第弐拾弐章 賽の波紋
灯明の炎が大きく揺らめいた。
夜陰の静寂に包まれた神殿に光がうねり、床に描かれている六芒星を妖しく照らし出す。
それを背後に、飛鳥は手渡された七宝を一つ一つ手に取り丹念に熟視していた。
「ご苦労だった。下がっていいぞ、ヴァルペス」
それらが本物であることを確認し終えると、宝を献上しに参じた花音に辞去を命じる。
初めて見る天城家当主の姿を目に焼き付けるかのようにただ静かに見つめていた花音は、無言のまま恭しく一礼すると無駄のない所作で神殿を後にした。
冷たい回廊を進みながら、花音は脳裏に焼き付けた当主の姿を呼び起こす。
(彼が、天城飛鳥……)
それは、それまで抱いていた当主の像とは遠くかけ離れた少年だった。
天城の当主は人に非ず――軽蔑と揶揄を込めて周囲の人間はそう言った。
天城の一族は鬼の一族。その当主は鬼の中の鬼である、と。
だがそれは一般人の中に限ったことではなかった。
同じ天城一族の中でも、当主は冷酷非道な血も涙もない冷血漢と伝えられ、身内にさえも慈悲を見せないと畏怖されていた。
だが、今し方見えたあの若き当主はどうだろうか。
大人びて見えてはいてもまだ幼さの残るあの少年が、周囲の人間がいうような人物だとは花音にはとても思えなかった。
何故ならば。
彼は何故だか無性に、斎を彷彿とさせたから――。
それは、彼の夜陰を切り出した様な漆黒の髪のせいか、或いは、全てを飲み込む深淵の闇のごとき黒曜の瞳のためか。
否、そればかりではない。時折見せる表情や雰囲気も驚くほどに斎と似通っていた。
……だからだろうか。
初めて見えたあの少年に、えもいわれぬ親近感を抱かずにはいられなかった――。
*
それは、初めて見る本物の殺意だった。
激情に鋭さを増した眼光に射抜かれ、全身から放たれる微塵の容赦もない殺気に、呼吸すらも忘れてただ呆気とするほかなかった。
そんな倖介に歩み寄ると、斎は躊躇いなく倖介の胸ぐらを乱暴に掴みあげた。
「余計なことをしてくれたな……!」
地を這うような声音に、倖介は氷塊が背筋を滑り落ちるのを感じた。
何を以て『余計なこと』なのか、彼が一体何にそこまでの怒りを見せているのか、その意図を測り兼ね、謂れのない殺意を向けられていることに不快感を覚える。だがそんなものは圧倒的な気迫と身に迫る危機感の前に掻き消された。
「あぁ!?」
本能が恐怖と警告を告げている。
気を抜けば意識を持って行かれるほどの緊迫した空気に、倖介は自我を保つためにあらん限りの精神力で怒声を張り上げた。
「俺らの使命は七宝を集めることだろ!? 何の問題があるってんだよ!?」
倖介のある種真っ当と思われる言い分に、しかし斎は憎悪と侮蔑を顕わに舌打ちした。
「これだから馬鹿は……」
憎々しげに吐き捨てて力任せに倖介を突き放すと、苛立ちそのままに語気を強める。
「七宝を奪われた南雲がこのまま大人しく黙っているとでも思ってるのか!? 南雲がそんな温い連中だったら、誰も初めから苦労なんてしなかっただろうさ! 当然奴らは七宝を奪い返しに来る。天城が先に手を出した以上、南雲も武力に訴える大義名分がある以上、目的遂行のためにはもはや手段は択ばないだろうな。……解るか? お前は愚かにも自ら南雲に攻め入る口実を提供してやったんだよ!」
神の一族である南雲は、正当な理由なしには公に事を起こすことはしない――いや、正しくはできないのだ。そうであるからこそ、いくら天城が鬼の一族とは言えども、天城からアクションを起こさない限り南雲は一切行動を起こさなかった。七宝をめぐる対立の中にあっても、その境界線は守られていた。いわばそれは、天城を護るための最後にして絶対の砦。……それなのに。あろうことか、その砦を自らぶち壊したのだ。
「だからあれだけ時期を待てと言ったんだ! 大局を見ずに目先の小事にとらわれるからこんな莫迦げた愚行に走るんだ。何のために僕が……っ!」
――何のために『指輪』を南雲に引き渡すという背信行為をしたと思ってる……!
やりきれない思いに、斎は端正な相貌を歪めた。
それと同時に、斎の放つ殺気が僅かに薄らぐ。
幾分か息苦しさから解放された倖介は、ここぞとばかりに反撃に転じた。
「うるせえな! 戦略なんざなくたって結果出せりゃ問題ねえだろうが!!」
「お前は本当に馬鹿だな。その結果が問題だって言ってるんだ! 結果さえ出せればそれがどんな内容の結果でも構わないとでも思ってるのか? ろくな成果を伴わない結果を一般に失策っていうんだよ! 蹉跌していながらよくも偉そうに結果だなんだと言えたな。それに、そもそもお前に知略も戦略も端から期待なんかしちゃいない。勘違いするな」
軽蔑の色を隠しもしない斎の物言いに、倖介は不機嫌そうに語調を荒げた。
「だから俺らに求められてたのは七宝を全て回収することだろうが!! その目的は果たしたんだ! それの何が問題なんだよ!?」
言って、それに、と倖介は続ける。
「オマエだって自由になれただろうが! 何の不満があんだよ!?」
その言葉を聞いた瞬間、斎の表情が変わった。
「……それで、僕に恩を売ったつもりか?」
低く唸るように言って、斎は高圧的にはっ、と鼻で笑った。
「思い上がるなよ」
黒曜の瞳に妖しく不敵な光が宿った。
「お前ごときがこの僕に並べると思うな……! 言っておくが、僕はお前に助けを乞うた覚えはないぞ。第一、もとより僕は自由の身だ。僕がどんな所業をしようと、誰も僕を裁けやしない。僕がその気になれば全てをぶち壊してやることだってできるんだ……誰も僕に手出しなんてできないさ。見くびるなよ、僕を誰だと思ってる」
斎は終始居丈高に言い放つと「お前に同情される謂れなどない」と倨視を投じた。
その態度に、今度こそ倖介の中で何かが音を立てて切れた。
「ざけんな! 誰もテメエのためにやったとは一言も言ってねえだろうがっ! 自惚れんな、バカヤロウ!!」
一息に言い切ると、勢いそのままに鬱積していたものを吐き出すように続けた。
「大体、バカはどっちだ!? テメエこそ勝手に南雲に『指輪』渡しやがって! 何考えてんだよ!?」
怒りを顕わにしたその問いに、斎はあくまでも冷淡な視線を向けるのみで、答える素振りは微塵も見せなかった。
熱のこもった激しい眼光と凍りついた鋭い眼光とが交錯する。
「……もういい」
無言の戦いから先に降りたのは斎の方だった。
倖介に背を向けると、怒り任せに開けた衝撃で少々歪んだ障子戸へと歩き出す。
「七宝が集まった以上、これ以上天城のくだらない使命だの責務だのにつきあう義理はない。これからはただの『陸上斎』として、好き勝手自由気ままにさせてもらうさ。これで漸くお前のお守りからも解放されると思うと清々しい気分だな。馬鹿といると馬鹿が移る」
「あーそうかよ! 好きにしやがれ! 俺だってせいせいすらあ!!」
背で倖介の捨て台詞を聞きながら、部屋を去る間際斎は何かを思い出したように「そうだ」と足を止めた。そして一顧だにすることなく、よく通る冷え切った声音でにべもなく言い放った。
「アレに言っておけ。『この先何があろうとも二度と僕を巻き込んでくれるな。そして金輪際その面を僕の前に晒すな。再び見えることがあればその時は――命の保証はしない』とな……」
*
床に描かれた六芒星形の陣を前に、飛鳥は片膝をついた。
六芒星の各頂点には『勾玉』『指輪』『盾』『杖』『髪飾り』そして『剣』が、中心には二つに割られた鏡が据えられている。
「……これで、すべてが終わる」
細い呟きが闇に吸い込まれるように消えた。
飛鳥は厚い暗雲の彼方にある明月を仰ぎ、そっと瞑目した。
目の前に鮮やかな薄紅色が広がる。それは遠き日の淡く鮮明な記憶。
その記憶の中に住んでいるのは、美しい黒髪の一人の少女。
記憶の中の彼女を訪ねれば、決まって彼女は待っていたといわんばかりに自分を出迎えに来てくれる。そして必ず口にするのだ。
――約束よ――
幼い少女の声が響く。悲しそうに笑いながら、嬉しそうに泣きながら、少女は切なくも愛おしそうに繰り返す。
飛鳥は重い瞼をもたげると、七つの宝を鋭い光の宿る双眸に映した。
「ああ、約束を今こそ果たそう……」
記憶の中の少女に言って、飛鳥はついと背後に視線を投じた。
「すべてお前の指示通りに整えた。儀式はこれでいいんだな?」
しかし、視線の先に広がる薄闇から返答はない。
異論がないということは即ち是ととって差支えないということだろうか。
飛鳥は確認するように渦巻く闇に向かって名を呼んだ。
「夜光」
《……ああ》
ややあって返ってきたのは低い黒猫の声。
《これで『真実の鏡』は本来あるべき姿を取り戻す》
黒猫――夜光は言ったきり再び口を噤んだ。
夜光の言動に、飛鳥は一瞬怪訝そうな面持ちを見せたが、すぐに視線を六芒星の上の七宝へと戻した。そして霊力を高めるために精神を研ぎ澄ませる。
陣の四隅に置かれた灯明が燃え盛った。
光に照らされる若き当主のそのまだ小さく頼りなさの残る背を見つめ、夜光は複雑な思いを抱いていた。
この『鏡』が示すのは、かの日々の真実。
――今更過去を掘り返して何になる……。
鏡が一つになれば、知らなくてもよい真実を知ることになる。その時、全てを知ってしまった時、この背はそれでもなお全てを背負って立っていられるのだろうか。
真実は誰一人、何一つ救ってはくれない――だからこそ、封じたのだ。
その真実を暴くなど、誰もそんなことを望んではいないのだ。
――それとも……。
夜光は六芒星の上に安置された一振りの黒太刀に視線を投じた。
――貴方は、それを望んでいるのですか……、兄上……。
遠い日の、あれは眩しいほどに輝く望月の夜だった。
――なあ、神様はなんでこの世界を作ったと思う――
何の脈絡もなく唐突にそう問いかけてきた彼は、神話でも語るかのように言った。
曰く、全能の神は退屈に時間を持て余し、楽しみを求めてある遊びを創ることを思い立ったのだ、と。
神は、世界という舞台と、人間という役者を創った。
不完全な人間に生命を与え、それが生まれて果てるまでを眺める――いわば、この世界は神にとっての箱庭。
だが、ただ傍観するだけでは飽き足らなくなった神は、盤上に賽を投げた――駒の運命を決するための賽を。
駒は賽の目には逆らえない。
そうだとすれば、駒に過ぎない人間がいくら賽によってもたらされる運命に抗ったところで、所詮は無駄な足掻きなのだと、彼は言った。悲観した風はなく、だがどこか自嘲を浮かべて、そう言った。
運命を決するのは、万物を創り給うた全能なる『神』の投げるたった一つの賽。
そのたった一つのちっぽけな賽が生み出した大きな波紋はやがて多くの駒を飲み込む。
運命に翻弄される駒には、その波から逃れる術などない。
だが、もしも――いや、だからこそ、もしも。
――神様が決めた運命ってやつをほんの少しでも捻じ曲げることができたら、それって凄いことだと思わないか――
そんな子供じみたことを、彼は屈託のない笑みに乗せて言った。
根底からして夢物語だ。まともに取り合うことすら馬鹿馬鹿しいような御伽草子。
――俺は、運命を超えてみせる。一人でいい気になってる神様に、一泡吹かせてやるんだ――
だが、夢見る幼い子供のような瞳で、そんな分不相応も甚だしい尊大なことを自信たっぷりに言ってのけた彼が、どうしようもなく眩しく見えた。
曇りなく澄み切った白銀の氷鏡が、彼へと輝く月華を惜しみなく注ぐ。
まるで、小さな希望を愛でるかのように、淡い夢を慈しむかのように、そしてその儚い志を讃えるかのように――。
――お前は俺と神様、どっちが勝つと思う? 言っとくが、俺は負ける気はさらさらないぜ――――