるんだい」

 考えなかったことではない。

 しかし、いざ現実になると笑えなかった。

 彼らもなりふり構わなくなってきた、ということだろう。

 シオンが新生王国に与えた被害は、それだけ甚大ということだった。

「こりゃ、大人しく通してくれそうにないよ」

 シオンも大いにそう思う。それどころかいつ襲われてもおかしくはない。

 頷きながら、少女は馬首の向いたほうを見る。

 真っ直ぐに突っ切った先。やはり馬防柵が並べられ、その先には八槍岳に繋がる道がある。

 そちらは入り口と異なり、門の左右に見張りが控えていた。

 強行突破は難しそうだった。少なくとも、ファルを犠牲にしないかたちでは。

 黒馬がシオンの下で低くいななく。

 あの程度はなんでもない、と言わんばかり。だが、こんなつまらないところで彼を失いたくはない。

 シオンのちいさな身体には脚がいる。この数日間で、少女はそれを実感した。

 仮に亡命に成功しようとも、そこで全てが終わるわけではないのだから。

「ファリアス。数は」

 シオンは端的に問う。

 場合によっては全てを斬り伏せても構わないが、シオンが無事に済む保証はない。

 乱戦になればなおさらだ。数人程度ならばまだしも、数十人となれば骨が折れる。

 どこからか流れ矢を受けないとも限らない。

「……臭いが入り交ざってて正確な数は難しいねえ。少なくとも二、三〇は下らないよ」

 抜きん出た人狼の感覚器官。それが瞬時の探知を可能にする。

 妥当な数だろうとシオンは判断する。まともにやりあうべき人数ではない、とも。

 ならばどうするべきか。

 何気ない風を装ってファルを歩ませながら、シオンは考えをめぐらせる。

「ここからなら、見張りの奴は狙撃できる。押し通るのも不可能ってわけじゃあないよ」

 見張りを排除できるのは朗報だった。しかし今はそれをすべきではない。

 現在、シオンたちはあからさまに衆目を集めている。

 すぐにも襲われないのは幸いだったが、彼らのほうも手を出しかねているのが実情だろう。

 つまり、なにかきっかけがあれば弾けるということ。シオンは自ら災いの引き金を引くつもりはない。

「決めた」

 シオンは馬首を返し、適当に目をつけた宿に足を向ける。

「どうするつもりだい」

「宿を取る」

「…………へ?」

 ファリアスは呆気にとられたように目を見開いた。

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