しあわせな人殺し 2
ミルディンに呼ばれたドロテアが出会ったのは……それはもうアンリの背を追いかけていた、美しい輝きに満ちた眼を持つクズハという少女ではなかった。
一人石の上で座禅を組んでいる彼女の後ろ姿からも分かる。不気味な位に落ち着いている風で、実際には全身から威圧的な気配を撒き散らしている。抜き身の剣もかくやという切れ味の剣気で、しかし恐ろしい事に彼女自身は平静で、そしてそれは武を持たぬ者には分からぬように最低限隠されている。
――修羅……
ドロテアは心中で小さく呟く。六道の一つ、修羅道へと降りた生物は延々戦い続けるという。それこそ、死ぬまでなどという言葉すら生温いほどに、呼吸するのと同じように、心の臓が脈打つのと同じように、抗い難い本能のように暴力を振り蒔く。
剣術のための精神修養については多くの流派が持ちあわせているが、大抵の場合、静謐で透徹した心でもって物事を見通す、という方針が主流である。これには陰流系統の柳生などが関わってくるが、今は置く。
けれども、だからこそクズハは修羅を選んだ。彼女がアンリと同じ道を辿っても敵わないと踏んだからだ。唯の学生だったクズハにとって、リアルワールドの時代から修練を積んだ男はあまりにも高い壁だ。
だからこそ、修羅を宿した。
「……ドロテアさん、1手、指南願います」
すぅ、と音もなく立ち上がるクズハ、撒き散らされていた剣気が振り返る彼女に収束され、眼光でもってドロテアの首を狩りに殺到する。
知らず、ドロテアは抜剣していた。本能で悟ったのだ。構えねば取られると、生半な術理では切って捨てられると。……彼女は私を斬る、容赦なく。その気配は死兵にも近い。例え己の腕を落とされ、脚を潰されても牙で以て応報して殺す。致命の加撃を喰らったならば、命を落とすまでの僅かな刹那に一当てして殺す。殺される前に殺す。殺されずとも殺す。生温い肉を刻み、押し返す骨を圧し切り、臓腑に指を差し込んで撹拌する。如何なる手段を用いても、己に相対するものを打ち倒すという気迫がある。
半ば無意識に剣を身に寄せて構え直すドロテアは、剣気に惑わされながらも相対する彼女自身を観察する。
抜刀術を用いる彼女は速度を重視しているためか、急所を守る簡易的な防具以外は平服のままだ。西洋系の装備を基本としているドロテアにとっては速度劣勢だ。
だが、それは一合目を耐えれば押し切り易いということでもある。
日本式の剣術には介者剣術と素肌剣術がある。前者は鎧武者を相手にする闘法で、組打ちなどの柔を含んだもので、剣は主として鎧の隙間に打ち込むことを基本としている。鎧の上から切り捨てる、所謂“兜割り”のような業は万人に適正があるわけではない。そして何より、わざわざ厚い装甲の上から相手をする必要もないのだ。敵が弱みを晒しているのなら、その部分を徹底的に叩けば良い。
一方で素肌剣術というのは太平の世で純粋に剣技のみで競うための業だ。勿論相手は鎧武者でなく、平服の素肌者を想定している。その業は相手の剣をいかにして潜り抜け、そして己の一太刀を浴びせるかに終始する。鎧などの頑丈な防具なしで剣を止めるには、ほぼ剣でもって相対する他ない。
クズハの得意とする抜刀術は、太刀の尺から言っても素肌剣術に分類されるだろう。なればほぼ全身で剣を受けることのできるドロテアが有利だ……有利な筈であるのに。
――この予感は何だ? 何かがおかしい、なにか、得意な業を彼女が隠しているとでも言うのか……
じっとりと額に流れる汗を拭う暇もなく、髪が肌に張り付く。さあさあと揺れる木陰、単調な草の香り、そして自然の一部のように起立しつつ、けれども明らかな異物として佇むクズハの形をした剣鬼は、なんだというのだ。
揺らぐこともなく、けれども輝くこともなく、貼り損なった単色のテクスチャの様に動かないクズハの眼。ああ、あの眼だ……彼女はあの男と、アンリと同じ眼をしている。
先に打ち込んだのは、意外にもドロテアの方だった。大振りのツーハンドソードを肩に抱えるようにして、己の悪い予感を振り払うようにして豪と打ち下ろす。速度、重量、筋力、それらを合わせて破壊力とする。基本にして最大の一撃であるそれを打ち込んで、それでもクズハは怯まずに、むしろ前へと躍り出る。
ドロテアが驚愕する間もなく、クズハは大剣の根本に入り込む。そしてまるで己から飛び込むようにして、左半身を剣に食い込ませた。
「なにッ」
剣というものの力には遠心力も大きく関わってくる。先端に近づくほど長い距離を振られるので、確かに懐に入りこめば力が入りきる前の不完全な一閃となる。確かに戦術的には間違いがない。だが、それでも狂気の沙汰だ。西洋剣は日本刀のように滑らせて斬るという理念が薄い分、重みと厚みで叩き斬るのだ、幾ら懐に飛び込んだとしても重症は免れない。それを、あえて己の半身で受けるなどとは。
だが、クズハの思惑通りに、ドロテアの西洋剣は彼女の左半身を半ばまで刻んで食い込んだ……そう、剣を止めたのだ、己の肉体でもって。
肉を切らせて、などという生易しいものではない。半ば肺にまで達している剣は、遠からずクズハの命を散らせるだろう。噴き出る鮮血が彼女の命を塗り潰してゆく。最早再起不能であろう……リアルワールドであれば。
だが、この世界はヴァーチャルだ。命さえ残っていれば、四肢の欠損なり臓器が1つ2つ潰れた程度で死にはしない。
己の肉と骨による白刃取り。肉も骨も斬らせて、代わりに相手の命脈を断つ。
食い込んだ鉄の固まりで左半身をかき混ぜられながら、それでもクズハは1片の迷いもなく抜刀する。
しゃらん、と。鈴の鳴るような音。すらりと引きぬかれた刀身。クズハ自身の身から溢れた血を纏い、刀身の波紋がぐらりと獰猛に揺らぐ。赤い線が、ドロテアを腹から断ち割った。
そのまま、しばしの硬直。
ドロテアが正気に戻ったのは、己の胴がまだ泣き別れしていない事に気付いたからだ。先の剣筋であれば、確実に取られていた筈だが……。
見れば、クズハの剣はドロテアの鎧の上でピタリと止まっている。呼吸が荒い。全身から吹き出た汗が指先を滑らせ、ガントレット越しに掴んでいた筈の柄からズルリと両腕が滑る。
知らず、後ずさっていた。死が怖かった。クズハの振るったあやしの剣閃が、そしてなにより、必滅の構えから微動だにせぬ彼女自身に。
「……外法剣“肝受け”及び“菊理の太刀”、ここに成れり」
静かに呟いたクズハは、無造作に左肩から大剣を引き抜くと、回復用のポーションを実体化させて飲み干す。修復のエフェクトが輝き見る間に彼女の四肢が再生されてゆく。特級クラスの回復アイテムでも、彼女の身体の損傷を復元するには幾らか時間が掛かるらしい。
「ご指南、ありがとうございました」
千切れかけた左半身もそのままに、クズハは納刀してドロテアに一礼する。ぴしゃりと剣の腹から払われた血糊が草を朱に染める。降りかかった赤に冒されるようにして、草は精気を失う。
「お前は……何を求める?」
異常なまでに相対する者を斬り伏せることに執着した剣技。およそ現実では存在し得ない異形の業。彼がいた頃にはまだ、そんな色はなかった筈だ。一体なにが、彼女をそれほどまでに、修羅に走らせたというのか。ドロテアは早鼓を打つ内心を押し殺して彼女に問い掛ける、そして、改めてクズハを見る。ああ、白い装束を鮮血に染める彼女の姿は、それは死に化粧のようではないか。
「……アンリという男は死にました。己の信念を曲げたのならば、彼という生き物は既に存在しない。残っているのは唯の残骸で、彼のふりをしている血袋に過ぎない」
平素と変わらない声の調子、けれどもそれはあのアンリに恐ろしいほどに似ていた。
「私は貴方に依頼する。あの男へ続く道の露払いをして欲しい。彼は、あの男は、青薔薇は私が、この私が……」
握り締められた指先が真っ白になっている。ほっそりとして美しかった彼女の細やかな作りの手は、ふるふると震えている。
「斬る……」
「斬らねばならない。彼が己の信念を曲げる以外なくなってしまったのであれば……己が望む道を行けぬようになってしまったのであれば、“彼”が“あの男”になってしまったのであれば、私が斬らねばならない。それが彼との契約、“私は彼を殺す覚悟をした”それだけのこと。即ちするりと斬って捨てましょう」
ごう、と沸き立つ殺意を隠すこともせずに言ってのけるクズハの圧に気圧され、ドロテアは一歩後ずさる。何もかもを振り捨てて、目的を果たすという情念。ああ、彼女は己も身を総て焼き尽くして、それでも止まることはできないのだろう。
そして胸中でアンリに問い掛ける、そうせずにはおれない。貴方は、どうして。どうしてそのような様に成り果ててしまったのですか、と。




