しあわせな人殺し 9
世界は変わってしまった。
長いと思っていたあの世界での拘束時間は、実際はほんの数ヶ月の事だったらしい。私達の知覚世界が高速化していた事で、リアルワールドの何倍もの体感時間をVRで経験していたとの事だ……もっとも、その僅かな期間でさえ、私の身体には随分な代償を要求してきたのだが。
眼を閉じて、身体を意識する。最初に心臓、それから胸骨、徐々に上へと意識を巡らせて全身を知覚する。血液が末端まで巡るイメージ。私がこちらで意識を取り戻してからずっと繰り返している動作。私がここにいるという確認作業。そして少しだけ力を込めて、四肢が己の思うように稼働するか確かめる。
あの事件が何だったのか、兄はこちらでの出来事を簡単に説明してくれた。突然の犯行声明と共に、それまで稼働していたシステムが人々をあちらの世界に縛り付けてしまったのだと言う。職業柄兄も捜査に参加したとの事だったが、なぜ解決したのかはどうにも応えられないようだった。
事件は一人の男が仕組んだある種のテロとして処理された。首謀者と目される男の亡骸と共に多数の物的証拠が出てきているという事だ。おそらくは、その男こそが――いや、やめよう。作られた花に囲まれて死んだ男の事を考えるのは。
リビングで長椅子に身を預け、テレビの電源を入れる。一時には連日報道されていたVR犯罪特集も、今では昼時のワイドショーがストック用の報道材料としてちらほらと垂れ流す程度だ。
――あの衝撃的な犯罪からの生還者の一人である彼は、しかし驚異的な回復力で今や現場に復帰し……
大写しに誰かの顔が表示される。免許写真かなにかを引っ張ってきたのだろう、作り笑いを浮かべ、真っ赤なジャケットを羽織った男だ。雑音はおしゃれだの気品があるだの言っているが、その上っ面を剥けば中身は蕩けた糞と腐肉の塊であることを知っている。
――彼は精緻な指先と大胆な施術から男爵と呼ばれており、先日も難病と闘う少女の移植手術を成功させ……
耳障りになってテレビを消す。貴族気取りの狂人を礼賛する言葉なんて洗脳に等しい、あんな奴が――いや、それも或いは、ヴァーチャルという枠が露わにさせたものなのかもしれない。“クズハ”というかたちが私の手を離れたように。人の本能的な無秩序は、後天的な教育によって大部分矯正する事ができる。ワトソンの言葉は中々真に迫っている。のだろう。
誰かの構築したあの世界『エンシェント・トリニティ』は無数のデータとなって世界中に散在し、あるいは保全され、あるいはデータ破損によって崩壊している。だが、それはリアルワールドの天災と大きく違いはないようにも思える。
兄が言うには、あの世界に捉えられた人間のデータは詳細に記録され、“まるでその世界の住人のように”転写されて今も生きていると言う。今もどこかで“クズハ”が生きている。私がなぞり、死兵の劔を使う外道に育て上げてしまった彼女が私に出会ったなら、ああ、彼女は私を斬るだろうか。何もかも後に回して斬り捨てんとし、それでも劔を届かせる事のできなかった私の不出来を。
意味もなく立ち上がり、構えを取る。全身で身構え抜刀に備えるが、劔はもうそこにはない。劔など持たなくてもよい世界、それが良い世界なのかは別として、少なくとも腰の重りはなくなった。
ばちばちと神経が脈打ち、鼓動に合わせて緊張と弛緩が交互に全身をかき混ぜる。闘いを経た神経が闘争のドラッグに冒されている、きっと、もう私は以前のままではいられない、生々しい人の肉を斬り斬られる感触が、私の神経系に焼き付いている。
「それでも、あの人は」
私を赦してくれるだろうか。
唯の少女、赤穂一葉は現実へと帰還した。これよりヴァーチャルはリアルワールドとは別の系統樹を辿る。人の身に余る増殖世界に、肉体を持たない人間が溢れるまで、あと僅か。




