第参拾弐章 呪縛の仮面
自分が生まれたときのことを覚えている者はいるだろうか。
自分がいつ、どこで生まれ、また誰から生まれたのか――多くの者はそれを知っている。
しかし誰もが、それらを覚えているのではない。教えられたから知っているにすぎないのだ。
即ち、それは記憶ではなく、ただの――情報。
誰もが与えられたその情報を真実のものとして信じているだけ。
もしもその情報が偽りだったとしたら――そんなことを考えたことがあるだろうか。
生まれた日も場所も、果ては親に至るまで、教えられた情報が全て偽りだったとしたら?
自分の始まりを否定されること――それは、自分という存在を否定されることに等しい。
信じていたもの、ましてや疑いをはさむことなく全信頼を預けて信じ切っていたものから裏切られることほど残酷なことはない。
――そう。これは残酷なことなのだ。
偽りに満ちた出自。
偽りで固められた存在。
そして偽りで築かれた家族。
そんな偽りによって作られた仮面を生まれながらに付けられた、哀れな仔羊たち。
この偽りの仮面を壊したとき、果たして彼らはどうなるのだろうか。
絶望に食い殺されるか、はたまた狂気に呑まれるか。
或いはそれとも――。
ただ一つ言えるのは、偽りという庇護を捨てた真実の先に、救いなんてものはないということ。
真実は残酷だ。
何時だって、誰にだって、等しく残酷なものだ。
だから、真実なんて、本当は知らなくていい……求めなくていいものなんだよ――。
*
闇が音もなく蠢いた。
異様なまでに静まり返る南雲の邸。
邸に張り巡らされた結界の僅かな綻びを見つけ侵入を果たしたまでは良かったが、如何せん目的を達せずにいる。
構造の知れぬ邸を隅から隅まで隈なく駆け回る。
気配を殺し、音を殺し、闇に乗じる一頭の黒獅子。
覚悟していたことだった。理解していたつもりだった。力を捨てると決めたあの日あの時、自分の決断が何を意味しているのか十分に納得した上での決断だったはずだった。
だが、いざとなってみれば、やはりその代償は大きい。力を捨てたあの時の自分が怨めしくさえある。
極々微かに感じられる霊力の残滓と、人間よりも僅かに優れる嗅覚を頼りに駆けずり回るも、やはり限界がある。
膨らみ続ける焦りと苛立ちに、牙の間から唸りが漏れる。
必ず無事に救い出さなくてはならない。何があっても、間違っても死なせてはならない。
誰のためでもなく、自分のために。この運命に囚われた者たちの、その誰の死も見たくないと望む、他ならない自分自身のために。
邸の縁側から庭先へ降り立った夜光は一本の桜の麓でふと動きをとめた。
微かに感じる、しかしあまりに不確かな霊気。それでも紛うことを許さぬ特有の神々しさを宿すそれは確かに七宝の放つ霊気だ。微かでも不確かでも、夜光にその存在を確かに訴えてくる七宝。
……だが。
《……ヴァルペス》
思わず呟きが零れ落ちる。
今感じている、紛れもなくここに存在していたことを主張するこの霊気は、本来ここにはあってはならないものだった。ここにあるはずのないものだった。
それなのに今この霊気がここにあるのは何故なのか――その訳を、夜光は知っている。
……だからこそ。
闇に染まる孤高の魂は、罪深き己が罪を呪った。
お前が余計なことをしたからこんなことになったのだ、と。すべてはお前の愚行が生ぜしめた、他ならぬお前の業なのだ、と――――。
*
《あちゃあ……ちょっとマズイな、これは》
物音ひとつ、風の音すらしない神殿に、深々と嘆息が落ちた。
《イツキがいればどうにかなるだろうと思ってたんだが……まさかこうもあっさりダウンさせられるとはなあ。詰めが甘いっていうか隙見せすぎっていうか……そりゃあ、俺等と現代人とじゃ戦闘に対する意識が違うのは当然だし、戦闘慣れしてない以上まあ仕方ないっていえば仕方ないんだけどさあ……。しっかし、この傷でそんな痩せ我慢しちゃってまあ、こいつは。何でもかんでも無茶すりゃいいってもんじゃねえだろうがよ》
遠く離れた地の様についてつらつらと独りごちる月影の物言いは、まるでその場に居合わせているかのようなものだった。
《こりゃあ流石に助太刀してやんないとヤバそうだな。イツキが戦力外になった以上、他の連中で南雲に対抗することは期待できねえし、ほっといたらイツキはイツキで何しでかすか分かんねえし》
言って、再びの嘆息。
《それにしても》
一拍の後、それまでの口調とは一転、月影の声音には危惧にも似た緊迫感が宿っていた。
《花音の霊力がこれほどとはな。正直、ここまでとは思ってなかったぜ》
言葉面は賛辞のものだが、その声音はどういうわけかどこか曇っている。
《ったく、どうして神様ってやつはこうも残酷なことを平然とやってのけるかね》
彼女に与えたあの尋常ならぬ強大な霊力のほんの僅かでいい、もしも飛鳥に分け与えてくれていたなら、もしかしたら……。
そんな無意味な仮定を抱かずにはいられない。
――もしかしたら、救われたかもしれないのに。
飛鳥も、イツキも。
そして、波月も。
《なあ、神様さあ、知ってるか? 望まれない命ってのが、どれだけ辛くて哀しくて淋しいものか……どれだけ酷ことなのか……》
誰もいない暗い暗い虚空に、静かな呟きが溶けて消える。
存在するとも知れない相手に向けられた、憂いに満ちた悲痛の叫び。
《本当にさ、キツイんだぜ、結構……》
傷だらけの告白が、やっとの思いで紡がれる一言一言が、天を覆う深い深い夜闇へと吸い込まれるようにして一つ、また一つと消えてゆく。
天は応えを返さない。ただすべてを呑みこんで、何事もなかったかのようにそのすべてを消し去って、後には何も残らない。何一つ残さない。
そしてやがて静寂が再び闇を包んだ、その時だった。
突然、魔法陣の上の七宝が小刻みに振動を始めた。
何かに反応を示すように、そして互いに共鳴し合うように、宝が僅かな光を帯び始める。
《思ったより早かったな……いや、こっちが手間取りすぎたのか》
その様に、月影は全てを諒解した。
今何が起こっているのか、またこれから何が起ころうとしているのか、そして、自分が今何をすべきなのか。
《悪いな、飛鳥。これ以上お前を甘やかしてると、流石に取り返しがつかなくなる》
月影は、依然深い眠りの中にある少年に愁いを帯びた囁きを落とした。
《お前が『彼女』と約束したように、俺も『彼女』と約束したんだ。そしてお前が何よりもその約束を守ることを望んだように、俺も『彼女』との約束を果たさなきゃいけない》
――だから、飛鳥。一緒に『約束』を果たしに行こう――。
かの夜の望月は、畏怖さえ感じさせるほどの妖しくも美しい紅に染まっていた。
その燦然と降り注ぐ月影の中に上がった産声。
それは待望の子のはずだった。
誰もがその誕生を待ち望んでいたはずだった。
皆に祝福されるはずだった。
なのに、生まれてきた子に掛けられた言葉は、その誕生を祝うものではなかった。
――呪われた子――
何も知らぬ小さき無垢な命に、恐怖と憎悪に染まった刃は躊躇うことなく非情にも突き立てられた。
――殺せ。この子供は必ずや一族に禍を齎す。そうなる前に、殺せ、殺せ……殺せ!――
それから千と余年。
月の見えない、凍てつくような冬の夜。
極寒の中に産声を上げた小さな命に、母親はそっと微笑んだ。
――ああ、これで救われる――
満足げに、心の底から安心したように笑みを見せる母親。
しかしその黒曜の瞳には、目の前で必死にその存在を主張する赤子の姿は映っていない。
その子の誕生を祝福する者は誰一人としていなかった。
その誕生は望まれなかった。
そして、ただ唯一その誕生を待ち侘びていた母親は、その喜びを目の前の赤子ではなくその場にいない別の人物へと向け、満面の笑みと共に愛おしそうにその名を呼んだ。
――もう大丈夫よ。貴方はこれで救われる。私の愛しい息子……凍月――