第参拾肆章 一片の決意
――……え、……うえ!
幻想的な桜吹雪の中。
長いぬばたまの髪を見つけ、転げるようにして走り寄る。
――ははうえ……!
母を呼ぶそれは、幼い子ども特有の無邪気な声。明るく嬉々とした声。
しかしそこには、あどけない幼子には不釣り合いな不安と惧れの色が宿っていた。
必死に母に訴える声。遥か頭上にある母の顔を見上げる瞳。
しかし母の表情は、眩い日の光の影に隠れたままで。
確かにそこにいるのに、しかしそこにはいない母。
そんな母に、いつもいつも、小さな身体で懸命に訴えていた。
……ただ、自分を見てほしかった。
ただ自分の傍にいて、他愛もない話を沢山して、一緒に笑って。
その手に触れたかった。温もりを感じたかった。
自分を、認めてほしかった――。
それは、『願い』と呼ぶにはあまりにありふれたもの。しかしそんな『当たり前』が自分にとっては夢か幻のことで。そんな『当たり前』にずっと焦がれていた。
――ははうえ、ぼく、おうたおぼえました!
何をしても、母は褒めてはくれなかった。振り向いてはくれなかった。
それでも、たった一人の母に、どうしても認めてほしくて。
ただ、母に認めてもらいたい、その一心で――。
――よくやりましたね。さあ、覚えたお唄を聴かせて頂戴……?
その時が初めてだった。母が、褒めてくれた。
母の瞳が自分と同じ目線に降りてきた。その口元には笑みが浮かんでいた。母の手が頭を撫でてくれた。母の体温を感じることができた。そして――。
――これで貴方は立派な天城の当主になれますね
初めて、認めてくれた。
それが――そんな些細なことが、幼い自分にとってどれほど嬉しかったか。
母が振り向いてくれたのは、褒めてくれたのは、いつだって、自分が天城家当主時期後継者になるべく相応しい成長を遂げた時だった。
だから。
もっと母に見てほしくて、認めてほしくて。
ただただ、たったそれだけの理由。そのために、ひたすら無我夢中で。
気付けば、天城飛鳥であることを捨てていた――――。
*
誰がどこからどう見ても最悪としか言いようのない戦況に、倖介は内心で舌打ちをした。
目の前には南雲の当主とその配下が数名。対するのは自分一人。更に数もさることながら、霊力の差に至っては言わずもがな。撤退するのが定石であろうが、意識のない斎と花音二人を連れての撤退は物理上不可能である。
ただ幸いなことに、先の宣誓通り、南雲の当主には向こうから危害を加える気は毛頭ないものと見受けられるが、では、自分が取るべき行動や如何。
普段使わないことが祟っててか、思考回路は錆ついたように動かない。
「クソ……ッ」
倖介が短く吐き捨てた、そのときだった。
「案ずるな、倖介」
突如闇の中から馴染みのない声がした。
「今宵はこれで幕だ」
聞きなれない声。その主を探し、怪訝そうに周囲を見渡す倖介。
同様に南雲の面々も周囲を窺っている。――ただ一人を除いては。
そして。
「異論はないであろう? 南雲の姫君?」
そこに現たのは、深い闇夜に溶ける短い髪に、同じ色でありながら不気味なまでに夜陰にその存在感を浮かび上がらせる瞳。纏う衣服も腰に佩いた刀も全てが清々しいまでの一色。闇の化身と称するのが相応しい、純粋な黒に身を包んだ一人の少年。
「……若……?」
闇の中で、天城の当主は薄く微笑を見せた。
*
闇夜に浮かぶ桜の前。
交錯するは人ならざるものの眼光。
音もなく舞い降りた南雲の使者は、夜であるにもかかわらず、その眸にしかと侵入者の姿を捕えて言った。
《退かれよ。貴公の探し求めるものは、ここにはない》
《何を……!》
攫っておいてよくも白々しく、と怒気を見せる夜光に、雪伶は淡々と続ける。
《哀れな。霊力を手繰れば自ずと分かるであろうに》
その言葉に、心臓を射抜かれたような衝撃が夜光の全身を走った。
《黙れ……! 言われずとも解っている!》
《左様か。……では、貴公の主が戦線に参じて居ることも承知の上で、貴公はこの場におるのであろうな》
瞬間、夜光は無言のまま地を蹴っていた。
背後から雪伶が追ってくる気配はない。
だが、今の夜光にとって、雪伶の存在はどうでもよかった。
雪伶は言った。『貴公の主が戦線に参じて居る』と。すなわち、飛鳥が戦線に出ていると。
……失態だった。
指摘されるまで全く気付かなかった。――いや、その事実を告げられた今現在においてもなお、その事実を確知できていない。
そこで、研ぎ澄まされた夜光の神経を僅かに掠める気配があった。
それは、懐かしく、息苦しいほどの温もりを感じさせる――。
《……兄上……!?》
*
「ご苦労だったな、倖介」
南雲の面々が去ったことを確認した後、飛鳥は穏やかに労いの言葉を口にした。
「え……あ、いや……その……はあ、どうも」
突然名を呼ばれ、倖介は一瞬肩を震わせた。
一族の中における当主に関する噂は、お世辞にもいいものであったとはいえない。同属の中にあってもなお、当主は畏怖の対象とされていた。任務をしくじれば即処罰。不要と判断すれは即排除。身内だろうが容赦はなく、例外なく制裁を加える。更にはその制裁は一切の慈悲がなく……エトセトラ。
そんな噂の中で育った倖介も例外ではなく、彼にとっても当主は畏怖の対象だった。
その当主から思わぬ言葉を掛けられ、どう答えればよいものか判断に迷った返答は、どうにも間の抜けたものになる。
しかし流石にこれでは体裁が悪いと感じた倖介は、何か言葉を足すべきだろうかと腕を組んだ。
例えば、そう、この前見たテレビでは確か、「言葉が勿体ない」とか言ってた気がする。いや、でも微妙に違うような……。
その時、背後で気配がした。
「斎……! おい、大丈夫かよ!?」
振り返れば、怠そうにしながらも上半身を起こした斎の姿があった。
「……僕は……、傷が……?」
多く血を流したせいと見えて、顔色は依然蒼白なままだ。現に激しい怠さと眩暈とが斎を襲っていた。
それでも、全身にあった傷が全て塞がっていることに斎は怪訝そうな表情を見せる。
「……ッ花音!」
しかしそれも束の間、地に伏している花音の姿を認めるや、重い体を奮い立たせ、覚束ない足取りで彼女の下に駆け寄った。
「安心しろ、気ぃ失ってるだけだ。怪我はしてねえから」
彼女の無事を告げる倖介の言葉も、斎の耳には入ってこない。花音の体を抱きかかえ、その体に傷のないことを自分の目で確認し、そこで漸く落ち着いたのか、斎は小さく息をついた。
とりあえず外傷はない。その点で彼ら――いや、彼女は約束を守ったのだろう。……だが。
「……あの女……」
花音の頬に残る一筋の跡に、斎は怒りとも苦しみともとれる光を黒曜の瞳に宿した。
周囲に桜の木はない。それにもかかわらず一帯には桜の花弁が散っている。
そこから、何があったのかを想像することは、容易い。
「この代償は高くつくぞ……」
誰にというわけでもなく零れ落ちた呟きは、不気味なほどに静かなものだった。
「おい、倖介、お前――……」
ひとまず状況把握を、と顔を上げた斎は、そこで言葉を切った。倖介の隣に、ここにいるはずのない人物の姿を認め、あからさまに不快そうな舌打ちをする。
「……何故、お前がここにいる? 一体何の用だ?」
今し方まで南雲に対して向けていたそれよりも一段と殺意のこもった視線を向け、苛立ちと腹立たしさとを綯交ぜにした空気を放ちながらも、あくまで口調は居丈高に言い放つ。
そんな敵意を隠そうともしない斎に、先刻の天城邸での一悶着を思い出した倖介は慌てて口を挟んだ。
「いや、ほら、斎。レオは俺たちの加勢に、だな……。俺一人じゃ奴らに対抗できねえし、だからレオが来たことには意味があるっつーか、何つーか……」
「……お前はつくづく馬鹿だな」
「はあ!?」
柄にもなく仲裁的な役に回りしどろもどろになる倖介を視界の端で捉え、斎は鬱陶しそうに一蹴する。
「どこをどう見たらコイツがアレに見えるんだ? この霊力がアレの器に収まるわけないだろ」
そこまで言って、「いや」と不敵に笑んだ。
「ある意味『器』に違いはないか……。むしろただの『器』にすぎないといった方が適切かもしれないな」
斎は全てを見透かすかの如き鋭い眼光を帯びた眼差しを闇に佇む少年に据えた。
「そうだろ――――月影?」
その言葉に、それまで徹底して無表情だった少年はふと微笑を浮かべた。
《推察は見事なんだが……どうしてお前はそう棘のある言い方しかできないかな》
姿形も発せられる声も、今目の前にいるこの少年は、天城の神殿で見えた当主と何ら変化はない。しかしその表情も口調も、まるで別人のように異なっている。
状況を飲み込めずにいる倖介に、〈飛鳥〉は屈託のない笑みを見せた。
《説明すると若干長くなるから、まあそうだな……今は飛鳥の身体に別の人格が乗り移ってる、程度に理解しててくれ》
「他人の身体乗っ取ってまで、今更のこのこ何しに出てきた」
無駄に愛想を振りまく飛鳥――改め、月影に対し、殊更に厭味ったらしく『今更』を強調する斎。
しかしその嫌味に気を悪くするどころか、月影は仰々しく溜息をついた。
《俺だってできるなら出て来たくはなかったさ。基本的に俺は平和主義者なんでね。無駄な争い事はしたくない性分なんだ》
滞りなく滔々と並べられる御託に、もはや言葉を返してやることすら煩わしいと言わんばかりに、斎は無言のままこれでもかというほど冷めた視線を送る。
しかしその視線をこれまたどこ吹く風で受け流し、月影は尚も自分の世界を貫く。
《ただ俺の予想に反してズタボロにされたやつがいたもんだからさあ。仲間思いの心優しい俺としては放ってはおけなかったわけよ》
自己陶酔に塗れた至極くだらない戯言の中でさらっと吐かれた嫌味。それを斎が黙って聞き流すわけもなく。
「……へえ……? 掻い摘んで言うと、要するにお前は僕に喧嘩売りにわざわざ出て来たわけか。崇高なる主義に反することも厭わず戦禍までご足労頂けるとは実に痛み入るな」
慇懃無礼に構えつつも、喧嘩売るなら買ってやる、と斎は視線で応える。
《おいおい、どうしたらそういう解釈になるんだよ。性格ねじ曲がってんなぁ、お前》
だが当の月影は、斎の視線の理由がまるで解らないといわんばかりに、わざとらしく肩をすくめて見せる。本人に喧嘩を売った自覚があるのかないのか、それすら判然としないその態度が更に斎の神経を逆なでる。
「ねじ曲がってるのはお前の感性の回路だろうが」
《何言ってる。俺には一遍の歪みも捻じれもないぞ》
「ああそうだな、お前の回路は常に一本の直線だ。いい機会だから教えてやる。世間ではそれを愚直というんだ」
大人げなさなどまるで意に介さず舌戦を開始した二人の姿に、当初は呆気にとられていた倖介だったが、やがて表情を緩めた。
実に子供っぽい口喧嘩だ。その上内容も噛み合っていない。理屈も論理もあったものではない。小学生でもよほどマシな口喧嘩ができるのではなかろうか。
しかし、そのどうしようもない幼稚さがなおのこと。
極々普通の兄弟喧嘩をしているように見えて、どこか、微笑ましかった――――。
*
とりとめのない不毛な口論を展開することしばらく。月影はふとその身に変調を覚えた。
《少し調子に乗りすぎたな》
言って月影はすっと表情を引き締めた。
《俺が表に出るのは飛鳥にとって負担だからな、本来はそろそろ飛鳥に返してやらないといけないんだが……。その前に、お前たちにも話しておきたいことがある》
月影の変化に、斎と倖介の姿勢も自ずと改まる。
《とりあえずは邸に戻ろうか。話はそこでゆっくり……は無理か、手短に話す》
言って月影は、夜風に乗って再び宙に舞う小さな花弁に手を伸ばした。
《全て話そう……全て、何もかも》
脳裏に、以前風牙に問われた言葉が蘇る。すなわち、全てを知らせることがかんらずしも是とは限らない、と。
それは真理だろう。知らない方が幸福であれることの方が多いともいえる。
……それでも。
《お前たちは全てを知る資格がある。それと同時に義務もある》
酷なこととは思うが、彼らは知らなければならない。
でなければ、必ず、判断を誤る。道を違える。真理を見失う。
そうして、全てを知った上で己で決めればいい――自分たちが、どうするべきかを。
戦うもよし、退くもよし。
真実を告げぬまま、ただ戦いの宿命だけを押し付けることこそ不合理極まりない話だったのだ。
だから、それを正す。
そして、皆、自分の意志で自分のしたいことをすればいい。そうするべきなのだ。
……だって。
自分の道を自分で決められないなんて、馬鹿げてるだろ……?
深い深い記憶の奥のさらに奥。
決して忘れることのできない景色がある。
それは、降っても降ってもやむことを知らない桜吹雪。
美しくも儚い小さな花びらの嵐。
この小さな一片一片と人間の命とは同じなのだろう、とふと思った。
数えきれないほど数多の命が一時も絶え間なく散って行く。
その数のなんと多いことか。そして、その大きさのなんと小さいことか。
一つの花弁が散ったところで、それを育んだ樹木は何ら変化を見せない。
これだけ多くの花弁を散らしながら、樹木がその幹から薄紅色を絶やさないように。
どれだけ多くの命を散らしたとしても、世界は何も変わらない。
嗚呼、このちっぽけな一片に、世界を変えることなどどうしてできようか。
……ずっと、心の奥底でそう思っていた。――あの時までは。
それまで、ずっと上ばかり見ていた。だから、気づかなかった。足元に、今までに散った無数の一片が敷き詰められていることに。
もとは剥き出しだった地表を、小さな無力な一片が覆っている。色のなかった地表を薄紅色に染め変えている。
確かに一片が世界を変えることはできないかもしれない。それでも、一片は確かに地を変えている。
一片は微力ではあっても、決して、無力ではないのだ。
そのことを教えてくれたのは、一人の少女。
幼いながらも美しく、そして儚い――そう、それはまるでこの桜のようで――。
儚く散る桜が甦らせる、遠い日の日溜りの記憶。
――約束よ……
あの日、少女と交わした約束。
それは忘れかけていたものを思い出させてくれた。
――約束よ……、飛鳥―――――
彼女が口にしたその名。彼女が自分を呼ぶ名。
……そう。母に認められたい一心で、気付かぬうちに忘れてしまった自分という存在を、彼女が思い出させてくれた。
天城家次期当主である以前に、自分は飛鳥なのだ、ということを、自分は飛鳥でいいのだということを、教えてくれた。思い出させてくれた。
今、自分が『飛鳥』でいられるのは、彼女のおかげ。
彼女が『飛鳥』を見つけ出し、救いだしてくれたおかげ。
……だから。
今度は自分が、『彼女』を見つけ出し、救い出す番なんだ――――。