しあわせな人殺し 4
ふう、と熱い息を吐く。座り込んでいるだけだというのに噴き出るような汗を身に浮かべ、彼女は顔を上げる。その視界を、ぼふりと放り出されたタオルが覆う。
「貴方は……、貴方は本当に化物になるつもりなの?」
いつの間にかミルディンが彼女の傍らに立っている。うん、私もまだまだだ。仲間であることと、斬る必要のない奴であることは等しくないのだから。
彼から渡されたタオルで顔を拭く。……臭い。酷く臭い、生き物の匂いがした。
「なにが貴方を、そんな急に変えてしまったっていうの。まるで彼が乗り移ったみたいに……」
心配そうな眼を向けるミルディン。ああ、この男はやはり善性なのだろう。博愛ではなく善性。己を善たれと律する精神の持ち主。それは後天的な、だからこそ非常に実際的な善人だ。やはり、この男には彼を斬ることはできないだろう。
ドロテアはどうだ? 最前線に立ち、怪物どもを薙ぎ倒してきた実績もあり、同胞の信頼も厚い。だが、だからこそ不可能だ。彼女が失った多くの輩、その悲しみを漱いだあの男に大して、彼女は崇拝に近い敬意を抱いているだろう。クズハ自身、彼に対する敬意に心当たりがあるからこそ、ドロテアには無理だと分かる。彼女は軍団の長であり、だからこそ考えてしまう。そしてその刹那が致命となる。動きの止まった人間なぞ藁束と同じだ。いずれもするりと斬れ飛ぶ他ない。
「呪いなんて上等なものではないよ、ミルディン」
押し殺すような、潰れた声帯から無理やり吐き出したようなしわがれた声。明朗で少し大人ぶっていた頃の彼女とは明らかに違う、何か異質なものの気配。ミルディンは知らず、身構える。この子は、自分の知らない間になにか別の、全く同じ姿の化物と入れ替わっているのではないかとすら思う。
「これは“誓い”だ。人間が己の都合で結んだ、違える事の許されない契約だ。我かく在るべし、彼かく在れ。即ちそのように結んだ我々の、違えの許されない絶対に過ぎない……それをッ!」
業、と殺意が巻き起こる。華奢な白装束の、ともすればまだ幼さの抜け切らない少女の放つ絶対の気配に、辺りの冒険者達は知らず身構え、街中であるというのに抜刀しているものすらある。
「あの男は違えた! いかなる理由があろうとも、より多くの落穂を拾うための犠牲を許容したのだとしても、それだけは、それだけは決して許されるものではない。人斬り包丁はその先にあるものを生かすからこそ正道であったのを、あの男は無様にも邪剣に貶めたのだ……なれば」
斬らねばなるまい、とクズハは言ってのける。
「ミルディン」
不意に名を呼ばれ、彼の身体はびくりと強張る。埒外の事に動揺したのか、殺意を纏った彼女の気配が殺到したからなのか、それは彼自身にも分からなかった。
「500層、最終階層の攻略、それが最後。どうかお前は違えてくれるなよ」
「……」
***
「ん素ン晴らしぃ、ああああぁあいいよイイヨ良いよ私の“青薔薇”の騎士よ。これでもう残すは最後、500層のみになってしまった。人々を憎み合わせ、殺し合わせる限界状況から脱するまであと僅かだ! ああ、誇ってよいとも、君こそはこの世界に囚われた人々のメシア、その力は偽りの造物主の作り上げた世界なんぞ破壊してしまうだろう。ああ、だが心配することはない、君が壊した後は私が、この私が創り上げるのだから!」
仕立ての良い身なりのまま、劇場型に嵌りながら喚いているバロンを尻目に、彼は沈黙している。
――まだなのか……
彼は待っている。蒼き衣が風に煽られ、ふわりと浮かぶ。彼は待っている。盾を背負い直し、装備を整える。刀身を眼元に近付け、その刃先を確かめる。彼は待っている。
単調な電子音がぽぉんと響く。音は彼にだけ伝わって、そしてそれは彼宛のショートメッセージ。蝋で固められたかのように感情のない顔をしていた彼が、少しだけ笑った。そしてバロンを背にして歩みつつ言う。
「損傷軽微、このまま500層の解放へ向かいます」
一時の沈黙を隠すように、狂人の如く男爵が笑う。卑しい男の哄笑を背に、男は笑いながら往く。アンリの道は、既に成ったのだ。なれば、よい。全てよい。後のことは全て――
「お前を殺して仕舞いだよナァぁ」
ずぐりと肉が断たれる感覚。深々と左の肩口に推された短剣。振り返ると、バロンもまた倒れている。あれは、毒――
「俺は忘れねェぞ、お前が殺した仲間の事も、得物の分際で俺から逃げやがった事も、なによりこの俺を、“デルフィ”を侮辱しやがった事をなァ」
ボロ布を身に纏った男の姿が視界に映ると共に、がくりと膝が折れた。動きが……身体の自由が。
「俺は決してお前を赦しやしねェ。人が悪党やってるって言うのによォ、なんでお前はのうのうと正義面してやがンだよォ!」
彼は、そうか。いつか、PKを企てて襲ってきた……
「俺とお前に何の違いがあるって言うんだ。あれこれ御託並べようが所詮は人殺しだ鬼畜の外道だ。人の命奪っといて英雄面なんてさせるものかよ。この世界の攻略なんて知ったことか。人間はそんな単純なものじゃねェんだよォ」
泡を吐きながらアンリに罵声を浴びせるデルフィ。おそらくはパラメータ上昇系薬物の過剰投与。一時的に能力が上昇するが、ソレを倍するバックファイヤや、時には永続的な能力低下すら発生させるそれ。だがそれすれ構わずに彼はこの瞬間に、アンリへ憎しみをぶつけるためだけにそれを用いている。なんら合理的でない、破滅的な行動だ。ここでアンリが倒れてしまえば、彼自身すら現実への帰還が遠のくというのに。
「理屈だなんだで人間が縛れるかよォ。この身を焦がすただ一つの、憎悪。それを晴らさないで人間面してるやつなんざ呼吸する機械だ。俺とは違う、それだけでお前は万死に値するんだよォ」
半ば感覚のない体で、それでもアンリは剣を取る。
「さあ、殺し合いだッ!」




