しあわせな人殺し 8
おん、と“葦切”が振るわれる。雑草の如く人草を切り取る為に作られたその刀は抜刀の予備動作を見せていたクズハの右の肩に、吸い込まれるようにして落ちてゆく。
鋼鉄が降る。肩口から切り開かれ、鎖骨を砕いて肋骨の半ばまで肉を掻き混ぜられる。最早泣き別れに近い致命傷が、呆れるほどに派手で、そして美しい血化粧が撒き散らされ、死装束に真紅の徒花を咲かせる。果たして予想の通りに彼女を襲う1刀に、人の身が命を保つ術はない――
「それをッ、待っていたァッ!……」
だが、この世界はヴァーチャルだ。リアルワールドに比べて生き物の死は曖昧で、ひどく死に難い。それこそ、多少の致命傷ならライフが残っていれば回復可能なのだから。
――つッ、刀身がッ……
―外法剣、肝受け―
彼女の肉へ深く刻み込まれた剣先は、同時に強く食い込んで得物を絡め取る。よしんば力任せに引き剥がせたとしても、改めて彼女へ向けるには力の反転、つまり2動作が必要となる……それでは遅いのだ。彼女は既に、既に彼を斬る腹づもりでいるのだから。
「RUUUUAAAAAAA!」
鮮血の泉を浴びて修羅が輝く。身体に沿うようにして外側に反りを向けて納刀された刀、彼女は身体の捻りを用いて、左の逆手で抜き放つ。目指すは相対者、汚れた青薔薇、そのためには最短距離で、そして対応させぬように、艶やかな血化粧を湛える彼女の右腕を隠れ蓑に、それごと彼を斬って断つ。
――現存する文献に遺されている菊理姫の逸話は多くない。伊邪那岐と伊邪那美の黄泉平坂での一幕の後、伊邪那美の言葉を伊邪那岐に伝える役割を果たす。菊理姫は神話においては二柱の仲を取り持ったことから縁結び、仲裁の神とされている。だが、仲裁とはなんだろうか。“仲”を“裁つ”と書くのではないか……。 菊理姫の権能として、生者と死者の間を仲裁する、それは曲解で、飛躍があり、しかし現実として、そこにある。彼女が仲裁を行ったことで、伊邪那岐と伊邪那美は互いに直接に話をすることは出来なかった。それは本当に、間を取り持ったのか?
外法剣 菊理の太刀とはそのようなものだ。肝受けにより死に体となった己の身を晒し、それにより相手の得物を絡め取る。その上で生者たる対手を斬り捨て、互いの生者死者の因果を仲裁し、逆転させる。クズハの得た修羅の劔は、肉を斬らせてなどという生温い対価ではない。VRという世界の特性を利用して、己が命の薄皮一枚まで相手に取らせる。肉も骨も何もかも断たせて、対価として命脈を断つ剣閃。故に――外法。おおよそリアルワールドでは運用し得ないが故に。己が命を最大限使い潰し、相手に損害を与える事にのみ特化した死兵の戦術であるが故に。
逆手に抜刀されたクズハの剣は、果たして吸い込まれるようにして煌めいた。対手に斬り込まれた己の右肩を逆から切り飛ばさんばかりに刃先を滑らせ、合わせて押し込まれた劔を追いかけて右脚で蹴り付け、圧し斬る。自然、反動で上体右半身は外へと拗られ、アンリの剣を一層絡め取る。
ざっくばらんと彼女の肩が千切れ飛び、倒れ込みながらも圧された太刀がアンリを真正面から撫でる。
どう、と地に伏せる音を響かせたのは、果たしてどちらだったのだろうか。蹴り上げられたクズハの“夕雲”が投げ出される。
四肢の欠損に伴う激痛を脳内麻薬で抑えこみつつ、クズハはバランスの狂った身体で這うように立ち上がろうとする。アンリは、青薔薇の男は、倒れたのか? 渾の込められた一撃で、これで、彼は解放されたのか?
希望を胸に抱きつつ、右を庇うように傾けながらクズハは立ち上がり、正眼。――アンリは、青薔薇は、傷口から鮮血を吹き出して、むせ返るような生物の命の芳香を香らせて、最早往生彼岸にどっぷり肩まで浸かった様で、それでも――彼はまだ立っていた。
クズハは壊れた肢体を前傾させて無理矢理に彼へと近寄る。先の業では足りなんだのであれば、舌打ちする間さえ惜しい。対手を打倒せぬならば如何な悪辣の業でも価値がないのだ。目的を果たさねばならない、彼女は、彼を打ち倒さねばならない。
今だ両の脚で起立しているアンリであったが、彼もまた限界が近い筈だ。脈打つ鼓動の合わせて鮮血が吹き出し、深い青の衣も半ば真紅に染め上げられている。得物は弾け飛んだクズハの右肩と共に数歩先へ投げ出されているが、それを拾い上げるほどの力も彼には残っていないのであろう。
ぐらりと、倒れこむようにクズハはアンリに近寄り、残った左の拳を彼の傷口へ突き入れる。早く倒れろと、倒れてくれと願いながら奥深くへと沈み込ませる。アンリは苦痛に顔を歪めるが、それでも一向に膝を突く様子を見せない。
「どうして――」
どうしてとクズハは問い掛ける。どうして子供らを助けてやれないのか、どうしてあの男に応報しないのか、私に稽古をつけた時の、殺す覚悟とはこんな詰まらない事のためだったのか。多くの疑問を胸に抱き、なによりも彼の話した信念が歪められてしまったのは何故なのかと。修羅の面が割れる、所詮は彼女もまた、役割を演じた舞台役者に過ぎない。恐怖を押し殺し、痛みをひた隠し、悲しみに蓋をして、寂しさに糊付けをする、与えられた役割を果たし、それさえ完遂すればきっと舞台は終わると信じて。
「…………」
アンリは無言のまま、クズハの右肩を無造作に殴りつける。箍を外れた激痛に最早直立もままならない彼女は枯れ木のようにぐらりと圧し折れ、バタリと仰向けに地に落ちる。
「地に落ちた実の、総てを拾い上げることは、できない……」
クズハに背を向け、引き摺るようにしてアンリは歩き出す。己自身から吹き出した赤き死の河を渡りながら、独り言のように彼は呟く。その先にあるのは、異形の装飾がなされた巨大な釜。それこそが黄金を生み出す錬成釜。このヴァーチャルを終わらせる為の唯一の手段。
「……それでも、多くの実を結ぶのであれば……唯の一つでも、か細い実りを救うことが出来るならば、私は望んで燃え果てて地に堕ちよう……神が千を殺すのならば、私はその内の一つだけでもいい、掬い上げたかった……」
諦観と少しの怒り。彼はどうしようもないほどに、孤独だった。
「だから、嗚呼、どうか……少しだけでも良い、人が、少しでも優しくなれる世界を……世界をッ!」
眼を開き、アンリは釜の中へとその身を投げ入れた。釜は極彩色に輝き、または明滅し、およそ人の描写し得る全ての変化を表して、
――唐突に、世界が白になる。




