第参拾参章 写し身
隈無き月影 天に満つ
幾千の時の過ぎゆきし
幾万の命散り失せる
悲願と血を糧となし
六つは一つと混じり合い
偽りの姿現さん
風が鳴った。時に鋭く、時に激しく、時に無造作に。その数多の音に耳を傾け小さく唄を紡ぎながら椿は立ち上がった。
「雪怜、私は準備をしてきます。貴方は『罪』達の下へ行き、しかるべき対処をなさい」
『かしこまりました姫君』
雪怜の返事に椿はゆっくりと歩き出す。だが、数歩もしないうちに足を止めた。
「あぁ、それと」
『はい………?』
振り返ったその表情にはどこか困ったような色が浮かんでいた。
「彼らとは別にお客様がいらしたようなので、対応をお願いしますわ。本来の姿でお相手しないと滅されますわよ」
泣き喚く美夜に彰人が音も無く近づく。その顔に浮かんでいるのは先程までとは異なり至極苛立ちが強いように見える。
そして次の瞬間、風の塊を美夜に叩きつけた。
「ぎゃあぴぃうるせぇなぁ。お前で遊ぶのも飽きたんだよぉ。邪魔するな」
溢れ出す殺気。容赦ないそれと先刻の攻撃を一身に受けて美夜は怯えたように体を縮ませる。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。静かにしてます、邪魔しません、協力もします。だから、嬲らないで(あそばないで)!!」
「それでいいんだよ。どうせお前は俺から逃げられない。さぁてぇ、続けようぜぇ。殺し合いを」
美夜の返事に満足そうに頷くと、新たに風の塊を生み出して楽しげに顔を歪ませる彰人。流れる血が風に交じり赤い霧を生み出す。だが、それは次の瞬間掻き消えた。
『血に狂った獣、罪よ。そこまでだ』
小さな金属音と共に彰人は細い白銀の鎖に拘束された。幾重にも連なるそれは瞬く間に彰人を覆い、同時に意識を失わせた。
「天城の方々。この度は当屋敷においでくださってありがとうございます」
姿を現したのは朔羅、雪怜だった。
『我らは姫君のご到着までお相手するよう申し付けられた。あとほんの少し待たれよ』
「椿様の命によりこれ以上貴方方に危害を加えはいたしませんのでご安心を」
一方的に続く口上にとうとう倖介が吼えた。
「んなの信用できっか!!」
「あら、そうですか。私は戦闘が出来ないものですので、もしそちらに攻撃の意思があるのでしたら弟と交代させていただきますね」
眼を閉じる朔羅。そして眼を開けた瞬間再度言葉を紡ぐ。
「姉と変わってお相手させてもらう朔真だ。こちらから手を出すつもりは無いが攻撃されたらそれ相応の対応はさせてもらうぜ」
「あ……? 何なんだ、急に、気持ちワリィな、このカマ野郎が!」
「カマ野郎? おかしな事を。俺は朔真、先程までいた朔羅姉上とは一卵性の双子でね亅
嫌悪感を露わに罵りを口にする倖介に、不思議そうに答える朔真。
「オカシイのはテメエだ! ワケ分かんねえこと言ってんじゃねえぞ、気色悪ぃ!」
「よせ。……そいつは二重人格者……おそらく、そのことに奴自身、気付いて、ない……だろう……」
尚も食って掛かる倖介を、斎が止めた。
「天城に俺等の情報が正確に伝わってないみたいだな。まぁ、姉上は病弱で最近まで療養、俺はこっちにいなかったから仕方ないな」
カラカラと笑う朔真。だがその瞳には言いようの無い暗闇が広がっていた。
「何でか胸糞悪い。椿様の命令が無ければ殺している程な。俺、十三歳以上の男嫌いなんだわ。攻撃してくんなよ」
緊迫した空気が周囲に漂う。花音は斎と倖介の様子を伺いつつ、いつでも攻撃出来るように集中を乱さずにいた。その状態が暫くの間続いた時、雪怜が空を仰ぎ見た。
『朔真、姫君のご到着だ。我はほかの客人の相手をする故、席を立つ』
そうして飛び去る雪怜。それと同時に感じる威圧感。
「おイタは駄目だと申したでしょう『罪』? その方々は気に入ってますの」
緊迫した空気には場違いなほど柔らかな声。
艶やかな漆黒の髪が風にそよぐ。身に纏うのは薄紅色の狩衣。口元に差された赤は上品な紅。凜と歩く姿は威厳と共に美しさを際立たせていた。溶けることの無い氷華のような美しさ。
それが南雲家当主、南雲椿の本来の姿だった。
「朔真、そのような怖い顔なさらないで? 朔羅が見たら怒られますわよ」
「………申し訳ありません」
そっと朔真の傍により声をかける椿。その声も慈愛に満ちていた。
「『穢れ』貴方には更なる絶望を味合わせるまで殺しはしません。貴方だけは許さない。愛され裏切られた愚かな子。醜い北里の娘」
美夜の傍により声をかける椿。その声はどこまでも色が無く冷たかった。
「それにしても花音さんはお強いのね。『罪』に劣らないとは驚きましたわ」
「それがてめぇの本性か! 大将さんよぉ!!」
朗らかに笑う椿に倖介が吼える。それを椿は一瞥し、斎に話しかける。
「ごめんなさいね……こんなに酷い怪我を……。貴方がたを無為に傷付けることのないよう命じていたのですが……。私は別に天城に敵するつもりはありませんの。むしろ私達が受けていたであろう憎しみを一身に受けて何故あの愚かな生き物を皆殺しにしないのか不思議ですわ。確かに利用させていただきましたけれど」
「…………」
斎は浅い呼吸を繰り返すばかりで言葉を返さない。いや、正確には返せないのかもしれない――そんな印象を受けるほどに、今の彼には満身創痍という言葉が相応しい。
「あぁ、第三者のせいで貴方も私も約束を破る形になってしまいましたが安心なさって? 本人が何かしない限りはこれ以上約束は破りませんわ。あの桜に誓いましょう」
「……そう、か……。なら、いい……」
偽りを許さぬ澄んだ声音に、辛うじて意識を繫ぎ止めていた緊張の糸が切れたのだろう。渾身の敵意を込め椿を睨みつけていた斎はその言葉を受け取るや、その場に吸い寄せられるように倒れこんだ。
「おい!? 斎!!」
「……っ、斎!?」
左肩を中心に流れる赤、青白い頬、力なく伏せられた瞼。完全に生気を失っている姿はまるで死人のようで。
「い……つき……? いつき……斎っ! いや……斎、斎っ……独りにしないで……斎っ!!」
反応を返さぬ斎に縋り付き、悲鳴を上げる花音。何もかも、敵陣の中にあることすら忘れ、ただただひたすら壊れたようにその名を呼び続ける。
「………お眠りなさい。眼が覚めた時には悪夢は終わっておりますわ」
椿が静かに空を仰ぐ。穏やかな風と共に薄紅の花弁が舞った。
「…………!」
花音は涙を湛えた眼を見開いた。激しい耳鳴りがする。平衡感覚を失い、視界が大きく歪む。四肢の末端は震え、その面は目の前に伏す斎のそれよりも蒼白なものとなる。
暗闇に舞う鮮やかな薄紅色。美しくも儚げで、見る者に安らぎと温もりを抱かせるそれはまるで光の如く。しかしその小さな小さな一片が今花音に抱かせるのは、抗いを許さない絶対の恐怖と戦慄。そしてその光は正に冷徹で苛烈な刃に似て。
それは大切なものを奪う魔の化身。
それが、今再び、目の前に舞い降りてきた。今再び、奪い取るために。大切なものを、奪い取るために。大切なもの……大切な、人。……そう――。
――いつ、き……――――!
そうして眠るように意識を手放した。
「ッ、テメェッ!!」
倖介が椿に詰め寄ろうとするも朔真がそれを阻む。
「言ったよな? 攻撃すんなって」
暗い瞳で嗤い朔真が倖介の顔面を殴った。思わぬ攻撃にガードすることもままならず倖介は吹っ飛んだ。
「大丈夫ですわ。この桜は我が一族の守護桜。初代当主が想い人より賜った桜ですの。春の陽だまりのように暖かな力を持ち、願えばありとあらゆる傷も癒してくださいます」
その言葉通り、花弁に触れた斎の身体からは傷が失せ、その顔色も赤みを帯びてきた。
「もう喜劇は始まっております。誰にも止められない。明日は全ての始まりの夜。終わらせましょう全てを」
桜が舞う中微笑む椿。その瞳に浮かぶのは強く深いたった一つの思い。
愛された記憶を私は知らない。
温もりに包まれた記憶を私は知らない。
いつも世界は残酷で幼くあることを許されなかった。
自分と似た境遇のはずなのに愛された記憶のある彼女を見たくなかった。
わずかな間でも温もりが傍にあった彼女が羨ましかった。
少しの時間でも幼くあることを許された彼女が憎かった。
だから、報告を聞いた時、笑った。
目の前に現れた時、殺さなかった。
ねぇ、こんな私ではいけませんか。
ねぇ、こんな私醜いですか。
ねぇ、応えて。記憶の奥底に封じられた―。