第弐拾陸章 虚無の枷鎖
――いっしょに行こう……――
あれは冷たくも美しい氷輪の月が眩しいほどに輝く夜だった。
彼は言った。
優しく、しかし決意に満ちた瞳で。
あの時、彼の手を取っていれば良かったのだろうか。
そうすれば、彼は――――。
「……大丈夫。斎には……知らせなくていい」
短い言葉を幾つか並べたのち、花音は静かに通話を切った。
通話口の緊迫した声音が伝えたのは、何もかもが最悪の展開を辿っている現実だった。
なんとしても南雲が態勢を整える前に先手を打ち、事を収束しなければ――。
花音は端麗な相貌を僅かに歪めた。
斎に知らせる必要はない、とは言ったものの、いざ彼なしに行動することを考えるとどうしても不安が先に立つ。だがそれこそが、今まで無意識に彼に依存していたという証。
花音は小さく頭を振るとジャケットに袖を通した。
自分には彼ほどの力はない。
彼の足元にも及ばない。
……それでも、決めたのだ。
もうこれ以上彼に甘えるのはやめにしよう、と。
今まで助けられた分、今度は自分が彼の助けにならなければ、と。
そして――。
花音は手の中にある携帯の画面に視線を落とした。そこに表示されているのは『斎』の文字と彼の携帯番号。
……そして、何よりも。
今度こそきっと、あの手を取ろう、と、そう決めたから。
しばし黙ってその文字を見つめていた花音はやがて何かを決心したかのようにボタンを押した。
この八年間ずっと心の奥で悔い続けてきた――あの日彼の手を取ることを拒んだことを。
もしもあの時、彼の手を取っていたならば、彼の隣にいることを選んでいたのならば、変えることができたのだろうか。
彼の背負う重荷を軽くすることができただろうか。
彼の苦しみを和らげることができただろうか。
彼の悲しみを癒すことができただろうか。
彼の闇を祓うことができただろうか。
彼を救うことができただろうか。
今でも夢に見る、あの隈無き凍て月。
それは哀しいほどに明かで、狂おしいほどに麗らかで、苦しいほどに冷やかで。
闇夜にひとり佇むその姿は今にも砕け散りそうなほどに危うく、それでも負けじと必死に放つ輝きは寂しそうに揺れていた。
……願わくは、孤独なあの愛しい凍て月がもう一度真の輝きを取り戻さんことを――。
*
自分に与えられた『陸上』という姓が嫌いだった。
日本随一の大企業・陸上グループ会長の御曹司――それが、自分に与えられた役割。
ただ優雅に立ち振る舞い、他人に愛想を振りまくことだけをプログラミングされた人形の如きそれが『陸上斎』に求められたあるべき姿だった。
皆が羨望の眼差を向ける何一つ不自由ない生活と身分――そんなものはただのまやかし。
父親だという男も、母親だという女も、自分たちの世話をする使用人たちも、全ては紛い物の家族を構成するために用意されたもの。
音に聞く栄えある『陸上』の名声など所詮は虚飾の塊にすぎない。
……それなのに。
真実を知らないお目出度い連中は、そんな虚構に栄光を幻想した。
皆が皆、『陸上』の名の前に目の色を変えた。
取り入ろうと必死に媚を売る者。
恩恵に肖ろうと無駄に胡麻をする者。
矜持の欠片もなく進んでお先棒を担ぐ者。
歓心を買おうと煩わしいほどに諂ってくる者。
目の前に現れる誰もが、神でも崇めるかの如き称賛を口にした。
それが、どうしようもなく厭わしかった。その言動の一つ一つが癪に障った。
――何も知らないくせに……。
愚かな連中は夢にも思っていないだろう。挙って『鬼』の一族を賛美しているなどとは。
そのなんと滑稽なことか。
上辺だけで万事を判ずるその浅はかさに、軽蔑と落胆を抱かずにはいられなかった。人間がいかに愚鈍で賤劣な存在であるかを思い知らされた。
そして何よりも、幼心にその現実を知らしめたのは、誰一人として疑問を抱くことなく、この虚無の人形に現をぬかしているという事実だった。
両親にとって大切だったのは、『陸上』の名に恥じない優秀な跡継ぎ。
そして周囲の連中が見ているのは『陸上斎』という器。
……そう。
陸上を背負って立つに相応しい秀逸な『陸上斎』ならば、誰でもよいのだ。『陸上斎』は自分である必要はない。
自分という人間は必要とされていない。自分という人間を見る者などいない。
……だから。
居場所なんて、あろうはずがない。
全てから存在意義を否定された自分が人並みに居場所を望むなど――そんな決して与えられるはずのないものを欲する方が愚かなのだ――。
勢いよく地を穿つ雨音が寂寞とした部屋に響いている。
時折カーテン越しに雷鳴とともに稲光が暗晦の空間を照らした。
いつもなら耳障りと感じる雷鳴も雨音も、どういうわけか今は心地よくさえ聞こえる。
ベッドに身を横たえ、斎は虚ろな瞳を閉じると押し寄せる微睡の中に意識を落とした。
この身に流れている血が、狂いそうなほどに憎かった。
己に課せられた宿命も役割も、その全てが呪わしかった。
陸上斎という存在が、そして、誰にも必要とされず何処にも存在を許されない自分という存在が酷く疎ましかった。
己が陸上斎であることから、そこに付き纏う煩わしい一切から、ただ逃げ出したかった。
……どうしても、耐えられなかった。
苦しくて辛くて虚しくて悲しくて――。
全てから目を逸らして無様に逃げ出すことしかできなかった。
何もかもをかなぐり捨てて、命よりも尊いはずのたった一人の大切な少女さえも置き去りにして……。
そうして独り、逃げるようにして、イギリスへ渡った――――。