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しあわせな人殺し

 悪党


 悪党、悪党、悪党




 孤児院の跡地に、一人の女が立っている。構え、振るい、戻す。構え、振るい、戻す。無心になり振るう。敵を幻視して構える。更に切り捨てるために戻す。


 クズハがアンリの話を聞いたのは、眼を覚ましてから。全て終わってからのこと。何もかもが定まってしまった。青薔薇なんていう醜悪な名で呼ばれながら、彼は今も傀儡となって上層の制圧に邁進している。子供達を残して、あの優しい世界を打ち捨てて。


 破壊された修道院のエフェクトは既に修復されていて、人はいない。がらんどうになったその場所の人気の無さが余計に寂を喚起する。


 あの日、クズハもその場所に居た。子供らが攫われた場所に。ミルディンは帰っていて、アンリは赤のクランに招かれていて……クズハはその場所にいたのだ。


 じっと手を見る。ヴァーチャルの組み上げられた皮膚組織の指紋の形、細胞の1片まで眼を凝らして見つめる。何もできなかった、彼女は何も守ることができなかった。


 構え、振るい、戻す。構え、切って、戻す、圧して、刻み、戻す、教えられたルーチンをこなす。彼女を見ているものはなにもない。あの心地良い共同体は壊れてしまった。


 彼女は己の無力を嘆いた、だが、そんなことはどうでもいい。彼女は誓いを果たさねばならない。あの男を――


「……」


 頭の中であの男をエミュレートする。存在しないその男がぼんやりと浮かび上がり、クズハは夕雲を構え直す。


 その動きに応じるように、男が曲刀を構える。青の衣を纏い、棺のような特徴的な盾を左に掲げる。


 やや上段に構えられた曲刀は盾での防御可動範囲を考慮しての構えだろう。あの男は数合は見を重視する。相手の挙動を分析し、呼吸、脈拍、体温に発汗量、視線の癖、それに意識を向けている部分をもまた分析している。所謂待ちの剣なのだ、最初の数合は。


 総てを意識して、その上で意識を捨てる。五感総てを使い空間を丸ごと知覚し、その上でそれらに知覚を向ける事を捨てる。あるがままに、手を伸ばした上で手を引く。彼は空間を受け入れているのだ。達人は試合の最中に鳥の囀りを聞き、木立の囁きを知覚するという。意識を向けるという事は一部に大して知覚能力が鋭敏になるということであるが、同時に意識外のことについては注意が散漫になる。人間の知覚能力に限界がある以上、盲点は必ず存在してしまう、なれば、そもそも知覚能力を使用しなかればよいのだ。此方から能動的に手を伸ばすのではなくむしろ受動的に、発生した現象をあるがままに受け入れること。そうすれば総てにおいて俯瞰して知覚することができる。能動器ではなく受動器として感覚を使用すれば、盲点は存在しえない。人間であらば誰しもが持っている単純な機能を拡大したに過ぎない。


 そして、あの男のそれは彼女の一つ先を行く。


 音もなく傾けられた盾の上に、曲刀が添えられる。刃先を己に向けた得意な構え。そう、かれは特異な“見”の力を持った上で、それらを捨てた所でなんら問題ない力の剣をも持ち合わせている。斬り合いすらしない内にクズハの値を定め、そしてこの業によれば足りると考えたのだろう。それはクズハにとっては悔しいかな己との力量差で、この上ない屈辱だ。


 オマエを倒すのにはこれで十分だという明確な意思表示。品定めされて、その上で力押しでよいと断じられたその屈辱が! ああ、彼女を苛立たせるが、それでも迂闊に斬り掛からないのは彼女の剣士としての矜持か、


 速剣であれば本来は刃渡りや重量などの関係からクズハに分がある。抜刀術についても正式に鞘走る彼女の装備が一段憂上手だろう。それを差し置いておまえが下だと、試しの鍔迫りすら必要ないと断じられることのどれほど屈辱であるか! もっとも、それもまた彼女の心を読み取り、剣閃を鈍らせるための策の一つであることも分かっている。布石の一つというやつだ。なんにせよほんのひとつでも気を散らせればそれでよいのだ。剣術仕合というやつは大抵がものの数合で優劣が決まる。それも、どちらかの死を以て。一瞬を侮るものが永劫を悔いることとなるだ。


 彼女は万全に備えるため、夕雲を納刀して柄に手を添える。身体を縮めて全身のバネを引き絞る。抜刀とは一撃に総てを掛ける剣術だ。一瞬の判断で相手より勝れば即ち打ち倒し、負ければ即ち腹を晒して死ぬる。単純にして明快な戦だ。


 木立が揺れる、太陽が二人に照りつける。羽虫が六枚羽根をばたつかせ、、薄葉がひらりと舞い落ちる。音もなく踊り、静かに大地へと下る深緑の薄葉…………それが、合図となる。


 ぐるり、と世界が入れ替わる。膝を抜くようにして沈み込んだ男の肢体が重力に従って前へと繰り出され、彼があった筈の世界がない世界へと入れ替えられる。それは単なる錯覚で、意識の外で物事が変容したために過程の一切ない物事のように脳が錯覚しているだけだ。


 それに相対するために、クズハは身体を極端に下に向ける。相手が下段に踏み込んでくるのであれば、抜刀術によって対抗するには、己に斬撃が加わる刹那、皮一枚まで近付いた所で斬り伏せる以外ない。


 踏み込んだ奴の剣閃がズラリとクズハを切り上げる。曲線を描いた刃先が彼女の装甲の狭間を縫い、装甲の浅い部位を撫でるようにして切り苛む刹那……、だからこそ、その位置にいるからこそ、彼女は鯉口を切る。まるで地面に叩きつけるかのような不気味な剣先が発射され、勢い込んで男の右腕を半ばから斬り落とす……筈であった。


 すらりと長い夕雲の刀身に触れた途端、男のエミュレートが揺らぐ。クズハの集中力が揺らいだのか、斬り合いになることすらなく彼のゴーストが音もなく消え去る。


 クズハはその場に膝をつき、ぎり、と柄を握り締める。


「憎しみとは、こんなにも、こんなに……こんな……」


 手の震えを抑えようとして、そうして力を込めても一層震えが止まらない。抑え切れない、心にべっとりとこびりついた激情。他の何もかもを振り捨ててでも、それを手に入れようと願う。誓い、憎悪、憧憬、怨嗟、矜持。それらが混ぜこぜになって彼女を惑わせる。一通りでない彼女の精神状態がただひとつの行動原理を求める。


「あの男を……斬る……」


 限りない奈落にも等しき深淵、その感情の名は……

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