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第参拾章 光焔の余花―後篇―

 漆黒の影が闇を裂いた。


 ――これ以上、好きにはさせない。


 巨大な体躯が音もなく地を蹴り、風を切る。


 ――二度と、あの悲劇(・・・・)を繰り返させはしない。


 一対の白銀の光が燃え上がった。


 ――もう誰も、死なせはしない……!





      *





 一体何が最善なのか――。


 急く思いの中で、状況を把握し、事態を分析し、必死に論理を組み立てる。

 今自分がなすべきは、花音を救出すること――ただその一事のみだ。

 ここにきて、微かではあるが彼女の霊力を捉えることができている。つまり、少なくとも現段階では彼女は無事だということだ。

 だが南雲の影響下にあるせいか、彼女の霊力を辿ることはできない。そうである以上、彼女の居場所を突き止めるには直接南雲から聞き出すより他ない。

 しかしこのまま南雲に乗り込み彼らと見えれば、まず戦闘は避けられないだろう。

 無論、戦いそのものに抵抗があるわけではない。

 だが、そこには厄介な『制約』がある。それは絶対の『誓約』だ。

 それを違えることはできない。だから、できるなら戦闘に持ち込まずに事を収めたい。

 だが、そんなことが果たして可能だろうか……。


 そこで斎は煩わしいほどにしつこく名を連呼する声を振り返った。


「耳障りだ。少し黙ってろ」


 言って不機嫌さを顕わに睨めつける。

 その高圧的な態度に、倖介もまた不機嫌さを顕わにしてがなり立てた。


「んだと、テメエ!? 散々シカトこいといて返す言葉がそれか!? 勝手に動くと頭使えだ何だって言い出しやがるからわざわざテメエに伺い立ててやってんじゃねえか!」

「それが分かってるならただ喚くだけじゃなく少しはお前もその頭で物事を考えたらどうだ。それができないなら思考の邪魔だから黙ってろ」


 終始上から目線の物言いは、まさに普段の斎のそれだ。だが、そこに倖介は違和感を覚えた。傲岸で不遜で人を完全に馬鹿にした文字面は同じなのに、何かが違う。

 その違和感の正体を理解するまでに、さほど時間は要さなかった。普段のあの憎らしいまでの余裕が、今の彼にはないのだ。……では、何故?


(まさかな……)


 真っ先に脳裏を横切った考えを、倖介は瞬時に否定する。

 だが、否定しようとすればするほど、それ以外の考えが浮かんでこなくなる。


「もしかしてお前、何の策もねえのかよ?」


 半信半疑の指摘だった。

 だが、瞬間、斎の双眸が不愉快に細められた。

 その眼光が何よりも如実に、図星だと告げている。


 半ば呆気にとられている倖介に、斎は鋭い睥睨を投じると無言のまま背を向けた。


 ――あるわけないだろ、そんなもの。


 斎は不愉快さを隠しもせず内心で毒づく。


 正直、斎には何故今自分がここにいるのかも分かっていない。

 花音の件の連絡を受け、天城邸へ向かい飛鳥(やつ)に刃を向けたことは辛うじて何となく覚えている。そしてそれが月影によって阻まれたことも。

 だがそれ以降の記憶は殆どないのだ。

 無意識のうちに南雲邸へとバイクを駆っていたようであるが、そのバイクも何処に乗り捨ててきたのか記憶にない。


 策だなんて、そんな真っ当な思考をするだけの余裕は自分にはなった。

 だからこそ、今これからどうすべきか考えを巡らせているのだ。それなのに、この馬鹿ときたら……。


 そんな湧き上がる倖介への不満と苛立ちを辛うじて治めると、斎は今後の行動を思案すべく、やおら樹木に背を預けた。


「そういやあ、お前あの時(・・・)誰と話してたんだ?」


 斎の姿をしばし黙って観察していた倖介は、そこで唐突に話題を振った。

 思考を遮られたことに迷惑そうにしながらも、問いの内容が理解できずに斎は訝るような視線を倖介に向ける。


「何の話だ?」

「何のって、さっきのだよ。お前突然攻撃やめたかと思ったら独りで突然話始めただろ」


 倖介の言わんとしていることをなおも掴みあぐね、僅かに眉根を寄せた。

 彼が言っているのは、自分が飛鳥と対峙した時のことだろう。だが、独りで話始めた、とはどういうことか。記憶が曖昧だからか、斎には思いつく節がない。立ちはだかった月影としばし言葉を交わした記憶はあるが……。

 そこで斎の思考は一つの可能性に至った。


 ――月影……そういうことか。


 月影――それは天城に受け継がれてきた伝家の宝刀。七宝が一つと数えられるそれは時の当主によって封印され、その封印は代々の当主によって守られてきた。

 この名刀に触れることを許されているのは、当主の血を引く者のみ。故に、天城の血を引かない倖介にはかの剣に宿る『月影』の声が聞こえなかったとしても、不思議ではない。だとすれば、成程自分は突然相手なしに話始めたように映るのも無理からぬ話だ。


「さあな。僕は何も覚えてない」


 だがそれらを説明するのを億劫に感じた斎は存ぜぬを決め込むことにした。


「はあ!?」


 想定通りの反応を示す倖介を横目に、斎は白々しく淡々と続ける。


「悪いな、記憶が飛んでるんだ。覚えてない」

「ウソつけ!」

「嘘じゃない」

「うるせえ! テメエのウソくらい見抜けらあ!」


 なんとも低レベルな舌戦だ。

 しかし、容量の小さい倖介の頭に事態を説明する苦労を考えれば、この果てしなくくだらない言い争いに付き合っていた方がよほど楽でマシだと、斎が更に言葉を続けようとした時だった。


 黒曜の双眸が突如険阻な光を宿した。

 その変化を訝った倖介が斎を見やれば、彼の鋭い眼光が闇の一点を凝視している。


 物音ひとつしない黒暗暗の雑木林。

 緊張感を帯びた風が濡れた身体に凍みる。

 そして。


「出てこいよ」


 斎は低く、だがどこか挑発的に言葉を投げた。

 瞬間、闇の奥で荒々しい霊気が爆ぜた。


「ヒャハハ、やぁっと来たぁ。待ってたんだぜぇ?」


 歓迎の言葉とともにゆっくりと闇の中から現れたのは、長身の影。


「テメエはあの時の……!」


 現れた人物の姿に、倖介は息をのんだ。

 脳裏に広がる血の海。創太を捕えた際に見た凄惨な光景。元の姿がなくなるまで人の身体を引き裂いては狂気に染まった歓喜の雄叫びを上げていた人物――。


「確か、彰人……とかいったな」


 現れたのは長身の男。斎は記憶の隅からその人物に合致する名前を引き出した。

 だが、かつて見えた要彰人と目の前の男とでは、容貌も霊力も纏う空気も全てが大きく異なっている。本当に同じ人物なのか疑いたくなるほどだ。

 しかし、斎にとってそんなことはどうでもよかった。


「花音はどこだ……!」


 眼前に立つ男が如何な変貌を遂げていようと、この男が南雲であることに変わりはない。

 ……吉か凶か、今までの憂慮は杞憂に終わった。

 この男が南雲である以上、戦いは必至。ならば、是が非でも花音の居場所を吐かせるだけだ。

 残る唯一の懸念は『セイヤク』を守りきれるかどうかだが、この手(・・・)の相手に失態を演じることはないだろう。

 だから。


 ――全力で()く。


 斎の刃の如き双眸が彰人を射抜いた。

 その眼光を正面から受け止め、彰人は愉しそうに挑発する。


「さぁねぇ? 俺を倒せたら教えてやっても構わないけどぉ?」

「……その言葉、忘れるな」


 黒曜の瞳に戦意が宿った。同時に霊力も戦いのそれへと変化する。

 その変化に、彰人は表情を愉悦に歪めた。


「ヒャハハハッ! 樂しい愉しいゲームの始まりだぁ!!」


 絶叫と共に彰人が放った風が唸りを上げる。

 荒れ狂う風は不可視の鋭利な刃と化し、標的目掛けて宙を駆ける。

 斎は牙を剥く風の刃に視線を投じながらも、しかし目立った応戦姿勢をとることをしない。そしてそのまま極限まで刃を引き付けると、僅かに首だけを動かして刃を造作もなくかわした。

 風の刃は斎の肌を掠めることなく背後の樹木を抉る。


 しかし、次の瞬間、触れていないはずの斎の頬に赤い筋が走った。

 斎は頬に感じた痛みに一瞬軽く目を瞠った。だがすぐに平静を取り戻し、視線を彰人に据える。

 そして裂けた傷口から流れ出る血を右手の甲で拭うと、視線は彰人に向けたまま声だけを後方に飛ばした。


「お前は下がってろ。こいつの相手は僕一人でやる」

「ああ!? 何言ってんだお前!?」


 その言葉に、それまで彰人の霊力に呑まれていた倖介は息を吹き返したように怒声を張り上げた。


「この期に及んでまだ一人でとか言うつもりかよ!? つい今さっき仲間(ひと)頼れって言ったばっかだろうが! それに、お前は知らねえだろうが、コイツはヤバイなんてレベルじゃねえぞ! 一人でなんてカッコつけてる場合じゃ――」

「黙れ、曲解するな馬鹿が。足手纏いだから邪魔をしてくれるなと言ってるんだ。お前の足りない頭は一から十まで全て説明しないと言葉の意味も理解できないのか」

「なっ……はあ!?」


 にべもなく言い切られ、倖介は二の句が継げずに押し黙る。

 そんな倖介に斎は冷やかな一瞥を投じると、剣呑な口調で続けた。


「コレが尋常じゃないのは見れば分かるだろうが。判りきってることを一々偉そうに講釈するな」


 彰人の一挙手一投足、僅かな変化も見逃すまいと、斎は彰人の全身に細心の注意を払う。

 その視界の中で、彰人もまた斎を凝視していた。しかしその視線は、斎の頭部――その頬についた傷にのみ注がれている。

 しばしそうして血の流れる様を眺めていた彰人はやがてのどを鳴らせた。


「良い色だぁ……やっぱり何時見てもたまらねえなぁ、この色はよぉ!」


 この暗闇の中にあって色の判別など、およそできるものではない。しかし、血を渇望する眼にはそれが色鮮やかに映っているようだった。


「あぁ、まだだぁ……まだまだ足りないっ! もっともぉっと見せて……俺を魅せてくれよぉ! さぁ、早く俺を赤く染めてくれよぉ……お前の血でさぁ!!」

 両腕を広げ、発狂したように天を仰ぐ。


「……バケモノが」


 その様を前に短く吐き捨てると、斎は左手を胸の前で真一文字に払った。

 すると手が描いた軌道から風の刃が生まれ、彰人目掛けて一目散に宙を走る。


「こんなんじゃ効かねえなぁ!」


 言って彰人もまた同様にして風の刃を生み出した。

 双方の風の刃は空中で衝突し突風を巻き起こして相殺する。

 それを見届けるより早く彰人は更なる刃を放った。

 しかしその刃は斎の生成した風の防御壁に阻まれ、消滅する。それと同時に斎は再び刃を放った。

 だが放たれた刃は彰人に届く前に高度を落とし、そのまま地面に追突した。

 衝突の衝撃で舞い上がった粉塵が一帯を覆い、視界を奪う。


「やめようぜぇ、目晦ましなんて小賢しい真似はよぉ!」


 言って彰人は一陣の突風を巻き起こした。轟音を立てて凄まじい風が粉塵を一帯から押し流す。

 視界が鮮明になったところで、彰人の表情が一変した。

 そこにいるはずの斎の姿がない。姿どころか、気配までもが消えている。


「あれぇ? どこ行ったぁ?」


 遊びに夢中で独り逸れた子供さながらに、きょとんとしながら周囲を見回す彰人。


「何所を見てる」

 

 背筋に殺気を感じるのと、耳元で声がするのとは、ほぼ同時だった。更に瞬きの間もおかず右腕に激痛を覚える。

 彰人は身を翻すと地を蹴って後方へと飛んだ。

 着地の際に無意識についた右腕に再び痛みを感じながら。今し方まで自分がいた場所に視線を遣れば、そこには悠然と立つ斎の姿があった。

 ……成程、気配を絶った上で風に乗り、瞬間的に移動したわけだ。


 そこで彰人は痛みの走る腕に視線を落とした。

 目に飛び込んできたのは、十数センチに渡って皮膚が裂けた腕と、心臓の鼓動の度にその裂け目から流れ出る――赤。


「アハッ……アヒャハハ……! ヒヒャ……ヒャハハッ、ヒャーッハハハハハハハハッ!!」


 その色を見た彰人は突然狂ったように笑い始めた。

 血で赤く染まった自らの腕を愛おしそうに抱き、恍惚な笑みを浮かべながら、裂き傷から流れる血に舌を這わせた。


「そうだぁ……これだぁ。これだよぉ、この感覚だぁっ!」


 興奮を掻き立てる血の色、血の匂い、そして血の味。

 己の血に陶酔しているかのようにうっとりと目を細めていた彰人は、突如血走った眼を見開いた。


「さぁ、もっと赤く染め合おうぜぇ! 俺もお前もなぁ!!」


 狂態を演じる彰人を前に、斎は不快そうに舌打ちした。

 そして剣呑さを増した斎が攻撃態勢を整えるより早く、彰人は天を衝く哄笑とともに無尽蔵に無数の刃を放った。





     *





《……始まったようです》


 縁側に端座し、濁った闇色の空を見つめていた炎珠が心持ち険しい声音で告げた。

 その言葉に雷毘は弾かれたように炎珠の隣へ進み出ると、炎珠に倣って闇に染まる空を見上げる。


《敵は誰ですの……?》

《大分霊力が乱れてはいますが、彰人のものと見て間違いないと思います》

《応戦しているのは、やはり……》

《ええ。斎様です》


 見遣れども遥か続く夜の闇は不気味なほどの静寂に包まれている。

 しかし未だ空は重苦しい暗雲に覆われ、風も纏わりつくような生ぬるさを帯びている。


《それで、その……花音様は……?》


 しばしの間をおいて、雷毘は炎珠の顔色を窺うようにしながら恐る恐る口を開いた。

 その名に、確かに一瞬炎珠の霊気が張りつめた。しかし一呼吸の後にはもとのそれへと落ち着き、まるで何事もなかったかのように雷毘の問いに応じる。


《ごく僅かではありますが、確かに花音の霊力を補足できています。波長に乱れもありませんし、私に捉えられる霊力が微量なのも、南雲の影響でしょうから、少なくとも現段階では無事だと言って良いでしょう》


 それは終始従容とした声音だった。

 だが、その沈着は意図して努めて作られたものだったのだろう。不自然なまでに感情が排除されたそれは、むしろ単調と称する方が相応しいと感じさせるぎこちなさがあった。


《……行っても構いませんわよ?》

《雷毘?》


 そのぎこちなさの理由を察した雷毘は、炎珠から顔を逸らすと何も見えない闇の彼方に語りかけるように言った。

 思いもかけない言葉に驚いた体の炎珠の視線を肌で感じる。それでも雷毘は頑なに炎珠に一瞥をくれることなく続けた。


《わたくしは(あのこ)をおいては行けませんから向かうことはできませんけれど、貴方まで付き合ってここに留まる必要はありませんわ》

《ですがそれでは邸の警備が――》

《ここの警備なら心配しなくても大丈夫ですわ。風牙も月影もいますもの。それともわたくしの言うことは信用ならないとおっしゃりたいのかしら?》

《そういうわけではありませんよ。ただ――》

《なら、さっさとお行きなさいな》


 決めつけるようにきっぱりと言い切って、そこで漸く雷毘は炎珠に視線を戻した。

 傍から見れば、狐の姿をした炎珠の表情を読み取ることは叶わない。だが雷毘の瞳には彼の表情がしっかりと映し出されていた。


 炎珠は決して感情を顕すことをしない。それはこの状況でも変わらない。

 だが自若としてはいても、その胸中が穏やかではないことを雷毘は知っている。

 花音が南雲に囚われたと知ってからというもの、彼がどれほどに彼女の身を案じて気を揉んでいるのか。そしてこんな事態に陥ったことに対してどれほどに己を責めているのか――。


 本当ならばすぐにでも無事を確かめに彼女の下へ馳せたい思いだろう――炎珠の気持ちをそう読み取った雷毘は、任を放棄することを躊躇う炎珠の尻を叩いた。

 だが、炎珠から帰ってきた返答は雷毘の期待に反したものだった。


《気持ちは有難いですが……私はやはりここに残ります》


 何故、と言いかけた雷毘を遮るようにして、炎珠は早口に言葉を続けた。


《私が斎様の一連の行動を制止も咎めもしなかったのは、斎様のお立場故ではなく、斎様のお心の内を慮ってのことです。私には斎様のお気持ちが痛いほどに解る。私が斎様の立場でも同じことをしたでしょう。だから……》


 一息にそこまで言い切って炎珠は脳裏に花音の姿を描き出した。

 花音は炎珠にとって大切な存在だった。斎が花音を大切に想っているように、炎珠もまた同じように。


《だからこそ、私は行けない(・・・・)んですよ。行けば……奴らと対峙すれば、私は奴らを焼き尽くさずにはいられなくなる。……情けない話ですが、今の私は己を制する自信がないんですよ。彼女に害なす者に温情をかけてやるだけの器の広さは私にはない》


 いつになく厳格な口調で冷淡ささえ覗かせた炎珠の全身の毛が波打つように揺らめいた。鮮やかな緋色だった毛並みは今や燃え盛る業火の如き深紅に染まり、毛足も幾分か長いものへと変化している。

 初めて見る炎珠の表情(・・)に、雷毘は言葉をなくし、ただその変化を見つめることしかできなかった。


《まあ、こうしてここで何もできずただ祈るだけの自分というのも滑稽で無様で……それこそいっそ腹を裂いてしまいたい気分ですけどね》


 自嘲気味に言って、炎珠は実体なき花音へと意識を向ける。


 ……そう。本当に、自分は何と無力なのだろうか。ただただ祈ることしかできないとは。今も、昔も。変わることなく……。


 ふと、花音の姿に重なる影があった。

 それは鮮やかな真紅の唐衣を身に纏った少女だった。面差しにはまだあどけなさの残る、長い黒髪の愛らしい少女。

 その姿は、狂おしいまでの恋しさとそれを消してしまうほどの悔恨の念を呼び起こす。

 それは、自分に生きる希望を与えてくれた掛け替えのない存在。必ず護ると誓った、しかしその誓いを違え、護ることの叶わなかった、愛しき者。


 止め処なく湧き上がる悔悟の情に胸が押し潰されそうになる。

 その痛みに必死に堪えながら、炎珠は震える胸で少女に語りかけた。


 ――もしも……もしも俺を赦してくれるのなら、どうか……。

 

 その、懺悔と懇願の叫びが届いたのだろうか。

 少女は顔を綻ばせると繊細な白い腕をそっと差し出した。





     *





 目の前で繰り広げられる光景に、倖介は完全に圧倒されていた。

 邪魔だから手を出すなと念を押されたが、そんなものなくともこの戦いに首を突っ込むことはしなかったであろう。


 止むことのない風の唸り。

 時折血飛沫が宙に舞い、そのたびに狂気に満ちた絶笑が響き渡る。


 到底正気の沙汰とは思えぬ戦いは、これが夢が現かすらも曖昧にする。

 まるで映画のワンシーンを観ているような感覚に陥らせる。


 流れの主導権を握っているのは、終始斎だった。

 この狂人を相手にしながら、先の頬の傷を除けば、斎の身体にはまだ傷一つついてはいない。

 それもそのはず、持つ霊力の質が違うのだ。

 なにしろ斎の持つそれは、紛れもなく正真正銘、天城家当主の血筋(・・・・・・・・)に受け継がれてきたそれなのだから。言ってしまえば、今彰人が戦っているのは、天城の当主(・・・・・)なのだ。純粋な戦いで、斎が劣るわけがない。


 しかし、優位な戦況にありながら、倖介の心中は複雑に乱れていた。

 これが通常の人間相手であれば、安心して観戦していられただろう。しかし、目の前の敵は、控えめに言っても普通ではない。非常に理解に苦しむが、この男は、単に戦いを、血を見ることを愉しんでいる。あまつさえ自らが傷つけ られてもそれを快感と思ってしまっている始末だ。


(つか、これだけ血流してて何で倒れねえんだよ……)


 その上、彰人の身体は既に満身創痍の状態だった。いずれも致命傷はおろか深手にも至っていないものだが、それでもかなりの量の血を流している。

 常人ならば失血死の心配をしなければならないような状態であるにもかかわらず、この狂人は動きが鈍るどころかむしろ、血を流せば流すほど興奮を増し、戦いに貪欲になっていく。


(本当にバケモノか、コイツは)


 こんな狂的な変態を相手に、こんな戦い(・・・・・)をしていて勝機が本当にあるのだろうか。


「ヒャハハッ!! いいねぇ、楽しいなぁ、お前との戦いはぁ!」


 そんな倖介の不安を更に駆りたてるかのように、彰人の狂喜の浩笑が夜陰に木霊した。


「こんなに昂るのは久しぶりだぁ……! 今まで何度も人間(おもちゃ)で遊んだけど、俺に血を流させるようなできた人間(おもちゃ)はいなかったからぁ!」

「黙れ。余計なことは喚かなくていい」


 斎は左手を彰人の首筋に宛がった。その手の中には闇色を反射する鋭い光がある。

 物騒なほどに静かな氷の如き視線を彰人に注ぎながら、冷厳に詰問する。


「僕の質問にだけ答えろ。花音はどこだ」

「さぁ? 知ぃらなぁい」


 薄ら笑いを浮かべる彰人。

 その返答を聞くやいなや、斎は躊躇なく獲物を彰人の右手の甲に突き立てた。


「三度目はないぞ」


 短い刀身が引き抜かれると同時に血が溢れ出す。

 苦悶と狂喜とが綯交ぜになった叫びをあげる彰人に、斎は血塗れた切っ先を再び向ける。


「花音はどこにいる……答えろ!」


 彰人に向けられている黒曜の瞳は、彰人の喉元に押しあてられた刃に勝るとも劣らないほど鋭利で冷たい。

 斎の決死の気迫を前に、彰人の叫びはいつしか嗤笑へと変わった。


「ハハッ、イイザマァ……。そんなにそんなこと(・・・・・)が知りてえのぉ?」


 彰人の挑発とも取れる文句に、無意識に獲物を握る手に力がこもる。

 僅かに切っ先が触れた喉の皮膚が裂かれ、線のような血が流れ落ちる。


 その様を熱い肌で感じながら、彰人は嘲るように言った。


「だったらぁ、契約破らなきゃあよかったのになぁ?」


 それは斎の最も触れられたくない傷口を抉るに十分な一言だった。

 悔しいが否定できない正論を前に、斎は歯噛みしてその端整な表を歪めた。


 死闘を演じる二人の男。

 一人はぬかるんだ地に腰を突き、もう一方がその喉元に鋭利なナイフを突きつけている。優劣は客観的に明らかだ。

 しかし彼らの表情はそれとは真逆の優劣を物語っていた。


 反論すらせずに切歯する斎の姿に、彰人は実に愉快だと言わんばかりに哄笑した。


「可哀相なお前に朗報ぉ。お前の愛しい彼女、ちゃあんと生きてはいるぜぇ? ……まぁ、五体満足かは保障しないけどぉ」

「…………っ!!」


 瞬間、斎は己の中で何かが弾けるのを感じた。

 気付けば、左手は彰人の右肩にナイフを押し込んでいた。それも、刃渡り七、八センチはある刀身のみならず柄までが強引にめり込むほど強く、深く……。


 全身に走る痛みに体を仰け反らせながら、それでも尚彰人はその叫びの中に喜色を宿す。そして自分を見下ろす瞳を見上げると、口元を弧に歪め不敵に笑んだ。


「ヒャハハハッ! なぁ、気付いてるぅ? お前、今自分がどんな目してるかぁ……」


 黒曜の瞳に宿っているのは、強く鋭い光。一点の曇りもない揺るぎない決意。そして、


俺と(・・)同じ目(・・・)!」


 憎悪と、殺意。


「貴様と一緒にするな、虫唾が走る」


 滑稽なものを見たかのように実に愉しそうに声を上げて嗤い続ける彰人を鋭く睨めつけ、斎は看過できない放言を即座に言い消す。

 しかし、言葉では毅然と否定しながらも、それが本心からの言葉ではないことを、斎は自覚していた。


「いーや、同じだぁ。殺しに躊躇いのない殺人鬼の目ぇ……。お前の考えてることを当ててやろうかぁ? 『ボクは愛しの女を助けるために已む無く(・・・・)殺すのであって、己の快楽のために他人(ひと)を殺すオマエとは違う』……そう言いたいんだろぉ? だがそれは違うなぁ。そんなのはただの言い訳だぁ。殺しになぁ、イイ殺しとワルイ殺しなんてねえんだよぉ。殺しは殺し(・・・・・)。人を殺せば、みぃんな平等に(・・・)殺人鬼だぁ。……ヒャハハハ! だから、同じぃ……俺とお前は同じ(・・)なんだよぉ!」


 先程来の狂態とは打って変わった良識的な理論。血に狂喜していたとは思えぬ、実に筋の通った一家言だ。卓見と言ってもいい。

 しかし穴だらけの高説を論破することは可能だった。

 だが斎はそれをしなかった。


 ――ああ、そうさ……。だから(・・・)、嫌だったんだよ。


 自分のことは十分に理解しているつもりだ。

 だから、南雲(こいつら)には出会いたくなかったのだ。


 ……解っている。

 花音を護れなかったのは自分で、彼女が危険な目に遭っているのは自分の責任で、故にもしも彼女の身に万一のことがあったとしても責められるべきは他ならぬ自分自身であって、それを南雲に転嫁することはただの言いがかりにすぎなくて、卑怯な自分は今自ら招いた災厄を理由として南雲に刃を向けているだけで、そこには正当性の欠片もなくて、それなのにな陋劣な自分は己に向けるべき憤激と呵責を他に向けていて、とんでもない理不尽を働いているのは自分であって、だからここで目の前の男を殺すことは断じて許されないのであって、己が矜持の下に是が非でも止めなければならなくて、それにもかかわらず、浅ましい自分は自己に都合の悪い全てを見て見ぬふりをしていて、今に至っても尚その事実を知りながらそれを認めまいとしていて、だから本当は悪いのは全部自分で、何もかも全部己の業で――。

 そんなこと、全部解っている。


 しかし、事情がどうあれ、理由がどうであれ、そして真に非難すべきが南雲(かれら)でないにしても、花音の身が危険に晒されたのは紛れもない事実だ。

 彼女に手を出したかもしれない(・・・・・・)相手を、どうして赦すことができようか。

 どうして情けをかけることができようか。

 道理や矜持に何の意義があるというのだろうか。


 戦いにおける制約。

 己に課した誓約。

 殺してはならない(・・・・・・・・)――そんな馬鹿げた綺麗事(セイヤク)なんて――。


 ――守れるわけないだろ……。


 斎が振り上げたときだった。


「やめて、斎――!」


 突如響いた少女の叫びに斎の動きが絡め取られたように止まった。

 殺意と憎悪に満ちていた黒曜の瞳に正気の光が戻り、大きく揺れる。

 反射的に声のした方へと視線を向けて……闇の中に認めた、少女の姿。


「斎……!」


 その声に、名前に、斎は体が崩れ落ちそうになるのを必死に耐えた。


 これは夢ではないだろうか――そんな疑念が真っ先に脳裏を衝く。

 だが。

 ……違う。夢なんかじゃ、ない。

 間違いなど、あるはずがない。ずっと待ち望んでいた声。ずっと焦がれていた声。それを、どうして判断できないことなどありえようか。


 ――花音……!


 所々衣服に汚れこそあれど、花音の身体には目立った傷も見受けられない。


 無事だった――。

 花音の無事な姿に、斎は我知らず高鳴る胸をそっと撫で下ろした。


 しかしその安堵感から、そこに明らかな隙が生まれた。

 血に濡れた口角が妖しく弧を描く。


 突然巻き起こった一陣の突風。

 完全に反応が遅れた斎は防御もままならず後方に飛ばされた。折れた巨木に背中を強かに打ち付け一瞬息を詰める。

 重なる花音と倖介の声。


 刹那動きが完全に止まり、無防備になったのを彰人は見逃さなかった。恰好の狩時の訪れに目を輝かせながら、力強く地を蹴って一気に間合いを詰める。

 不意打ちをまともに喰らい数拍分反応が遅れた斎だったが、素早く身を翻すと文字通り間一髪で彰人の突撃を躱す。

 そしてすかさず刃を彰人へと放ち、安全な間合いを確保しようと後方へ飛ぼうとして、彰人の動きを捉えた斎はそこで半ば強引に踏切の体位を変えた。

 自分を標的としていたはずの彰人の目が、自分に向いていない。

 その血走った眼が捉えているのは――。


「花音っ!!」


 彰人と花音の距離は僅かだった。この状況で刃を放てば、一つ間違えれば花音を巻き込むことになりかねない。

 自分に向かってくる相手に比べ、他者に向かっている相手の動きを予測することははるかに困難だ。

 まして、今相手にしているのは、血を見ることを最大の目的としている狂った快楽者。純粋な殺意の下に動く敵ならば動きを読むことは容易いが、理屈や常識の通じない相手の行動を予測するなど、無謀とさえいえる。

 いや、それ以前に、今から刃を生成して放ったところで、間に合うのだろうか――。


 斎の中で瞬時に様々な思考が駆け巡る。

 だがその思考は、突如の激しい痛みに遮られた。


 視界に真っ赤な飛沫が飛ぶのが見えた。

 体を叩きつけられる感覚を覚え、そこで再び全身を激痛が走った。

 痛む左足を見れば大腿部が真っ赤に染まっていた。同様に痛みの走る腕も赤く染まり、指の先から血が流れ落ちている。


「斎……!?」


 腕の中でぬくもりが身じろいだ。

 見れば胸に抱いた花音が、間近に見る血の色に黒曜の瞳を凍り付かせている。


 そこでようやく、斎は自分の身に起こった現実を理解した。

 どうやら考えるよりも先に体が反応していたらしい。


「ごめ……なさい、斎……。私……!」

「大丈夫。傷は深くないし、見た目ほど、大したことないから」


 流石に、痛くない、とは言えなかった。大したことない、さえも虚勢であることは自分が一番よく解っている。

 しかし、顔は蒼ざめ、震える唇からやっと音を絞り出す花音を、なんとかして少しでも安心させねばと、斎は息遣いの奥を悟られぬよう呼吸を整えると滞りなく、努めて穏やかに優しげに言って、そっと花音の身体を抱き寄せた。


「大丈夫だから……」


 呼吸の乱れを感じさせないよう精一杯平静を装う。押し寄せる激痛の波に口の端から零れそうになる声を必死に殺し、しかしそれでも耐え難い痛みに、花音の見えないところで顔を顰める。

 だが、こうして彼女の声を聴き、彼女の顔を見、彼女の温もりを肌で感じるにつれて、徐々に彼女が本当に無事であったという実感が湧きあがり、心の底から安堵の息をつく。


 しかし、腕の中の小さな身体から伝わってくる小刻みの震えが、斎に満足な安堵を与えてはくれない。

 斬られた傷よりも、花音がこんなにも怯えていることの方が余程苦しい痛みだった。彼女をこれほどまでに怯えさせてしまった自分が許せなく腹立たしい。

 しかも斬られたのは足と腕――それもよりにもよって利き腕をやられるとは失態だった。これでは攻撃は勿論、防御にも支障が大きい。

 だが、この程度ならまだ……やれる。


 花音の背に回していた右腕を下ろすと、斎は花音を背後に庇い、彰人を正面から見据えた。

 痛みでやや霞む視界の中に捉えた彰人は、新鮮な血に見惚れているのか、まるで鑑賞するかのようにこちらを凝視している。喜色悪いことこの上ないが、この状況で立て続けに攻撃を加えてこないことは正に僥倖だった。


「斎、大丈――」

「来るな、馬鹿が!」


 彰人が動かないと見るや、倖介は血相を変えて斎の下へ駆け寄ろうとするが、当の斎の怒号がそれを制する。

 不満を顕わに文句を言いたげな倖介に、斎は語調はそのままに短く言い放った。


「お前の面倒まで見きれない!」


 一瞬、斎は彰人から目を逸らした。

 ほんの、僅か一瞬だけ。

 だがその一瞬の間に、彰人の姿はその場から消えていた。

 そして、突如背後に感じた――殺気。


「倖介!」


 咄嗟に花音を倖介の下へと突き飛ばし、振り向きざまに風の刃を放った。

 突然のことに慌てながらも倖介が辛うじて花音の身体を受け止めたのを視界の隅で捉え、完全に身体を返したところで斎は荒っぽく旋風を巻き起こす。

 しかしそこにはもう彰人の姿はない。垂れ流しの殺意と風の流れを頼りに彰人へ次々と風を放つも、痛みで集中力も制御力も落ちた斎の風は彰人に決定的なダメージを与えられない。


 際どい彰人の攻撃に、無意識に利き腕で応戦しようとして、全身に走った痛みに斎は表情を苦悶に顰めた。

 一瞬意識が薄れかけ、不覚にも捉えていた彰人の気配を見失う。

 しかし次の瞬間、再び捕捉した彰人の気配に、背筋を氷塊が滑り落ちた。

 背後を取られた危機感から、彰人と距離を取らねばと体が反射的に反応する。

 だがそこで斎は動きを止めた。

 斬られた左足が全く言う事をきかない。動かそうと力を入れてもただ激痛が走るだけで、自分の足ではないのかと疑いたくなるほどびくともしない。


「コレ、返しとくなぁ?」


 耳元で声がした。


 ――しまった……。


 そう思った時には遅かった。


 息をするのも忘れるほどの痛みに思わず声が漏れる。

 激痛に遠ざかった意識を、少女の悲鳴が呼び戻す。

 酷い耳鳴りのせいで少女が何を言っているのかは聞き取れない。

 だが。


「……大、丈夫……から……」


 もはやそれは無意識だったかもしれない。

 彼女を安心させなければと、途切れる呼吸の中で掠れながらもなんとか言葉を紡ぐ。

 だが、その声が彼女に届いているのかまで気を回す余裕まではなかった。


 呼吸の度に焼けるような痛みを覚える左肩へと恐る恐る震える手をやれば、奇妙に温かな堅い物体に指が触れた。

 どうやら相当深くまで刺さっているようだ。それでも捻らないでいてくれたことには感謝すべきだろうか。


 ――抜いたら死ぬかな。


 少なくとも引き抜かずに刺したままにしてくれたことには感謝すべきなんだろう、と、冷え切った指先で生暖かいぬめりを感じながら漠然と考える。

 押し寄せる激痛の中にあって、思考回路は意外にも正常だった。


 痙攣気味に小刻みに震える指を霞む視界の中におさめ、斎は自嘲を浮かべた。

 それにしても、自分で用意した獲物で致命傷を負わされるとは、何とも間抜けな話だ。

 脅迫に用いるならやはり有体物の方が良いだろうと考え、いざという時のために準備しておいたフォールディングナイフを安易に持ち出したのが運の尽き。その上、感情的になって奴にナイフを突き刺したままにしたのがいけなかった。直接の要因は己の獲物を回収しなかったことだ。

 まったく、自業自得とはいえ情けないことこの上ない。


 ――ああ、くそ……。


 そこで襲ってきた一際激しい痛みに、斎は耐えきれずその場に崩れ落ちた。


「斎!!」


 その姿に花音は悲鳴に近い叫びをあげると、倖介の腕を振り切って斎の下へと駆け寄る。


「ヤロウ……ッ!!」


 同時に倖介は戦闘態勢を取り、彰人に向けて大量の水の塊をぶつけた。

 だが、斎と比べ威力も速さも劣る倖介の霊力では、彰人を捉えることができない。

 それでも、攻撃対象を斎から自分へと向けさせることはできたようだ。そのことに僅かにほくそ笑んだ倖介だったが、その笑みは数秒の後には完全に掻き消えていた。


「クソッ!」


 霊力の使い方が不得意である自覚はある。仮に相手がこんな狂人でなくとも、霊力のぶつけ合いでは下級の術者相手でも太刀打ちできない。

 ならば、一か八か――。


 膝を折った斎とその傍らに寄り添う花音の姿を流し目に見遣る。

 そこで倖介は遠距離戦の態勢を解くと、接近戦へと切り替えた。

 自分の最も得意とする肉弾戦ならば、或いは。


 奇声を上げながら突進してくる彰人をギリギリまで引き付ける。

 しかし突如彰人の行く手に水の壁が立ち塞がった。

 地面から吹き上がるようにして現れたそれは半球状の結界を形成する。


「なんで止める!? 邪魔すんな、水羅!!」


 倖介は苛立をぶちまけるように、お節介な手助けをしてくれた守護獣に怒声を放った。


《貴方とて十二分に理解しているはずです。貴方ではあの者を倒すことはできません。それは戦法を変えたところで同じこと》


 感情的になる倖介に対し、あくまでも理知的に応じる水羅。

 しかしその口調には、常に彼女が絶やさなかった慈悲の色はなく、かわりに今までに感じた事のない峻厳さに満ちていた。


「んなもんやってみなきゃ分かんねえだろ!」

《身の程を弁えなさい。無益な血を流す必要などありません》

「水羅の言う通りだ」


 決着の見えないその応酬に横槍を入れたのは斎だった。

 二対の視線の注がれる中、斎はコートを裂いた切れ端で傷口を圧迫しながら、口と自由の利く右手で器用に固く縛り上げてゆく。そうしてその場凌ぎの止血を施しながら、険しい面持ちで倖介に視線を返した。


「手を出すなと、言ったはずだぞ。お前じゃ力不足も甚だしい。あとは僕がやる」


 時折言葉を詰まらせながら、しかしそれでも気丈に言い切り、不要となった泥塗れのコートを投げ捨てる。

 しかし、いくら強がって壮言をのたまって見せたところで、傍目にはどう見てもやせ我慢をしているようにしか映らない。


「ざけんな! テメエこそその体で何ができる!? ろくに立てもしねえくせに偉そうに命令してんじゃねえ!」


 腰をついたままの斎を見下ろし、倖介は乱暴に怒声を上げた。

 痛いところを衝かれて一瞬言葉に瀕した斎だったが、退く素振りは微塵も見せず居丈高に返す。


「見くびるな。動けない分は戦略(あたま)霊力制御(コントロール)で補える。お前の定規で僕を測るな」

「うるせえ! 怪我人は怪我人らしく大人しくすっこんでろ!」


 互いに主張を譲らない応酬が展開させる間にも、彰人が水羅の築いた防壁に衝撃を与えていた。

 その眼は闇夜の中にあって不気味なほどに輝きを放っている。まるで、獲物を追い詰める猛獣の如き、純粋に狩る(・・)ことだけを欲する眼。


 その様に、このまま結界の中にいたとて何の解決にもならないと結論付けた斎は、痛みに言う事をきかない己の足を叱咤しながら、覚束ない動きで立ち上がると低く命じた。


「水羅、一瞬だけ術を解け。……その隙に、僕が外へ出る」

《恐れながら、承服しかねます》

「水羅!」


 生来柔和な気性の小鳥から返ってきたのは、驚くほどの即答だった。


《そのお身体ではいくら斎様といえども戦いには耐えられません》

「……僕の命に従わないつもりか!?」

《斎様のお命を御守することがわたくし共の使命です。たとえ命に背くことになろうとも、その使命を違えるわけにはまいりません》


 いつになく厳格に応じる水羅に、斎は険の宿る双眸を細めた。

 不穏な空気が結界内に充満する。


 そうしている間にも彰人の攻撃は止むことをしない。体力の限界というものを感じさせないこの男を相手に、いつまでも防御に徹していては勝機はない。

 誰かが、この男を正面から力でねじ伏せなければ――それは、そこにいる誰もが分かっていた。


 耐え兼ねた斎が口を開こうとした時だった。


「水羅、斎の言う通りにして」


 それまで沈黙を守っていた花音が徐に立ち上がった。


「でも、出るのは斎じゃない」


 言って、静かに瞳を閉じる。


 そう、誰かがやらなければいけないのだ。

 だが、一人は力量が及ばず、一人は深手を負い、一匹は戦うことを許されていない。ならば――。


 そして一呼吸の後擡げられた瞼から現れたのは、強い決意を宿した、黒曜の瞳。


「私が出る」


 きっぱりと言い放たれた言葉に、三対の瞳がそれぞれに驚きを顕す。中でも過剰に反応したのは斎だった。


「花音……!? 何、言って――」

「大丈夫」


 おそらく制止と反対の文句が続くであろう斎を遮り、花音は決意に満ちた黒曜の瞳を水羅に向けた。


「水羅」

《……畏まりました》

「水羅!」


 しばしの間を置いた後にその申し出を承諾した水羅に、抗議と非難の声を上げる斎。


「斎」


 そんな斎に、花音は穏やかな微笑を見せた。


「斎、言ってくれたよね。私の痛みも苦しみも辛いこと全部半分背負ってくれるって。斎はいつだって私を助けてくれた。だから、今度は私の番。だから斎の苦しみも、私に半分、分けて?」


 真っ直ぐに斎を見つめる曇りのない澄んだ瞳。


 ……同じ黒曜(いろ)の瞳なのに、どうしてこうも違うのだろうか。

 純粋で無垢な光を宿した彼女の黒曜の瞳に、自分の瞳はどう映っているのだろう……。

 怨讐に、嫌悪に、憤怒に、穢れに穢れた光に満ちた瞳を彼女に向けていることに後ろめたさを感じ、斎は眼を側めた。


「私、もう大丈夫だから……だから、信じて、斎」


 花音の決意を前に、斎は言葉を返すことすらできなかった。


 ……嗚呼、何と滑稽な話だろうか。

 自分が護ろうとしていたのは、過去の残像、記憶の中の面影、遠きあの日の(・・・・・・)小さく幼い(・・・・・)ままの少女(・・・・・)

 ずっと傍にいたのに、ずっと見守ってきたのに、あくまでそれは『つもり』だった。

 こんなに近くにいながら、その姿を見つめていながら、今この瞬間に(・・・・・・)生きる彼女の姿(・・・・・・・)をまるで見ていなかった。

 そんなことに、今の今まで気づかなかったとは――。


 斎は力なく小さく頷いた。


「ありがとう」


 花音は囁いて、束の間微かに表情を和らげると、次の瞬間にはその面を精悍に引き締め、水羅に目配せで合図を送る。

 そして時機を見極めた水羅が結界の一部を解いたその一瞬に寸分も遅れることなく、花音はその身を壁の外へ滑らせた。

 背後で結界の穴が塞がり、元の完全な半球の形を取り戻す。

 それを確認して、花音はやおら右手を頭上に掲げた。

 すると、左右に分かれた炎が円を描くように地を走り、花音と彰人を周囲から隔離した。


 紅焔の光が夜陰を焼き焦がすかの如く照らしている。静かだが強く燃え盛る紅蓮の炎。

 徐々に勢いを増す炎から視線を逸らすことなく、花音はその黒曜の瞳でしかと真っ赤な光と向き合っていた。


 ……ずっと、炎が大嫌いだった。


 大好きだった両親の命を奪ったこの光が憎かった。

 それなのに守護者として受け継いだのは、よりにもよって――炎。

 その運命を恨んだ。呪いもした。


 ……ずっと、炎が怖かった。


 術を使うことに怯えて、頑なに拒んだ。

 そんな我が儘を、斎も炎珠もみんな許してくれた。その優しさに甘えていた。


 ……でも、それはもう終わりにすると決めた。


 炎に対する恐怖は今この瞬間も心の奥で燻っている。

 霊力の扱い方も、炎の操り方も分からない。

 炎珠がいないこの状況で術を行使することに対する不安はやはり拭えない。

 それでも。


 ――みんなを、斎を、護ってみせる……!


 花音の意志に呼応したかのように、煌々と輝く焔が勢いを増した。


 烈しくも柔らかな光が、戦慄に震える夜闇に凍てつく身体を優しく包み込む。

 初めて感じる温もりに、輝きに、皆魅入られるようにその光焔を見つめていた。


 それは、想像をはるかに超える凄まじい霊力だった。斎のそれにも匹敵する――否、或いはそれをも凌駕するほどの、強大な力の渦。

 しかしそれは敵意に染まるわけでも怒りに塗れるわけでもなく、厳しいながらもただただ静かに、憂いさえ感じさせる佇まいでそこにあった。


 はじめこそ興味のなさそうな表情を見せていた彰人だったが、圧巻の存在感を示す焔を前に、その表情が再び不敵な笑みを形作った。


「悪くない色だぁ……でも、俺が見たいのはこんなヌルイ色じゃねぇなぁ」


 血走った眼がギラリと光る。


「お前にも見せてやるよぉ! 本物のアカをさぁ!」


 言うが早いか、風を纏った彰人が突進する。

 思わず身を乗り出して息をのむ斎。その傍らで、張りつめた空気を纏う水羅と、いつでも援護に向かう体制をとりながら固唾を呑む倖介。

 だが当の花音は、狂気を顕わに迫る彰人を前にしながら、攻撃態勢を取るでも防御態勢を取るでもなく、身動き一つしない。


 しかし、彰人との距離がおよそ三尺まで迫った時、突如焔が彰人の前に立ちはだかり、壁を築いた。

 行く手に現れた灼熱の壁に、彰人は寸でのところで身を翻すと、無尽に刃を放つ。

 しかし無秩序に放たれたその刃さえも、一人でに動く焔がひとつ残らず蹴散らした。

 花音は終始指ひとつ動かしてはいない。花音が焔を操っている素振りは見受けられなかった。それでも焔は彰人の刃から確かに彼女の身を護っている。


 ……そう。

 まるで、花音が焔を使役しているのではなく、意志を持った焔が花音を護ろうとしているかのように――。


 すると、真紅だった焔が徐々に蒼みを帯びはじめた。そして見る間に、鮮やかな蒼からほの白いものへと、やがて絹の如き輝きを放つ純白の焔へ姿を変える。

 それは神々しささえ感じさせる、見る者に畏怖の念を抱かせるほどに清らかで美しく、神聖で冒しがたい稜威の光。


 悪しきを排するが如き荘厳な白焔に気圧され、その場に居合わせた全ての者が言葉を失い、魅入られるようにその眩い光焔を見つめている。

 無音の焔が風をも殺し、息をすることすら躊躇われるような静寂が夜陰を支配する。

 しかしその粛清は、突如破られた。


「どうしてよッ!?」


 混沌の空まで届く金属を引っ掻いたような女の声。

 背後に感じる新手の霊力――それに、倖介は覚えがあった。


「お前……」

「どうして……話が違うじゃない!!」


 闇の中から現れたのは、一人の女だった。凛々しい顔立ちをしてはいるが、その面は今にも泣きだしそうに歪んでいる。


「壊してくれるって、全部壊してくれるって言うから! だからあたしは……っ!!」


 突然の闖入者に、対峙していた花音と彰人も攻撃の手を止める。

 その場の全員の視線を一身に受け、美夜は震える声で悲痛な叫びを上げた。


「なのに……なのに、どうしてよぉっ!!」






 白い炎が混沌の闇夜を照らす。


 闇の中にあるは、複雑に絡み合った、何本もの運命の糸。

 其は、逃れようと踠けば踠くほど固く締め付けられる呪いの糸。

 抗いの末に生まれるは決して解けぬ結節点。


 さて、この縺れた糸を解す為には一体どうしたものだろう。


 人の手には、その糸はあまりに繊細で、その結節点はあまりに強固だ。

 これを元の通り解いてみせるなど、神のみに許された所業である。


 そこで賢い人間は考えた。素手で解こうとするから、叶わないのだ、と。

 そこで愚かな人間は考えた。ならば、道具を利用すればいいのだ、と。


 そうして人間が手にしたのは、鋭く無機質な――()


 たとえ糸がどんなに複雑に絡んでいようと、結節点がどんなに固く結ばれていようと、絶ち切ってしまえば……ほら、全て元通り。綺麗な糸に(・・・・・)なるじゃないか(・・・・・・・)――――。


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