拾参、撃剣・カノン(下)
『おまえたちは、退け』
立て続けに降りそそぐ銃砲の雨あられ。それはシオンの攻勢を足止めするには十分な代物だった。
少女としのぎを削りながらも、ディエトリィはひそかに"遠吠え"を交わす。
咆哮という圧縮言語による高速伝達術。一度のやり取りにも数秒とかからない。
おまけに、耳をつんざくような銃声にまぎれては聞かれるはずもなし。人狼にしか理解できない通信伝達手段だが、それでもかき消す意味はある。
今、"遠吠え"を聞くものはふたりいた。
『このまま、退けるわけないじゃないさ』
今も倒れたまま応じる女人狼、ファリアス。
『……グ、ゥ……』
そして、仮死状態を偽装することによって生き延びた人狼。
グレイである。
人狼にとって首筋は致命的な急所ではない。短剣の刃ならばなおさらだ。
確実に殺すためには近くから、深く刃を突き刺すべきだ。それで人狼はやっと死ぬ。
とはいえ、さすがに重傷は免れえない。傷口からひゅうひゅうと奇妙な音が漏れている。
"遠吠え"の音もひどくか細かった。銃声にまぎれるには十分だろう。
これではシオンも、グレイの生存には気づけまい。
『俺が戦うその意味を考えろ。討ち取ればそれで万事よし。敗れても"奮戦したが敵わなかった"と弁解がきく。これで人狼を咎めては角が立つ。なにせ"剣魔"までもがやられているのだから』
ディエトリィがシオンを討ち取れば、新生王国内での人狼族の立場は向上する。
ディエトリィが負けたとしても、それはそれで構わない。
"魔剣遣い"が立て続けに敗れ去ったとなれば、否が応でも王国の威信は揺らぐ。
となれば人狼族の付け入る隙は増す。もしくは、王国はますます人狼族の優秀な兵を必要とするだろう。
いずれにしても損はない。
必要経費は、ディエトリィが全力で戦い、"人狼族に翻意無し"と見なさせること。
新王トラスへの忠誠心を──仮初のつくりものに過ぎずとも──明確に示すこと。
代償は命で支払うことになるかもしれないが、問題はない。
全ては一族の再興と繁栄のために。
シオンに言ったその言葉に、偽りや含みは全くなかった。
諧謔などでも決してない。
人狼族の悲願を果たすためならば命を捧げても惜しくはないと、ディエトリィは至極本気で考えている。
でなければ、わざわざ王国内の兵役に身をやつそうものか。
『……俺は』
グレイが絞りだすように"遠吠え"を紡ぐ。
『俺は、帰還する』
『……グレイ、あんた』
ディエトリィは思う。
ディエトリィが死ぬことは、自ら受け入れてすらいるというのに──ファリアスは深刻になり過ぎるのだ。
それは決して悪いことではないが、悪い結果に繋がることはある。
『そうだ。退くものが必要だ。事の次第を報告するものが、必要だ。俺がやれればそれに越したことはないが』
『俺が、伝えよう。隊長が、戦い抜いたことを伝えよう。最期まで、"剣魔"を殺した逆賊を相手に、勇敢に戦い抜いたと』
『今から殺してくれるな』
ディエトリィは冗談めかして応じる。
いつも通りの時こそ慎重に。深刻な時こそ諧謔を忘れず。
それがディエトリィのやり方だった。この期に及んでも変わりはしない。
しかしファリアスは、声を荒げる。
ともすれば銃声を突き抜けてしまいそうなほどに、高く響く"遠吠え"の声。
『今さら退いて、どうしろってんだい。あたしは、あんたを捨て石にした奴らの下でのうのうと戦うのは、ごめんだよ』
宰相バルザックを筆頭に、新生王国を気に入らないと評したファリアスらしい一言だった。
彼女ならばそういうだろう。ディエトリィはその予感を薄々感じていた。そのうえで、無理やり彼女の不満を抑えこんでいた。
だが、今となってはもはやその必要もない。
『ならば、好きにしろ』
『───え』
思いがけない一言を聞いたように、ファリアスはかすれた声を漏らす。
『俺もやつらが気に食わない。だが、取り入ったほうが一族のためになると考えてそうしていた。おまえがそう思わないのならば、別のやり方があるというのならば、それをするべきだ。俺が死んだあと、おまえを引き止めるすべはない。いずれにせよ、俺たちの目的はひとつだ。そこに近づけるなら、なんだっていい。我らが一族の悲願は同じところにある────森の精霊に誓って』
ディエトリィはかつて、繰り返し言った。子の代に重荷を背負わせるつもりはない、と。
つまりそれはファリアス──ひいては同時代の同胞に向けられた圧倒的な信頼にほかならない。
その重さにファリアスは一瞬息を呑む。
だが怯みはしなかった。
顔を上げもせず呻くようにファリアスはいう。
『そうさせてもらうよ────森の精霊に誓って』
焼けた眼窩を伏せて、ファリアスは地面に突っ伏した。今はとても加勢できるような状態ではない。
ディエトリィを見殺しにするのが口惜しくも、今はそうすることしかできない。
『構わないか。グレイ』
『ファリアスについては、どうする』
『死んだことにでもしといてくんな。あたしはここで、エルド、クライフと一緒に死んだ。そういうことさ』
『わかった。できるだけ、うまくやる────森の精霊に誓って』
グレイは静かに頷く。彼は目端が利く人狼だった。ディエトリィの意見に賛成的な慎重派でもある。
でなければ斥候はつとまらない。十分に信頼に足るだろう。
互いの意志を確かめ合った人狼たちはひそかに雌伏する。立ち上がるための体力回復につとめ、来たるべき時を待つ。
ふたりは隊長を見殺しにすることを決めた。
ディエトリィはその身を死地に投げ出すことに決めた。
────全ては一族の再興と繁栄のために。
向かいくる銃弾の雨あられ。
弾丸が跳ねて地を穿つ。
それは連射というには相応しくない。
──途切れることなく迸り続ける銃撃の波。
ディエトリィが"撃剣・カノン"を横に振れば、地平線を水平に薙ぎ払わんばかり。
銃弾の掃射。
そういって全く差し支えない鉄量の投射が、絶えることなくシオンを襲う。
『ルォォォオオ────ッ!!』
耳をつんざく咆哮。そして銃声が連続する。
ゆえにシオンは、絶えず足を動かすことを余儀なくされていた。
「……ッ、は……」
きつい。
立っているだけでも辛いというのに、走り続けなければならない苦痛たるや。
余力がほとんどないシオンにしてみれば、それは単純ながら呆れるほど効果的な戦術であった。
ほんの一瞬前までシオンがいたところを銃弾が通り過ぎていく。
樹の幹を撃ち、枝葉をへし折り、時に弾丸が森の中を跳ね回る。
ガキン、ガキン、ガキン、ガキン────
跳弾がすでに厄介というのに、次弾は絶えることなく弾倉に送りこまれる。
一瞬さえも止まることなく回り続ける輪胴。
無限の弾数に追い立てられながら、シオンは血の雫を足跡のように零していく。
ひゅん。
正面から向かい来る銃弾を目視する。
一瞬後には半身になって回避──かすめた弾丸が鈴蘭の羽織を裂いていく。
息が上がる。
血が流れ続ける。
もはや傷は胸元のものには留まらない。牙に食い付かれた肩に至っては白い肌がむき出しになっている。
早速、"剣魔"の形見を台無しにしてしまったというわけだ。
自嘲げに笑いながら、シオンは足を止め、無造作に剣を振るった。
渺。
剣風が吹き荒び、はらりとなにかが地に落ちる。
弾丸だ。
高速で飛来する弾丸を、一太刀に斬って落としたのだ。
「────ッ!!」
威圧的に咆哮を発していたディエトリィが息を呑む。
しかしその最中にも銃火は止められない。
シオンは半身をずらし、避ける。
次の瞬間には次弾が飛ぶ。
また、避ける。
次弾の軌跡を読み、斬って捨てる。
斬り捨てながら、踏み込む。
人狼との距離を詰めていく。
『ルォオオオオ────ッ!!』
当然、ディエトリィも足を止めたままではない。
自らの間合いを保ちながら、シオンに消耗を強いようとする。
しかし、狙いは彼自身がつけなければならないのだ。大きく動くほど銃身はぶれる。移動は最小限に留めなければならない。
結果、シオンは着実に彼我の距離を埋めていく。
「ふっ……」
呼息とともに剣を振る。
はらり。
弾丸がいともたやすく真っ二つになり、鉄くずと化して地に落ちる。
ディエトリィが目を見開くに足る芸当──だが、シオンにしてみればもはや造作もなかった。
確かに、銃弾は速い。
まともに食らえば即死だろう。
だがそれは、剣も同じだ。
剣より遠くに届く。そして剣より速い。
確かに、脅威だろう。
だがあまりに、直線的過ぎる。
『グォォオオオッ!!』
無闇な連射は通じないと悟ったか。
狙いを正確に、偏差射撃も織り交ぜながら立て続けに三発。
ひゅん、ひゅん、ひゅん。
はらり。
斬った鉛弾が木の実のように辺りに散らばる。
もはや同じことだった。
「……ッ、ふ」
荒くなる息を押し殺し、シオンは踏み込む。
もはや銃弾は恐ろしくない。
その"太刀筋"は、とうに見飽きるほどに見た。
常に一定の弾速。
常に直線の軌道。
そして、どれだけ絶え間なく次弾を送り込もうと──どうしても発射間隔が生まれてしまうという事実。
欠陥があまりに多すぎる、とシオンは思った。
とりわけ、常に軌道が直線的なのは致命的だ。
これならば、遅くとも変幻自在の剣のほうが、まだしも恐ろしい。
ガキン、ガキン、ガキン。
輪胴が回る。自動生成された銃弾が間を置くことなく放たれる。
三発。一発はシオンを牽制し、残りは樹の幹を狙って飛ぶ。
絶妙な角度で銃弾が命中する──弾丸が森の中を跳ねまわる。
跳弾。
それも此度は一発、二発には留まらない。
シオンを牽制する射撃を行いつつ、無数の跳弾を散らしていく。
森という環境を利用しての無作為射撃。それはディエトリィの思惑をも超え、混沌とした空間を形成する。
それはさながら、銃撃の結界。一発一発が地を穿つより早く、空を駆ける弾丸を増えていく。
手負いの少女の行手を閉ざす。
「……く、は……」
シオンは荒く息を乱しながら正面切っての銃弾を払い切る。
同時、周囲に神経を張り巡らせる。
今やシオンの感覚は、驚くほど鋭さを増していた。洒落にならないほどの血が流れているにも関わらず、思考や読みは冴え渡る一方。
チュン、と樹の幹を爆ぜさせながら跳弾が駆ける。縦横無尽に跳ねまわる。
それをシオンは見るともなく躱す。
後方から、あるいは横からだろうが無関係。風を切る音さえ聞こえれば、シオンは十分に避けられた。
なんのことはない。一度着弾した弾は、その速度を大きく落としているのだ。
それこそ見てからでも避けられる。
見ることもなく切り払える。
白刃の軌跡を残し、シオンは数多の弾丸を斬り落としていく。
銃撃の結界を、切り崩していく。
「────つくづく、化け物めッ!!」
進退窮まったディエトリィは歯を食いしばりながら呻く。
狼頭の表情は、どこか笑っているようにも見えた。
続く二発。一発を避けるとともに、ちょうど避けたところで飛んで来る二射を斬り落とす。
近づくほどに距離は狭まる。シオンに弾丸が到達するまでの時間は短くなる。
だからといって避けるのが難しくなるかといえば、そうではない。
むしろ次弾の軌跡が読みやすくなる。避けやすいとすらいってもいい。
するりと"妖剣・月白"を滑らせれば、そこに銃弾が飛び込んでくるような按配であった。
「────は、ぁ……ッ!」
化け物でもいい。なんとでもいえばいい。今さら、構いはしない。
ただ、生きたい。
シオンはその望みのままに剣を取る。
残りは三歩。その距離を蹂躙すれば、白刃は人狼に達するだろう。
シオンにとっては無きにも等しいその間合い。
一瞬にして、埋め尽くす。
"縮地"の型。半ば浮いた足裏を飛躍させるように、爪先が地を蹴る。
『オ、ォ……ッ!!』
ガキン。
ディエトリィがトリガーを引き絞る──放たれた一発の銃弾とすれ違うようにしてシオンは疾駆。
黒衣を掠めるも傷はなく、シオンはディエトリィに接敵する。
身をひねるように振りかざすは"妖剣・月白"。数多の銃弾を払い落とした刃は血に餓えて、見るものを惹きつける妖しい輝きを帯びる。
そしてディエトリィもまた、"撃剣・カノン"を振りかぶる。もはや射撃の間合いにはない。
ただ、剣戟によって迎え撃つのみ。
『ル────ォオオオオオッッ!!』
「弑────ィッ!!」
ギィンッ。
刃金が重なる。刃鳴が散る。
お互いの狭間で刃が咬み合い、そしてふたりは足を止めた。
刀と両刃がせめぎ合う──鍔迫り。
先に外したほうが刃を突き入れられる絶死の間合い。
そこに限って、ディエトリィには最強の切り札がある。
剣身に一体化した銃口は、なおもシオンに向けられているのだ。それはいうなれば、刃を外すことなく刺突を撃てるようなもの。
かくてディエトリィは銃爪を引き絞る。
銃口が少女の身を灼く火を噴いた。
「────ひゅ」
寸前、シオンはくるりと刀身を返して"撃剣・カノン"の刃先を巻き取る。
そして一歩下がりながら、剣身と一体化した銃口を外向きにずらす。
かくて銃弾は彼方に向かい、シオンを穿つことはない。
──至近距離からの迫撃。それこそが"撃剣・カノン"の真価と知ればこそ、シオンはあえて鍔迫り合いに持ちこんだ。
相手が確実にその手で来るならば、これほど返しやすいものはないのだから。
『ガァッ!?』
ディエトリィが驚愕に目を見開く最中、シオンは迷わず懐に飛びこんだ。
一歩引き、再度踏み込み、そして斬る。
応用的な変形こそあれど、その真髄は変わりなく。
かくてシオンは一刀を抜く。
"秘剣・再臨剣"。
ひゅんと刃が風を切る。
灰毛を掻き分け軍服を裂き、肉を斬り、骨を断ち────
剣光の軌跡を一筋刻み、刀身は人狼の肩へと抜けた。
残心。
「────ガ、ァァァァアアアアアアアッッ!!」
刹那、人狼は天を仰いで咆哮する。
深々と刻みこまれる傷跡。噴水のように飛沫をあげる血潮。苦悶に見開かれる人狼の金眼。
狂ったように痙攣するディエトリィに相対しながら、シオンはふと気づく。
"撃剣・カノン"の銃口が、無理やりシオンのほうに向けられていることに。
そのまま撃てば、ディエトリィは自分ごとシオンを撃つことになるだろう。
しかしディエトリィは大口を開けて、笑う。
元より己は捨て身であったと言わんばかりに、ぐっと指先を引き絞った。
シオンは咄嗟に身をひねる。
間に合わない。
────ガキン、と弾倉がひとつ回って、
「ぁぐ……ッ!!」
銃弾が少女の矮躯に叩きこまれる。
反射的に回避行動を取ったおかげで、心臓への直撃は免れた。
血肉が弾ける。弾丸が肩の骨にぶつかって止まる。
そしてシオンは、倒れこむディエトリィに折り重なるように前方へと跳ね飛ばされた。
「ク、ハハッ」
ディエトリィの手が"撃剣・カノン"を取り落とす。
それを握る力ももう無かった。
溢れだした赤色が血溜まりをつくる。
人狼の体躯が赤い水溜りに沈んでいく。
ぐったりと倒れ伏したまま、彼はもはや動かない。
弛緩しきった身体から力が抜け、刻一刻と命が零れ落ちていく。
眼の中に浮かぶ金色の瞳は、どこを見ているのかも定かではない。
「……ッ、ぅ……」
人狼の身に重なりながら、シオンはちいさくうめく。
少女の矮躯が儚げに痙攣する。
ひどく、寒かった。
寒くて堪らない。身体のあちこちが痛む。気を抜けば全身が震えだしそうになる。
それでもシオンは、顔を上げた。
"妖剣・月白"を握る拳を地に着き、下にいる人狼をじっと見下ろす。
「……そうか。きさまは、死なんか」
ディエトリィの眼はすでに焦点があっていない。
だが、身体にかかる重みくらいは感じられるのだろう。
ごぽっ。
心の臓腑から逆流した血をぶちまけながら、ディエトリィは見るともなくシオンを見る。
シオンはゆっくりと、亀のようなのろさで立ち上がる。
秘めやかな響きを耳にしながらシオンを瞑目する。
「……道連れなら、他をあたって」
笑えるほどに身体が重かった。
だが、生きている。少なくとも今はまだ。
ほとんど足を引きずるように立ち、魔剣を杖に痩身を支える。
「手厳しいことだ。……あいにく仇は取れなんだが、亡き友朋のもとに逝くとしよう」
「介錯は」
"妖剣・月白"の切っ先を突きつけながらシオンは申し出る。
しかしディエトリィは静かに首を振った。
手を下すまでもなかった。
見る間にディエトリィから目の光が失われていく。
そして世界が静かになった。
「……っ、は……」
ヴォルフ族のディエトリィは死んだ。
狼頭は笑って死んだ。
後には、少女の乱れた息遣いが聞こえるばかり。
シオンは"妖剣・月白"の血を拭い、静謐とともに鞘に納める。
凜。
どこか嬉しげな響きを耳にしながら、シオンは崩折れるように膝をつく。
人狼の骸に寄り添い、開いたままの瞼を閉じる。
そして、間もなく立ち上がった。
背を向け、もはやかえりみることなくきびすを返す。
この場に留まる理由はもう、なにもなかった。
ぽたぽたと赤い雫が滴り落ちる。
少女が足を引きずるように歩むにつれて、赤い血痕を地に残す。
もはやそれを構っていられる余力もない。
できれば"撃剣・カノン"も処分したかったところだが、かなわなかった。
銃身と剣身が一体化した長大な魔剣──"撃剣・カノン"。
それは今のシオンにとってあまりに重すぎた。
残念ながら諦めるほかにない。
回復するまで動かずに休憩する、という選択肢はなかった。
自殺行為もいいところである。いつ襲撃を受けてもおかしくはない。
そして襲撃を受けたとき、シオンはいともたやすく死ぬ。
ひゅうひゅうと乱れた息遣いを繰り返しながら、矮躯を引きずって歩む少女の姿はまさに満身創痍。
虫の息、とでもいうべきか。
生きているのが不思議なほどに。
死んでないのが不思議なほどに。
獣もかくやという警戒心を張り詰めさせながら、一心にシオンは歩き続ける。
そしてとうとう足を止めた。
黒馬を繋ぎ止めていた樹の幹のかたわら。
あれだけ派手に銃声が轟いていたのだ。暴れて逃げ出していてもおかしくはない。
なにせ"剣魔"の馬である。あの巨体があれば、ちゃちなロープを引きちぎる程度、なんら難しくはないだろう。
だが、黒馬はそこにいた。
泰然と、まるでそうするのが当たり前であるかのように、そこにいた。
巨体を繋いでいたロープは、案の定引きちぎれている。
何をやっていたのかと思えば、周囲の草が噛みちぎられている。
腹が減っていたのだろう。そして辺りの草を食い散らかし、腹がくちくなった後は大人しくしていたらしい。
シオンはゆっくりと黒馬を見上げる。
馬もまた、シオンに視線を返した。
つぶらで、シオンと同じ色の、蒼い瞳であった。
「ファル」
シオンはそっと呼びかける。
たった今、思いついた名前だった。
言葉にこれといった意味はない。
少女の姓──ファーライトの頭を取った。それだけのこと。
「あなたの、名前」
あなたは、私の、一部だ。
口にするともなく、シオンはそっと手を伸ばす。
黒馬は自ら首を垂れ、頭を撫でる手を静かに受け入れた。
黒馬────ファルが嬉々として嘶きの声をあげる。
ごわごわとしているが、存外に柔らかな黒い毛並み。
それを確かめたあと手を離す──途端、シオンは身体に浮遊感を覚える。
「ぁ」
気づいた時には襟をファルに咥えられ、背中にぽんと放り投げられていた。
騎乗するだけでもつらそうな主人の容体を慮ったかのよう。
シオンは大人しく好意に甘え、ファルの背中にしがみつく。
だらしないのは承知のうえだが、身体が痛くて仕方がなかった。
申し訳程度に包帯で傷口を覆ってはいるが、巻き方はきわめて粗雑。
時間がないのだから仕方が無い。
「お願い」
シオンがそっと囁くやいなや、黒馬は颯爽と駆け出した。
馬首を森の奥に向け、土を蹴って瞬く間に加速。
そのままシオンはファルに任せることにする。
普通に考えれば六水湖に戻るべきだろう。しかしシオンは、あまり積極的になれなかった。
人狼のうち、ふたり。
樹上にいた斥候の人狼と、銃剣を巧みに操った女人狼。
いつの間にか彼らの姿が消えていたのである。
襲撃がなかった辺り、戦闘が行えるほど回復してはいないのだろうが────
なんにせよ、警戒するに越したことはない。
今のうちに撒く。
そして少しでも体力回復につとめる。
それならば、湖の周辺より潜伏しやすい場所のほうがいい。
シオンはそう思った。ファルがどう思っているかはわからない。
きっと大丈夫。ただなんとなく、そんな気がした。
惜しむらくは、とうとう短剣が残り一本になってしまったことか。
一本は人狼のひとりとともに行方知れず。
一本は銃剣の爆発に巻き込まれて全損。
命あっての物種とはいえ、その命を救ってくれた得物なのである。
そんなことを考えていると、不意にファルが嘶きをあげる。
シオンの不安を気取ったのか。単なる気のせいかもしれない。
そっと細腕を首に絡ませ、シオンは黒馬に揺られるに任せる。
そのまましばらくすると、遠くに聞こえる音があった。
水面のさざめき。
川のせせらぎ。
まさにシオンが求めていたものだった。
黒馬はそのまま駆け続ける──着実に水場のほうへと近づいていく。
そしてとうとう川辺を目前にしたところで、ファルはゆっくりと脚をゆるめた。
────よくやった。
シオンがそっと手を伸ばすと、ファルは恭しく頭を垂れる。
実に如才ない仕草であった。
「……はっ……」
ずきりと走る痛みに息を弾ませながら、シオンはほとんど滑り落ちるように下馬する。
ファルは手綱を引くまでもなく後をついてくる。
茂みをかき分けながら必死に歩き、やがてシオンはたどり着いた。
日の高さはまだせいぜい昼過ぎ。なればこそ、少女の眼にも驚くべきものがよく見えた。
水車小屋だった。
川辺だから丁度いい、と建設されたのだろうか。
このような森の奥に──シオンはいぶかしむが、特に不審なところはない。
人の気配もなさそうだ。
樵か狩人か。その手の人々が、泊まりこみのために用意したものなのだろう。
まさに、僥倖。
シオンは小屋の中に誰もいないことを確かめると、手始めに家探しを行った。
水桶。火を熾すための暖炉。簡素なかまど。そしてちょっとした非常食。
つまりは必要最低限といったところだろう。
申し訳なくもシオンは勝手に使わせてもらうことにした。なにせ退っ引きならない事態である。四の五の言ってはいられなかった。
まずは川から水桶いっぱいに水を汲み、身体を徹底的に洗い清める。
死にそうなほど痛い。特に肩がどうしようもなく痛む。
胸の傷にしっかりと包帯を巻いたあと、シオンは羽織とブラウスを脱ぎ捨て、小屋の暖炉で火を熾した。
今からやることを思うと、どうしようもなく震えが来る。
だが、やらなければならない。
ごくりと唾を飲む。
開けっ放しにした扉からファルが心配そうに覗きこんでくる。
縛っておく必要もないだろうと、離したままにしているのだ。
「……いいよ」
なにも死ぬわけではない。
死にそうな思いはするだろうけれど。
軽く手を振ってファルを追い払い、シオンは短剣を引き抜いた。
一緒にボロ布──元々は少女が羽織っていた黒衣の切れっ端を取り出す。
特に意味があるものではない。
声をあげてしまわないように布をぎゅっと噛み締め、短剣を逆手に握り、なよやかな肩に向ける。
肩口に撃ち込まれ、骨で留まった弾丸の摘出。
やらないわけにはいかない、と────シオンは一思いに刃を突き入れた。
「────……ッ……!!!!」
想像を絶する痛み。
息が荒くなる。
ふっ、ふっ、と浅く早い呼吸を繰り返す。
早く。
早く探り当てなければ。
気が遠くなるほどの痛みを噛み殺す。涎どころか泡まで吹きそうになる。噛み締めた布をぐしょぐしょに濡らす。
貌どころか、全身からどっと激しく汗を拭く。
もういっそ死んでしまったほうがいい生きていられなくたって構わない────
そう思いかけた一歩手前。
シオンは刃先を器用に手繰り、肩の骨で留まった弾丸を弾き出した。
ぴん、と飛んだ銃弾がころころと床に転がる。
「……ッ……ふ……ぅ……」
痛い。死ぬほど痛い。
刃先を引き抜きながら、止めどなく溢れだす血を濡らした布で拭っていく。
黒布があっという間に深い赤黒色に染め上げられる。
それでも、重要な血管や神経などは避けるようにつとめた。肩の骨の手前までなので、傷もどちらかといえば浅い。
問題なく治る傷だった──そのための時間があるならば。
「……は……」
ひとしきり拭ったあと、もう一仕事。
弾き出した弾丸をふたつに割る。
思った通り、中には火薬が残っていた。
取り出し、少しだけあてがい、火をつける。
傷口がしたたかに焼かれる────荒療治もここに極まれりという消毒だった。
「……は……は、ぁ……」
息も絶え絶えに意識を繋ぎ、おぼつかない手で包帯を巻く。できるだけきつく。
血はまだ完全には止まっていない。時間をおいて適度に緩めてやる必要があるだろう。
だが。
「……は……」
意識を繋ぎ止めておくのは、もう無理だった。
身体がひどく熱い。全身から汗が吹き出て、どうしようもなく渇きを覚え、水桶に顔を突っこむみたいに水を飲む。
そしてついに、暖炉のそばでぐったりと倒れこんだ──水桶で溺れなかったのがまだしも幸いだった。
────そとに、だれかの、気配。
不意に何かを察知しながら、しかしシオンの意識は遠のいていく。
鈴蘭の羽織を掛け布団のようにして、泥のように眠る。
ファルだけが忠実に、主の寝姿をじっと見守っていた。




