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第弐拾捌章 真実の洗礼

 ――いつき――――


 たった三つの文字の組み合わせ。それは自分に割り当てられた、ただの標識にすぎなかった。その文字の羅列に、それ以上の意味なんてなかった。

 しかし、あどけない声がこの三つの文字を紡いだあの時、ただの文字の羅列にすぎなかったこの言葉が、自分の名前(・・・・・)になった。


 その声を聴く度に、あの声が紡ぐ名前を聴く度に、自分(・・)という存在を実感できた。他の誰でもない、自分がここにいる――そう、感じることができた。

 それはいつだってどんなときだって常に心の拠り所で、支えだった。

 片時も忘れたことなどなかった。忘れられるはずがなかった。


 ――それなのに。


 その声が、今はもう――聞こえない―――――。





 十四年前のあの忌むべき日――心の奥深くに真っ黒な魔物が生まれた。

 それから今日この日まで、堅く扉を閉ざし鍵をかけて、暴れもがくそれを必死に封じてきた。


 だが今、その封印は破られた。

 荒れ猛る修羅の情を封じる扉を護っていたのは、たった一つの小さな鍵。

 その鍵が失われた今。

 もう誰にも抑えることなどできはしない。


 長きにわたり封じられてきたそれは怒りに狂った咆哮を上げた。


 ――殺してやる――――!!




     *




「おい、一体どういうことだっ!?」


 襖を開けるなり倖介は怒声を上げた。

 怒気そのままに部屋へ入るも、三対の視線が向けられるのみで返答は一切ない。


「答えろよ……花音が南雲(やつら)に捕まったってのはどういうことだって訊いてんだよ!」


 その沈黙に耐え兼ね、倖介は再び怒声を張り上げた。

 しかし、その気迫に肩を竦ませるのみで、尚も誰一人口を開こうとしなかった。倖介へと向けられていた視線もいつの間にやら畳の上へと落とされている。

 やがて意を決したように重苦しい空気を破ったのは澄んだ女人の声だった。


《現在、夜光と炎珠、風牙が花音様の捜索にあたっておりますが、南雲の結界付近で霊力が途切れており追跡は難航しております。花音様の霊力の残滓の付近には南雲の一味のもの思しき霊力の残滓も認められており、加えて(わたくし)どもに霊力を辿れないとなれば、花音様は南雲の結界内におられるものとみてまず相違ないと思われます》


 淡々と状況を報告する水羅の声音はぶれることなく凛と張られていた。しかし彼女の本心が不安に満ちていることは、表情の読めない小鳥の姿からも十分に窺い知れた。

 すると、その報告に現実を突き付けられて耐えられなくなったのか、冴が消え入りそうな震える声を上げた。


「あたしが花音ちゃんに知らせちゃったから……。あたしが余計なことしなきゃよかったんだ……!」

「んなこと今更言ったって変わんねえだろ!!」


 今にも泣きだしそうな冴をすかさず一喝し、倖介は水羅に一瞥を投じた。


「とにかく南雲(やつら)んとこに乗り込むぞ! 水羅、援護しろ!」

《承知致しました》


 敵地に乗り込むとなれば、本来ならば一人でも多く仲間が欲しいことろだが、今の冴を連れて行ってもおそらく足手纏いになるだけだ――終始膝に顔を埋める冴の様子からそう判断した倖介は水羅だけを伴い部屋を後にしようとして、そこで足を止めた。


「……このこと、斎には?」

《風牙がお伝えしたはずですわ。わたくしたちが隠したところで斎様を欺き通すことはできませんもの……お伝えしないわけにはまいりませんわ》


 いつもの高飛車な体とは打って変った歯切れの悪い雷毘の物言いが、事態の深刻さを物語っている。


「チッ……っとに、世話の焼ける野郎だ……!」


 苛立ち交じりの舌打ちと共に苦々しく吐き捨てると、倖介は冷え切った廊下を玄関とは逆方向へと駆け出した。




      *




 風のない神殿内の灯明が不自然に揺れた。


「何の真似だ、ループス」


 突如背後に現れた気配に、飛鳥は肩越しに険を帯びた一瞥を投じた。

 飛鳥の視線の先にあったのは、雨に濡れた斎の姿。


「黙れ。貴様と問答するつもりはない」


 低く吐き捨てられた言葉には微塵の抑揚もなく、彼の表情にも瞳にも何の感情も宿ってはいない。

 だが次の瞬間、その黒曜の双眸に殺意という強く鋭い光が灯った。


「死ね」


 恐ろしいまでに静かに放たれた、恨みに満ちた言葉とともに風が唸る。

 迷いのない研ぎ澄まされた殺意に導かれた風の刃は、反射的に応戦体制をとった飛鳥を目掛けて一目散に宙を駆け抜ける。

 しかしそれは標的に辿りつく前に水の壁に遮られた。


「……退()け」


 突然目の前に現れた闖入者に、斎は僅かに眉を顰めた。そして収まるところを知らず苛烈を極める殺意はそのままに低く告げる。


「二度は言わない。死にたくなかったら退()け、倖介」


 その気迫を前に、倖介は思わず息をのんだ。気後れしそうになる己を叱咤し、気力を掻き集めて声を張り上げる。


「うるせえ! 少し頭を冷やせ、この馬鹿!! 俺らが仲間内で割れてる場合か!?」

「……仲間? 笑わせるな。駒にそれ以上の繋がりがあるか」


 感情的に声を荒げる倖介に対し、しかし斎はあくまで淡白に応じるだけだった。

 斎が放つ、肌に突き刺さるような鋭い殺意。しかしそれ以外のいかな感情も、今の彼からは感じることができない。


「まあいい。お前にも責任の一端はある。退()く気がないのならそのままでいい。そこの出来損ないの当主気取りと共にお前も死ね」


 言い終わるが早いか、斎の纏う風が再び殺意を孕んだ唸りを上げた。

 それを本能で感じ取った倖介は咄嗟に臨戦態勢をとった。そして水の防御壁を築き上げようと瞬時に有りっ丈の霊力を集中させる。

 だが、純粋な殺意以外一点の邪念もない洗練された刃は、護りの壁を築くに十分な時間を与えてはくれなかった。

 音もなく宙を裂いた刃は圧倒的な霊力を纏い、不完全な水の壁をいとも容易く突き破った。


 ……これが、正真正銘の力の差――。


 ――ヤベエ……!


 目の前に迫る風の刃に、倖介は思わず息をつめた。――その時だった。

 薄暗い神殿に、目が眩むほどの激しい閃光が走った。視界が白い闇に包まれる。

 それは刹那だったか、或いは暫しの時を要したか、徐々に光が闇に溶けていった頃。視界に戻った光景はしかし先ほどまでと何ら変わらぬものだった。

 はじめこそ意を得ない様子の斎だったが、やがて全てを諒解したように不敵に笑んだ。


「……そうか、お前(・・)か……『月影』――!」


 そして殺気に満ちた視線を飛鳥へ――いや、飛鳥の持つ黒刀・『月影』へと向ける。

 瞬間、漆黒の宝刀が大きく脈打った。

 そして。


《大正解、よく解ったな。その上、俺の名まで知ってるとは……って言ってもまあ、お前は知ってて当然か》


 どこからともなく聞こえてきた声は、今までに聞いたことのないものだった。


《しかし流石だな。そこまで無駄なく霊力を扱えるとは思ってなかったぜ。けど、今の(・・)は感心できないな》


 良く言えば鷹揚な、悪く言えば緊張感のないその声は、そこでやや声音を落とした。


《どう見ても、身内に向けていい限度を超えてるだろ》


 大らかな中にも非難の色を含んだ言葉に、既に戦闘態勢を解いていた斎は心底不快そうな視線を投じた。


「意外だったな……お前がそんなに饒舌だとは」

《人付き合いも愛想もいい性分なもんでね》


 嫌味のつもりが真正面から肯定的に受け止められ、斎は鼻持ちならないという体で片目を眇める。


「それにしても、その程度の器を主となすとは……名刀が聞いて呆れるな」

《手厳しいな。まあそう言ってくれるなよ》


 今度は露骨に毒を吐く斎に対し、さしもの月影も言葉の端に苦笑を覗かせた。


《まだ成熟途中なんだ。今に一人前の器になるさ》

「それは結構な見解だな。そこまで都合よく物事を解釈できる楽観的な(めでたい)思考回路というのはいっそ羨ましくさえあるよ」

《なら、お前も見倣えよ。物事悲観的に見てたら人生損するぞ?》


 再度の空振りに斎は面白くなさそうに舌打ちした。見事に嫌味の通じない相手――月影のようなタイプは斎の最も嫌いな部類だった。

 これ以上の対話を続けることに嫌悪感を抱いた斎は湧き上がってきた苛立ちを吐き出すように一つ息をついた。


「戯言はもういい」


 瞬間、斎の纏う空気が変わった。殺意こそないが、正しく敵と対峙するときのそれだ。


「僕の邪魔をするな、月影」

《悪いが、それはきけないな》


 斎の変化に触れてか、応じる月影の声色もまた心持ち険しくなる。


《お前と戦うなんて馬鹿げたことをするつもりはない。この場は退()け……イツキ(・・・)


 月影の口から紡がれたその名に、斎の身体が僅かに、だが確かに反応した。同時に黒曜の双眸に剣呑な光が宿る。


その名で(・・・・)僕を縛れると思うな……!」


 今までになく低く発せられた言葉。そこには再び激しい殺意が込められていた。


《お前を縛れるなんて欠片も思っちゃいないよ……。だがよく考えてみろ。ここで俺たちにその殺意を向けてる場合か? さっさと南雲に乗り込むべきだと俺は思うがね?》


 一方で月影の言葉には一点の敵意も含まれていない。しかし、その指摘が道理に適っているからだろうか、斎の殺意に固まった決意を揺さぶるには十分だった。


《お前を今この場に引き留めているのは、飛鳥に対する憎悪だ。だがそれはそんなに大切なものか? お前だって充分わかってるはずだ、何がお前をお前(・・・・・)たらしめているのか(・・・・・・・・・)。ここで飛鳥を殺したところでお前はお前には(・・・・・・・)なれない(・・・・)。なら復讐(そんなこと)にどれほどの意義がある?》


 諭すような月影の言葉に、殺意の奥で黒曜の瞳が揺れる。

 そして。


《お前は、お前の中に巣食うその感情(まもの)で、護ると誓ったものまで殺すつもりか?》


 それが決め手だった。


 脳裏に浮かぶ少女の――花音の姿。


「……知ったような口を利くな……!」


 斎は歯噛みして、震えるほどに拳を握りしめた。そして絞り出すようにそう吐き捨てると、ぶつけどころのない殺意を一言の上に乗せ、月影に投げつけた。


「今に見ていろ、二度と駄弁を弄ずることができないように叩き折ってやる」

「……え? あ、おい、斎!」


 捨て台詞と共に突然神殿に背を向けた斎の姿に、状況を飲み込めずにいた倖介は慌てて彼のあとを追った。 


《あれであいつもまだ子供だなあ》


 二人の姿が見えなくなるのを見計らい、月影は嘆息交じりに呟いた。


《本当あいつ(・・・)にそっくりだ。意固地なとことか負けず嫌いなとことか捻くれてるとことか》


 笑いをこぼす月影に、それまで沈黙を守っていた飛鳥は重々しく口を開いた。


「何故行かせた?」

《ん?》

「お前は南雲との戦いを好ましく思っていないのだろう? このままでは南雲に多くの血が流れるぞ」


 神妙な面持ちで発せられた飛鳥の言葉からは危惧の色が滲み出ていた。


《心配ないさ。あいつの殺意は南雲には向かない。それは断じてあいつの矜持が許さない。奪われた大切なものさえ取り戻せれば、あいつは大人しく戻って来る。尤も、その大切なものを傷つけられでもしたら矜持の制御も外れて暴走しかねないが……その時は周りがうまく対処するだろ》


 しかし深刻な表情の飛鳥に対し、月影の声音は実にあっさりとしていた。

 月影の論は一応筋は通っているのだが、どうしてそこまで自信たっぷりに断言できるのか、そのゆるぎない自信が一体何に裏付けられているのか飛鳥には理解に難い。


「俺たちは天城邸(ここ)に留まるつもりか?」

《冷静に考えてみろ、お前が下手に出てったら戦況悪くするだけだろうが》


 斎と自分たちが顔を合わせればまた面倒なことになる。だから自分たちはここで待機しているのが最善だ。それが月影の言い分だ。

 それは至極尤もな話で、理に適っているのだが、彼の真剣さの感じられない物言いがそうさせているのかどうにも飛鳥には素直に首肯することができなかった。


《ヴァルペスのことなら心配しなくていい。七宝の大半が天城(こちら)にある以上、彼女の命の保証はされているも同然だ》


 依然として承服しかねている様子を見せる飛鳥に、月影はそこで語調を和らげた。


《心配するな。いざとなれば俺がどうにかしてやる》


 月影としては飛鳥を安心させようとした結果の言葉だったのだろうが、当の飛鳥にとってはやはり、どこからその自信が湧いてくるのかという訝りと呆れとが綯交ぜになった感情を増幅させるだけだった。

 だがいずれにせよ、自分が今戦線に出ていくことは得策ではないことは確かだ。ならば月影の言う通り、ここで待機しているのが今の自分の取りうる最善の行動なのだろう。

 逡巡の末そう結論付けた飛鳥は円座(わろうだ)の上に腰を下ろした。


 激しく降り注ぐ雨音が神殿に響き渡る。

 ややあって、飛鳥は再び黒刀に語りかけた。


「今まで俺の呼びかけに応じなかったお前が、何故今になって出てきた」


 どこか棘のある詰問に、月影は飄逸とした声音に苦笑の色を乗せる。


《まあそう言うなって、俺にも色々あんだよ。でもほら、ちゃんと助けてやったろ?》


 開き直っているのか、それともこれが素なのか、あっけらかんとした物言いの月影に飛鳥は物言いたげな斜視を投じた。

 素直に対話に応じている今のうちに、恨み言の一つでも言ってやろうかとも考えたが、どうせまた飄々と受け流されるのが目に見えている。ならば、消化不良を起こすような真似を進んでするのは愚かしい。


「お前は何を知っている(・・・・・・・)?」


 そこで飛鳥が切り出したのは、疑念にも似た月影への疑問だった。

 今し方の斎とのやりとり――その態度も会話の内容も、飛鳥に釈然としない感情を抱かせるには余りあるものだった。

 月影は自分の知らない何かを知っている。では、その何かとは一体何なのか。


《何を、って言われてもなあ……とりあえず、全部?》


 表情を見られない以上、月影の本心を判断しうる材料は声音の変化だけなのだが、如何せん彼はそれをさせてくれない。本気か冗談か掴みどころのない物言いに飛鳥は月影の本心を完全に掴みあぐねていた。


「だがお前は俺が封印を解くまでの千年間ずっとあの場所に封じられていたんだろう」


 詮索しようとするが故に自然と遠巻きなものとなった飛鳥の問いかけに、月影は尚もそれまでの調子を崩すことなく応じた。


《まあな。でも封じられていたのは俺の霊力(ちから)であって、俺の魂じゃないっていうか……あ、今の他の奴らに言うなよ? 一応俺は魂ごと全部封じられてたことになってるから、実は魂は自由でした、なんて言ったらうるせえことガタガタ言う奴がいるからさ》

「つまり、お前はこの千年間の全てを見てきた、ということか」

《そういうこと。だから何だって知ってるぜ? 知りたいことがあるなら教えてやるぞ?》


 あっさりと自信たっぷりに言い切られ、飛鳥は言いようのない疲労感に襲われた。

 どうにも月影とは調子が合わない。もともと人付き合いが不得手であるという自覚はあるが、それにしたって月影は格別だ。言葉を交わせば交わすほど彼の調子に呑まれ、途轍もない疲労感に押し潰される。

 しかし、月影の気が変わらないうちに、訊くべきことを訊いてしまうのが賢明だ――そう判断した飛鳥は、さて何から問うたものかと黙考した。

 だが、いざ何から問うべきかと考えると質しておくべきことが山のように浮かんでくる。それは換言すれば、それだけ自分の知らないことがあるということ。

 しばし頭を悩ませていた飛鳥はやがて一つの結論(とい)を導き出した。


「お前は一体何なんだ?」

《ひ・み・つ》

「は?」


 まったく予想だにしなかった返答に、飛鳥は完全に面食らった。

 真剣に悩んだ末に選び出した問いに対しどう考えてもふざけているとしか受け取れない返答を寄こした月影に、さしもの飛鳥も苛立ちを覚える。


《悪いな、それはまだ答えられない。いずれは知ることになるだろうが……今はまだその時じゃない》


 そんな飛鳥の心境の変化を感じ取ったのか、月影は繕うように言葉を足した。


《機嫌悪くするなよ。俺にだって言いたくないことの一つや二つはあるさ》


 大人びて見えても、こういう時に不満を顔に出してしまうあたりが、飛鳥もやはりまだ成熟しきれていない年相応の少年なのだと告げている。


 ――こいつもこいつで、よくあいつ(・・・)に似たもんだな……。


 月影はどこか微笑ましそうに若き当主を宥める言葉を続けた。


《俺のことなんかより、訊くべき事が他にもあるだろ。七宝のこととか、南雲のこととか、そもそもこの因果が何から始まったのかとか》


 月影が例示してきたのは、どれも核心をつくものだ。いずれも今までどれだけ守護獣に問おうとも、古文書を紐解こうとも、回答を得られなかった問い。


「お前はその答えを俺に示せるのか……?」

《言ったろ、何でも知ってるって》


 そこで僅かな間を置き、月影は心なしか声色を落とす。


《……いい潮時だろ。お前に真実を見せてやる》


 ふと突然視界が真っ暗になった。


《七宝が生まれた理由、因果の始まりとなった事件、天城と南雲の関係、そして天城が背負った宿命の本当の(・・・)意味――。……いや、その前にもっと身近なことからはじめようか》


 頭の中に直に響く声。どうやら感覚を月影に支配されているようだった。


あいつ等(・・・・)が必死にひた隠しにしようとしてることを、ここで俺がばらしちまうってのも少々気が引けるんだが……でもまあ、事態が事態だからな。いい加減隠しきれるもんでもねえし、そもそもこの大事(・・・・)を隠蔽なんぞしたからここまで事が縺れたんだ。絡まった糸を解いてやるのも俺の使命の一つだろ》


 月影の言わんとしていることを、正直飛鳥は理解しかねていた。

 彼は何のことを言っている? 身近なこと? 大事? 隠蔽?


《それに何より、お前は知っていなきゃいけない。でなければ、お前は何時までたっても今の天城を(・・・・・)統括することはできない。真の意味での当主にはなり得ない。……とは言え、お前の関知し得ないところで生まれた(ひず)みだからな……それを、当主だってだけでお前に一切を押し付けようなんてのは虫が良すぎるし、許されることじゃないのは分かってる。真実を告げることがお前には酷だってことも、分ってる。だが、お前はそれでも向き合わなきゃいけない。天城を統べる(・・・・・・)当主として(・・・・・)、そして天城飛鳥として(・・・・・・・)


 気づけば、月影の声音はそれまでのそれとはまるで異なっていた。寛大さこそあれ、それは確かな威厳に満ちている。


《今から十九年前だ。天城に待望の世継が生まれた》


 月影の声が聞こえるや否や、突如目の前にとある景色が広がった。


 そこは見覚えのある場所だった。それは紛れもなく、今し方まで自分がいた神殿。

 そこに、数人の人影がある。

 そのうちの一人は褥に横たわっていた。長く美しい黒髪の女人だ。その女人を数人の女人が囲んでいる。


 すると突如、闇を裂くように産声が上がった。

 見れば、ぬばたまの髪の女人の腕には、この世に生を受けたばかりと見受けられる幼子が抱かれていた。母と同じ漆黒の髪を持つ、小さな小さな赤子。


「おめでとうございます、当主様」

「御名は何と? 当主様……波月(はつき)様」


 その名に、飛鳥ははっとした。


「……母、上……?」


 波月――それは紛れもなく母の名だった。

 先代の天城家当主・波月は、飛鳥が幼いころにこの世を去った。だから、飛鳥は母の顔を覚えていない。覚えているのは、あの美しい黒髪だけ。


(あの女性(ひと)が、母上……)


 この女人が母だという。だとすれば、その腕に抱かれているあの赤子は――。


「美しい月ですね……まるでこの子の誕生を祝福しているよう……」


 波月はついと窓の外へと視線を向けた。


「明月の夜に生まれた子。この子にはきっと、あの月のご加護があるはず」


 波月につられて視線を動かせば、漆黒の瞳を白銀の月光が射抜いた。

 穢れなく輝く美しき望月。凍てつくように澄んだそれは冷たくも清らかで――。


「この子の名は――――」


 我知らず明月に心を奪われていた飛鳥は、その声にはっと母を顧みた。

 ……いや、母の『声に』という表現は適切でないかもしれない。


 飛鳥は己が耳を疑った。心臓が早鐘を打っているのがわかる。息苦しさを覚え、呼吸も浅くなっていく。


 ――馬鹿な……!


 そんなはずがない、と感情が必死に否定する。しかし本能がその否定を否定していた。

 母の声が、いや、母が紡いだ名前が、それが真実たることを証明せんと、飛鳥の脳裏に何度も何度もその存在を強く訴えてくる。


 間違いない。

 今、母が紡いだ名前、それは――――、




 ――イツキ(・・・)――――――


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