第肆章 死魄の夢
――南雲が封印を開いた――
緊急用回線で送られてきたメールに記されていたのは、そのわずか十文字足らずの一文だった。
*
腕時計の針が午後六時半を指した。
太陽が姿を消した空は、既に夕闇に蝕まれ始めていた。
じきに夜陰が訪れる。
僅かな光もない深淵の闇に、世界は包まれる――。
新学期を間近に控えた清明の頃。
入国審査場には、長いフライトを終えた大勢の旅行客が列を成していた。
時期が時期だけに、海外で春休みを謳歌したと思しき家族連れが目立つ。
もはや原型をとどめていない大きな鞄を両手に抱える大人たち。その側ではしゃぐ子供たち。
和やかな空気が溢れる空間。
その中に一人、周囲の空気に染まっていない青年がいた。
くせのない黒髪、飾り立てることなく、小ざっぱりと整えられた身なり。手にしているのはパスポートと小さ目のセカンドバッグという身軽さ。
大人びて見えるが、おそらくは二十歳前後だろう。
一見すれば、至って普通の青年だ。
強いて言うならば、同年代に比べ質素にまとまり、それでいて容姿は目を見張るほどに整っていることくらいだろうか。
しかし今、その端麗な面差しには、何の表情もなかった。纏う空気にも、彼の感情は微塵も感じられない。
だが、時折腕時計に向けられる彼の切れ長の瞳だけは違っていた。
一点の曇りもない黒曜のその瞳には、まるで研ぎ澄まされた刃のような、凍てついた光が宿っていた。
全てを拒絶するような、全てを圧倒するような、えもいわれぬ威圧感があった。
そして、その光は、見る者の本能に恐怖を与えた――。
係官から声がかかった。
青年は無駄のない所作でブースへと進み出で、係官に手にしていた旅券を提示する。
提示されたパスポートの署名欄には、達筆な字体で『陸上斎』と記されていた。
「どうも」
帰国の判を押された旅券を係官から受け取り、一言そう残すと、青年――陸上斎は足早にその場を後にした。
その時、係官に向けられた瞳には、先ほどの冷たい光は微塵も宿ってはいなかった。
小さなブリーフケースとセカンドバッグを片手に到着ロビーに姿を現した斎は、しばし辺りを見渡した後、一人の少女を視界に留めた。
艶のある長い黒髪が印象的なその少女は、椅子に腰を下ろし、なにやら読み物にふけっている様子だった。
斎は少女に歩み寄ると、優しく声をかける。
「久しぶりだね、花音」
突如名を呼ばれ、少女は弾かれたように顔を上げた。
凛とした空気を纏いつつも、可憐さの漂う少女。
「斎……」
少女の澄んだ黒曜の瞳が目の前に立つ青年を映し出す。
実に半年以上ぶりの再会だった。
だが、それにもかかわらず、彼女の表情に目立った変化は見られなかった。
落ち着き大人びた中にもどこか幼さの残る面差しは美しく整ってはいるが、そこには全くと言っていいほど感情の色はない。
しかし斎はそれを意に介すことなく、申し訳なさそうに言葉を添えた。
「ごめん、大分待ったろ?」
何しろ到着予定時刻より二時間半以上も遅れているのだ。本来ならまだ陽のあるうちにこの地に降り立っているはずだったものを……。
「大丈夫。そんなに退屈しなかったから」
抑揚のない声音でそう返すと、花音と呼ばれた少女はやや表情を引き締めた。
「それより斎、奴等が一つ目の封印を――」
「知ってるよ。サーペントからメールが来た」
皆まで聞かず、斎は少々うんざりした体で吐き捨てた。
「まったく、どこまでも邪魔をしてくれる連中だ。……でも、まぁ」
斎はふと不適な笑みを浮かべた。
「奴等があくまで僕達に対抗して封印を解く腹積もりなら、それを利用するまでだ。泳がせておけば勝手に鍵を解読し、封印を開いてくれるだろう。面倒な作業は奴等にやらせておけばいいんだ。宝さえ手に入れば、手段はどうだっていい……」
黒曜の瞳が鋭く煌めいた。
「最後に宝を統べるのは僕達だ」
雲ひとつない空はすっかり闇色に染まっていた。
その闇を照らす光を持たぬ天を一瞥し、斎は花音を振り返った。
「時間だ。行こうか、花音」
返事の変わりに小さく一つ頷き、花音は一足早く歩き出した斎の後を追う。
自家に代々口伝されてきた秘鍵の唄を、静かに紡ぎながら……。
泰平の微睡みたるは 璽の閨
夜陰天に渡りて 影を隠せし刻
虚空に揺蕩ふ御霊の 夢見し泰平なむ訪れん――
*
車を走らせること約二時間半。更に車を降りてから歩くこと二十分。
都会の喧騒から離れた閑散とした雑木林。
鬱蒼と生い茂る草木を掻き分け、道なき道を進み、たどり着いたそこには古びた小さな祠があった。
相当に長い間風雨に晒されたと見えて全体的に痛んでいる上、端々は破損している。
供物の存在はおろか、もう長いこと人が訪れた痕跡もない。
忘れ去られたように放置されたそれは、遥か古の昔から、陸上の嗣子が代々護り続けてきた厳秘の祠。
その前に立ち、斎と花音は僅か六十センチ四方の崩壊寸前の祠を見つめていた。
頭上には深淵の闇夜が広がっている。
冷たい夜風が二人の漆黒の髪を撫でた。
「はじめようか」
静かに言って、斎は徐にその場に片膝を付き、静かに瞑目した。
斎より数歩下がった場所で、花音もまた彼に倣う。
沈黙が流れた。
そして。
「泰平の微睡みたるは璽の閨、夜陰天に渡りて影を隠せし刻、虚空に揺蕩ふ御霊の夢見し泰平なむ訪れん」
斎の口から静かに唱えられる陀羅尼。
それは、古の時代に封印されたという七つの宝――俗に『七宝』と呼ばれた――その内の一つの封印を解くための鍵として、城崎家の嗣子にのみ口伝されてきたものである。
詠唱が終わると、突如、祠が仄白い光を帯び始めた。
その淡い光は瞬く間に五芒星を基調とした魔方陣を描いてゆく。
そして、魔方陣が完成するやいなや、目が眩むばかりの鮮烈な光が放たれた。
夜陰の空に一筋の閃光が立ち上る。同時に強風が吹き荒び、木々が大きく揺れた。
やがて光が収まると、一瞬にして一帯には再び闇が舞い戻る。
その闇の中、淡く光る魔方陣の上に浮遊するものがあった。
朱を帯びたそれは、一つの小さな勾玉。
その勾玉は、見れば、それ自体が仄かな光を放っている。
「これが『泰平の勾玉』……」
ややって、斎は小さく呟くと、勾玉を手に取った。
それと同時に魔方陣は消え、辺りから一切の光が失せた。今しがたまで勾玉が纏っていた光も霧散する。
斎は手にしたそれを花音に手渡すと、古びた件の祠を見やった。
「これで、この『八尺瓊の祠』は用済みだ。晴れて陸上も、これを護る任から解放されるってわけだ」
言って祠の裏手に回ると、そこに隠すように置かれていた香炉を取り上げる。
「もう、結界も必要ないだろう」
言うが早いか、斎は手にしたその香炉を躊躇いなく地面に叩きつけた。
やや鈍った音を立てて割れた香炉から、独特の香が漂う。
香炉には目もくれず、斎は片の手で素早く印を切った。
「解」
低く一言放たれた真言。
直後、八方で硝子の割れるような音がした。その度に空気が振動する。
祠を護るため、斎がかねてより周辺に張り巡らせていた結界が消滅している音だ。
「……帰ろうか。報告が遅れると、またレオが煩いからね」
結界が全て消滅したことを気配で確認すると、斎はハンディライトを点けた。
今宵は新月。
ただでさえ薄暗い雑木林だというのに、月明かりもないとなれば、ライトなしには足元も覚束ない。
転倒して怪我でもしては一大事と、斎は花音の足取りに細心の注意を払いながら歩みを進める。
――今回は順調だった。
行く手を阻む雑草を押し分けながら、斎は安堵と落胆の入り混じった息をついた。
無事に一つ目の『宝』を回収出来たこと自体には文句はない。
しかしその反面、これだけ計画通りに事が運ぶと拍子抜けしてしまうのもまた事実。
こう言ってはなんだが、もう少し想定外の事態が起こってくれた方が楽しみ甲斐もあるというものだ。
南雲の妨害もなく、その他諸般の弊害もなかった。
強いて挙げるなら、帰国の便に不具合が生じてヒースローで二時間待たされた挙句フライトも三十分以上伸びたことくらいか。
尤も、『封印』の在処もその『鍵』も始めからこちらが手中にしていたのだから、南雲に付け入る隙があるはずもなく、当然といえば当然なのだが。
その上、『鍵』の解読も容易なものだった。
この唄をきいたとき、この唄が示している『宝』が『泰平の勾玉』で、それが封印されているのが『八尺瓊の祠』であることはすぐに判った。
一つ目の一節で封印の在処を、二つ目で封印を開き得る刻を示しているのは一目瞭然だ。
本当に、こんなものでよく何世紀もの間封印が保たれてきたものだと心底感心する。
だが一つ、理解しかねていることがあった。
……最後のあの一節。
“虚空に揺蕩ふ御霊の 夢見し泰平なむ訪れん”
前段はおそらく死魄に死者の魂をかけているのだろう。
そして後段は、その魂が『泰平』を夢見ているのだという……。
(……馬鹿馬鹿しい)
斎は脳裏を支配する思考を払拭するかのごとく、内心で吐き捨てた。
――死者の魂が泰平を望むだと?
(ふざけるな)
手に力が込もり、掴んだ梢が音を立てて折れた。
そんな綺麗事をよくも、さも真であるかのように詠えたものだ。
本当に死者の魂が『泰平』を望んでいると思っているのだとしたら、この唄の作り主は、温室で綺麗なものだけを与えられて育ったよほどの世間知らずか、或いは理想と現実の区別も付かないただの馬鹿かのどちらかだ。
魂とは換言すれば人間の残留思念とでも呼ぶべきものだ。
それが望むものが『泰平』だと?
(くだらない)
この穢れきった世界は、どうにも上辺の美しさを好むらしい。
愚かな人間共は綺麗事を愛で、偽善を讃える。
実に軽薄で滑稽だ。
(ファルスだな)
軽蔑の色を隠しもせず、鼻で笑った。
人間が真に『泰平』を望むことなどありえないというのに、その魂が『泰平』を望むものか。
(……今に分かるさ)
死魄が真に望むものが何であるのか、今に嫌でもはっきりする。
詠われた死魄の夢が虚構にすぎないということが――。
「……何が『泰平』だ……」
暗闇の中に、斎の鋭い光を宿した黒曜の瞳は酷く冷冷と映えた。
真実を覆い隠すかの如き闇を纏う死魄の空は、ただただ静かに世界をその腕にしかと抱いていた。
今回作中で出しました封印を解く鍵の唄ですが、
皆様にも是非“解読”に挑戦して頂きたく、今回はあえて文中で解説の類をすることを避けました。
消化不良を起こした方がいらっしゃったら申し訳ありません。
ブログの方に“解読のヒント”を掲載致しますので、お付き合い頂ける方は一度足をお運び下さい。
尚、解説は一ヶ月経過の後に同ブログに掲載致します。
何卒ご理解の程宜しくお願い致します。
十二月吉日 仁