しあわせな人殺し 7
はじめに口を開いたのは、アンリの方であった。戦闘の跡も生々しく、様相が随分と乱れている。彼は一人だ……。
「……来たのですか」
「ええ、来ました」
白装束の女は、言葉少なにそう返した。それはもう、かつて彼の元で練を積んでいたクズハではないのだろう。彼女はこんなにも涼しい笑顔を浮かべるものではなかった。これから死合う相手に、こんなにもしっとりとした笑みを与えることなど……。
「…………」
乱れた衣服を軽く整え、アンリは“葦切”を肩口へ掲げる。一方で不思議な形の―さながら棺の蓋のような―盾はやや中心寄りに構え、脚は肩の広さで左足をやや前に。独特な飾り細工のある青い衣を翻らせて、青薔薇の名を冠した男は凪のように静かに身構えた。
「…………」
対するは白装束を身に纏った少女。女性と言うには未成熟で、子供と言うには大人びている、なるほどそれは少女という分類の他にない。だが、百の言葉を並べても彼女の最奥には届かない、何よりも彼女を示すのは内に秘めた修羅である故。
納刀された“夕雲”の柄にじっとりと染み込んでいるのは、修羅へと化身した彼女の情念だろうか。ほっそりとした乙女の指先で巻かれた紐の感触を確かめるようにして、そうして修羅は荒々しく身を静める。
にたり、と獣は笑う。眼前にそびえる獲物の肉を求めて、今か今かと牙を鳴らしている。見開かれた眼球は瞼を食い破るように前へと押し出され、口元は歪に歪んでいる。醜悪なその姿が、それこそ彼女の望んだ力。一切を打ち払う為という唯一つを残して全て捨てた彼女の覚悟。その身を荒ぶる羅刹と化し、万象なぎ払う為の爪牙だ。
何か声をかけようとするミルディンを、ドロテアが片手を上げて制する。最早友の言葉すら、彼女達には雑音に過ぎない。これより始まるのは死合なのだから。
「…………」
「…………」
盾を前面に出し、身体をどっしりと地に着けるアンリに対し、クズハはやや前傾に身体を向けて、“夕雲”の柄に手を添えている。抜刀による迎撃体勢だ。双方対手の打ち込む隙を見て斬り込む姿勢。装備と構えの比較からややアンリが優勢と言った所か。いかに神速の抜刀術と言えど容易く斬鉄を為すことはできない。その上、熟練の手に収められた盾である。受け流す事を意識されては、貫き通す事は一層難くなるだろう。
クズハの剣術は素肌剣術、平服の相手を想定した剣技と装備である。日本刀は確かに粘り強く良く切れるが、それでも受け流されてはそう上手く事は運ばない。
“斬る”という行為は、ある物質の結合を解くということである。密に詰まった分子結合に別の分子を差し込み、半ば押し潰しつつ解す。劔が斬ることに長けているのは、かかる膂力に対して対象への接触面積が小さいからだ。接触面を限定して圧力を極限まで圧縮し、反りによって接点の上を滑らせることで強烈な摩擦を起こし、するりと引き剥がしに掛かる。それは芸術的とも言える所業であるが、同時に精密な動作が必要とされる。
対するアンリの剣は、どちらかと言えば鉈に近い。大振りの刀身は切れ味というより重みで圧し切る剣だ。海賊が携えるようなカットラスに近いか。一撃ではクズハほどに深く刻めないが、その代わり重量がある分一撃一撃の安定性が増す。盾でいなし、的確にダメージを蓄積させるという戦法は、確かに技巧派である彼には向いているのだろう。そしてそれは防御に重きを置いた剣であるが故に、一撃を狙うクズハは劣勢である。今、無策に彼に走りより抜刀を行おうとも、盾に防がれ、肩口より切り開かれて無残にも果てるだろう。技巧が拮抗しているならまだしも、彼女はまだ彼に師事していた頃から幾分も経ていない。彼女が生を拾える道理なぞないであろう。
なればこそ、あえて突進する。死中に活など愚者の戯言ではあるが、微小な可能性であろうとも彼の虚を突く以外に刃筋を通らす術はないのだ。彼女は既に決めている、その為なら命の一つや二つくれてやろうと。
音もなく脚を抜き、白装束の乙女が地を駆る。男の首筋に牙を突き立てる為に、受け取ったものを返すために。己の何もかもを振り捨てて、防御すら速力の為に削いで切り捨てて、けれども男は冷静なままだ。
アンリは盾を構え直し、彼女の抜刀を迎撃する体勢に入る。彼女が抜刀術を発揮するならば、彼の右側面より剣閃が光るのが道理。なれば自然、盾は彼の右手へと寄る、ここで剣を担いだ事が効いてくる。正眼に構えていたならば、右手に握った剣を逸らす反動を利用して身体を捻ることができたろう、しかしそれ以上に予想外の出来事があった場合、作用した肉体の軌道を歪めるには常以上の力が必要となる。初めから剣を担ぎあげておけば、身体の捻りは加えられないものの、直撃の刹那まで対応が可能となる。いかに彼女が鋭い剣を持つと言えど、今だ技術的な面では彼に及ぶべくもないのだ。反動を持たない盾でも十分に対応できる。柔らかくしなる手首の感触を感じつつ、限界まで彼女の剣先を見極めつつ、的確に盾を用いて、逸らす。そして可能であれば、抜刀の暇すら与えずに斬り落とす。カウンターとはなにも後の先だけではないのだ、先んずれば即ち制す、動きさえ見えれば斬って捨てれば良いのだ。
クズハがアンリに肉薄する。体幹が左半身へと傾き、右手が僅かに揺らぐ。抜刀の前段階としての体重移動だ。本来は上半身の捻りを用いるのが正道だが、生半可な膂力では盾を押し切るに足りないと踏んだのだろう。
それが命取り、迂闊な重心移動は、その逆を打たれては対応が出来ないと自ら告げているようなものだ。然らば泥付きの男に取っては、容易く切り開くことの出来る隙間でしかない。
おん、と“葦切”が振るわれる。雑草の如く人草を切り取る為に作られたその刀は抜刀の予備動作を見せていたクズハの右の肩に、吸い込まれるようにして落ちてゆく。
鋼鉄が降る。肩口から切り開かれ、鎖骨を砕いて肋骨の半ばまで肉を掻き混ぜられる。最早泣き別れに近い致命傷が、呆れるほどに派手で、そして美しい血化粧が撒き散らされ、死装束に真紅の徒花を咲かせる。果たして予想の通りに彼女を襲う1刀に、人の身が命を保つ術はない――
「それをッ、待っていたッ!……」




