金色に至る赤
すだり、と拳を構える。アンリに相対するクズハも同じく。互いに徒手空拳、棒きれどころか寸鉄一つなく互いに向かい合う、それでもこれは剣の訓練なのだ。
「それでは、参ります」
はいとクズハが返事をするのも待たずに、ずるりと地を這うようにしてアンリが足を滑らせる。五メートルほど離れていた間合いが、一瞬にしてゼロになる。瞬歩と呼ばれる運足の一つで、彼の場合は“足抜き”と呼んでいる特徴的な歩法だ。体重移動と重力を利用して一歩を劇的に早く、そして体勢を整えたまま進める事ができる。アンリがまずクズハに教えたのは、この歩法であった。
闘争においてはまず何よりも、間合いが肝要となる。どれほど優れた剣技の使い手であっても、距離を保った弓兵に剣を当てる事は出来ない。
もっとも、この世界ではその理は少々異なるのではあるが、それにしても自身の間合いまで斬り込まねば一撃加える事もままならない。
間合いを詰めたアンリから逃げるようにして、クズハも同じく足抜きをする。ボっと空気を突き破り、瞬間的に加速した。先程と同じか、それより少し近い程度に距離を取った彼女は、そのまま次の一歩を踏み出そうとして……転んだ。
大きく身体を捻りながらばたんと転げるクズハを意に介さず、アンリは更に足抜きをして彼女へと間合いを詰める。
クズハは地に付いた上体を腕の力で跳ね上げると、その勢いのまま後ろへと飛び退り――
「……悪し」
「あぐぅ」
脇腹に拳がめり込んだ。アンリの渾身の拳が肉に響き、クズハは唾を吐きながら今度こそ倒れた。
「空中では動きが制限されます。運足を活かすためには地を這えと教えた筈です」
口から涎を溢し、文字通り地を這いずくばっているクズハを見下ろしてアンリは言う。その表情はいつもの様に静かで無愛想だが、その様が今は殊更冷徹に見える。
「立ちなさい、まだ鍛錬は終わっておりません」
苦悶にのたうちまわり、立ち上がる気配を見せないクズハを彼は蹴り飛ばす。
単体では用をなさないとは言え、彼が彼女に教えているのは人を殺すための技術なのだ。どんなに取り繕ってもそれは変わらない。だからこそ、その技を得る者もまた、地獄のような苦しみを味わうべきだと彼は考えている。その技を求めるのであれば、女子供であろうとも容赦してはならない。そのような極端な思考こそ、彼が既存流派にいられなかった理由の1つでもあるのだが、閑話休題。
そんな理不尽なしごきも、既に幾つか日を重ねている。アンリは眼前に彼女を見下しながら思案する。一体、何がここまでして彼女を追い立てるのだろうか、と。どうして彼女はもういい、ここまでだと言葉を翻さずに、自分についてくるのだろうか。
思えども口には出さず、苦しむ弟子が立ち上がるのを、アンリはじっと待っている。
そも、本来この訓練は棒きれでも手にして行うようになって始めて正しい形になっていると言える。間合いという点では現在の無手の方がよっぽど短い。近いという事は、この追いかけっこもより深く踏み込む必要があり、クズハにとって有利になっている。本来の間合いであれば、彼は既に三度は彼女に斬り掛かっているだろう。
この形式はクズハへの温情措置であると共に、より深い間合いへ斬り込むため、アンリの修練の一環にもなっているのだ。懐に踏み込めば相手も力を発揮するのが難しい。力を込めるまでの助走距離が短くなるのだ。振りかぶった攻撃などはこれで大概が力を失ってしまうだろう。
アンリの流儀は、とにかく相手の観察を第一に考える。そのためには足を動かして生き残り、受け流して観察し、踏み込んで斬り伏せる。大きく三段階に別れたその思想のうち、最初に必要となるのが生存性を上げるための運足なのだ。敵は容赦などしてくれはしない。なにせ己に害なすもの総てが敵なのだから。例えそれが師であっても変わらない。
「まだ、やりますか」
「……とうっ……ぜんっ」
俄に立ち上がり、ぼうと空を切って足を引くクズハ。アンリは仏頂面のまま、またずるりと地を滑って彼女へと近付く。
そんな追いかけっこを、ミルディンは傍らで子供らと共に眺めている。
「おっちゃんはあれ、やらないのか?」
「おねぇさんとお呼びなさいな。それに、私は良いのよ、斧はあの動きと違い過ぎるもの。私はずっしり構えて、じりじり近寄って、どっかと叩き潰すのよ」
ふぅん、と子供は生返事だ。ま、実際の戦いまでは想像できないでしょうねぇ、とミルディンは溜息を吐く。この場所の子供らは戦いから隔絶した世界に生きている。それはこの場所を仕切るポレットが望んだ事でもあるし、アンリが望んだ事でもあるのだろう。
無知は罪だろうが、それでも子供らを争乱に巻き込むよりは良い。それに着いては彼も同意見だ。子供が戦う世界なんざ、ろくでもない。
「ああいう大人になっちゃいけないわよ」
「それっておっさんの事?」
「あの二人、どっちもよ」
見ているだけで危なっかしくてないったら、と彼は心の中で呟いた。




