蘇える雪
山あいの広大な敷地。自然に囲まれ、人間の手による建造物は、一部を除いてほとんどと言っていいほど存在しない。
鳥の鳴き声や、樹木を揺らす風の音がかすかに聞こえるだけだ。
そこに、静かなその里には似合わない背広姿の男たちが、せわしなく足を踏み入れていた。
これが初めてではない。もう何度目になるか、男たちでさえ分からないくらいだ。もちろん行く先は、敷地の奥まったところにポツンと建つ、古びた、それでいて荘厳な日本家屋。そこに住むたった一人の老人に会うため、都会から数時間もかけてやって来たのだった。
男たちの代表であろう身なりのいい男が、一つ息をついてから、思い切ったようにドアを叩いた。
しかし返答がない……。
しばらく待ってから、もう一度叩いてみる。いないはずはない。田畑も見て来たし、遠くに出かけるということもまずあるまい。農作業も今は休みのはずだ。だって寒さも厳しくなってくる時期なのだから。
そっと耳を寄せようとした途端、勢いよく開いたドアの向こうから、いきなり冷たい水が浴びせられた。
「うわっ!」
察していたように男は飛びのくと、「いやはや、いらっしゃったんですか」
と、取って付けたような愛想笑いを振りまいた。
「またお前か」
古いドテラをまとった老人が、次のバケツを持ち上げようとしている。
「ま、待ってください。どうしてもお話を聞いていただきたく――」
「話は充分、聞いて来たはずじゃ」
「いえ、そうではなく、今回は源三さんの味方として来たつもりです」
「味方? わしを追い出そうとする奴が、今さら何を言っとるか!」
と、源三は一喝した。
「この土地をリゾート開発の拠点にしようという話、国が乗り出して来ました。強制退去になれば、あなたは行き場を失います。だからその前に、どうしても調印して欲しいのです。余生は国が保障します」
国? 強制退去? リゾート開発問題は、民間企業の娯楽的発想ではなかったのか?
開発事業団の責任者を名乗るこの男が最初に訪ねて来たのは、いつのことだったろうか。一年……いや、もっと前だったかもしれない。
先祖代々守られてきた広大な敷地。大きな町や村がすっぽり入りそうなこの土地で、源三は七十余年を過ごして来た。自分の生活を守る少しだけの田畑で、他人の手は借りず、自給自足に近い生活を送っている。その周りには、人間の手を加えない自然がそのままの姿で残っているだけだ。
突然やって来た男たちは、この土地を買い取りたい、と言って来たのだった。都市部周辺の娯楽施設は、もうすでに時代遅れだという。そこで注目されている自然との共存リゾートを開発するべく、未開の地であったこの場所に狙いを定めたのである。
「自然の景観はそのまま残します」
と、男は言った。しかしよく話を聞いてみると、土地を造成し、森林を伐採したあと、新たな人口の緑地帯やアスレチック森林帯なるものを作り直すというのである。
「お国が日本の自然を壊そうというのか」
源三はそう言って、男たちに目をやった。
そして、静かに語り始めた。
「ここはのう、冬になると雪が降る。しかもただの雪じゃない。一気に降り続いて、あっという間に埋もれてしまうんじゃ。この庭から見てみい。どれほどその姿が神秘的なものか、実際見たもんでなければ分かるまい。そんなところに、れぞ、れぞーと何とかを造ってみろ。みんな雪に埋もれてしまう。そして、誰も助けに来ねえ。いや、助けたくても、この土地に入ることさえ不可能なんじゃ」
「だから、それは何度も言ったはずです」
と、男が口を挟む。「この村に、いや、源三さんが守ってきたこの辺りには、もうそれほどの雪は降りません」
源三は、鋭い視線を男に向けた。
「なぜ降らない。理由を言ってみろ」
「だから我々も調査しましたし、国の管理下にある気象予報士だって断言しています。だってこの場所には、積もるような雪は三十年も降っていないんですから」
と、男は断言したのだった。
そう、源三が見た雪は、若い頃の思い出に過ぎ去っていたのかもしれない。
「よし、分かった」
と、源三は言った。「賭けをしないか。着工予定日までに雪が降らなかったら、わしは諦める。だが、もし雪が降ったら、この土地はわしが守って行く、と」
「しかしそれでは、源三さんの生活が――」
「どうせわしの寿命は残り少ないんじゃ」
源三の目が男からそれて、木枯らしが吹き付けるその大地を見ていたのだった……。
囲炉裏のそばに、背中を丸くした源三の姿があった。何を考えているのか、じっと赤い火を見ているだけだ。
ハンコは押していないものの、リゾート開発の着工予定日が明日に迫っている。もちろん契約が済まなければ、シャベルどころかスコップだって突き立てるわけにはいかない。
そんなことは分かっていても、源三は納得し難いものがあったのは事実だ。
もし明日、雪が降らなかったら……。
いや、降るはずがないことは分かっている。テレビや新聞の天気予報でも、この一週間は快晴だと告げていた。だとしたら、素直に明け渡すしかないのか。
あのとき、源三はまくし立てていた。
「雪が降らなくなったのが、人間のせいだということが分かっとらんのか! 乱開発を続け、木々をなぎ倒し、大地の肌である土をコンクリートやアスファルトで塗り固める。ビルを建て、車なんかで毒ガスを撒き散らしているんだ。大地を、空気を、いや、地球を壊そうとしているのは人間なんだぞ!」
男たちは黙って聞いていることしかできなかった。
源三はこの土地に固執しているつもりはない。ただ現代人間に対する、反逆心だったのかもしれない。
しかし源三の身体が、何かを彼自身に呼びかけていた。長年の経験だろうか、明日の天気は荒れる、と……。
そして、その日がやって来た。
静かな大地に、冷たい風がゆっくりと通り過ぎて行く。源三は男たちに囲まれて、トラックが連なった広場に立っていた。
「どうですか。もしよければ、我々が造った最新型の老人ホームにご案内しますが」
男の口調は、もうすでに事務的だ。
「うるさい! あの雲を見てみい!」
黒くて分厚い雲が、風に流されて頭上に広がっている。もしかしたら、源三の執念が天に届いたのかもしれない。
しばらく沈黙の時間が過ぎた。そして、太陽を遮った雲から舞い降りた粒が、源三の頬を叩いた。
天を見上げた。源三だけではない。誰もが見上げないはずがなかった。
時代の終わりを告げる冷たい雨が、まるで涙のように源三の頬を伝っていたのだった……。
見違えるような整ったリゾート村なのに、それまでの景観と何ら変わることはない。
ただ違うのは、生命の息吹が感じられない、ということだろうか。
――リゾート村開園のセレモニーが始まろうとしていた。一年の造成期間を費やし、民間と行政が手を取り合って作り上げた第三セクターの娯楽施設の完成だ。式典の会場には、民間の業者や市長、知事はもちろんのこと、あらゆる著名人までもが参列していた。
「あのじいさん、どこに行ったんだろう」
来賓席の後ろで、事業団の責任者、つまり源三を追い詰めたあの男が、ここまでこぎつけた安堵の溜息と共に呟いていた。
「あれ以来、行方不明らしいですよ。素直にハンコ押してりゃ、今ごろ老人ホームの庭でも散歩していたろうに。全く気の毒な話だ」
と、部下は言った。「しかし……。気になりませんか?」
指をさした方向の空に、どんよりとしたどす黒い雲が湧いている。こんなめでたい日に、雨か。天気予報では晴れると言っていたのに。
テープカットが始まろうとして、男は慌てて金メッキのはさみを知事に差し出していたのだった。
行列をなしていた行楽客が一斉に流れ込んだ。オープニングセレモニーの一環として、アスレチックの森で宝探しが行われるのだ。「宝」と書かれた札を見つけた人に、純和風の別荘が与えられるのである。
その別荘とは、かつて源三が住んでいた家を改良したものだ。
予想外の大人数の観光客が、リゾート村の入り口に吸い込まれて行ったときだった。
「――おや、雪か?」
誰ともなく、そう呟く声が聞こえた。
いつの間にか黒い雲から、白い雪が舞い降りていたのである。
責任者の男は、しだいに増えてくる雪の粒を見ていた。空を見上げると、すぐに止みそうな気配ではない。本降りになって、大雪になりそうな予感がする。
「この雪が積もったらどうなりますかね」
部下が言った。
「少しの積雪なら問題ない。ただ……」
「ただ、どうしたんですか?」
「このまま積もったら終わりだ。ここは積雪の対策なんかしてないんだ。五十センチ、一メートルも積もってみろ。森に入った客は、おそらく出て来られないだろう」
責任者の頭の中に、源三の言葉がよみがえっていた。
雪は、止みそうにない。
この地の、三十数年ぶりの大雪が降り始めた瞬間だった。
遠く離れた病院のベッドで、源三は静かに目を開けた。
周りには誰もいない。子供も孫も、病床に横たわっている源三のことなど、全く知らないのだろう。
それでいい……。
源三はまた目を閉じた。それは夢の続きを見たかったからだ。
もう二度と、目を開けることはないかもしれない。
それでいい……。
それでいい、と源三は思った。
ふるさとに雪が降る夢を見ていた。
その雪は、源三でさえ見たことのない豪雪となって、いつまでも降り続いていたのだった……。
おわり